JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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対談:ソーシャルメディア進化論とは?

世界の誰もがつながりうるインターネット時代、私たちを取り巻く文化や経済、社会はどう変化していくのか? 日本最大のファンコミュニティクラウドで300社超のマーケティングを支援してきたクオン代表 武田隆が、各分野を代表する有識者との対談を通し、未来を読み解く「知」の最前線を探索します。(2012年〜2019年、ダイヤモンド社が提供するビジネス情報サイト「ダイヤモンド・オンライン」にて公開されました)

オンラインの擬似的な親密さを「リアル」に転換できるか 

いまやアメリカでは、フェイスブックで浮気の証拠が見つかって別れる“フェイスブック離婚”まで出てくる時代。オンラインといえども実名性の高い環境では、私たちは自分が求められる役割をこなそうとして「ちょっといい自分」を表現せざるをえなくなり、結果的に疲れてしまう。かといって、匿名性の高い環境にもそれはそれで課題がある。信頼関係が築きにくいのだ。
かねてより、「オンラインでの匿名性を媒介にした擬似的な親密さは、あくまで擬似的でしかない」と指摘していた社会学者の宮台真司氏。今回はその宮台氏をゲストに迎え、オンライン上でも「深いリアリティ」に触れられる仕組みづくりの可能性について考えてみたい。 

フェイスブックが望まない情報を引き寄せてくる

武田隆(以下、武田)私たちの会社で最近、国際オンライン・グループインタビューというリサーチ手法を使ってオランダ、アメリカ、インドの3ヵ国でフェイスブックの利用実態を調べました。 

インターネット上に参加者しか見ることのできないクローズドな部屋を作って、長期間にわたってあるテーマの質問に答えてもらうことで、消費者の本音を引き出すリサーチ方法なんです。 

その結果オランダアメリカの40代はほぼ80%「人間関係に疲れる」という理由でネガティブに捉えており、フェイスブックから離れ始めているようでした。 

宮台真司(以下、宮台):アメリカでは、フェイスブックで浮気の証拠が見つかり別れる「フェイスブック離婚」が一般的にも知られてきていますね日本でも勝手に過去の写真をタグ付けされて困っている女の子も多く、僕の周囲ではフェイスブックからはどんどん撤退していますね。 

武田以前宮台さんはこの件に関し「ロール・コンフリクト」(自分に与えられた役割をこなすことができず葛藤すること)という言葉で説明していらっしゃいました。求められる役割を演じようとするなかで、ちょっといい自分を表現せざるをえなくなり、疲れてしまう。今回の調査結果からそうした一面垣間見られました。 

宮台:もともとプライバシー権は、住居不可侵権から発展したものです。背景には、見せたくない自分を隠し、見せたい自分を見せる、自己情報制御の発想があります。自己情報制御には時間や労力や金銭的なコストがかかるので、コストとベネフィットを比較して、どの程度まで自己情報を制御するべきか、各自が判断しているわけです。 

ところが、フェイスブックのようなメディアを利用すると、先ほどタグ付けの話もありましたが、自分に関する望ましくない情報が、集中砲火を浴びたように勝手に自分のまわりに積み上がっていです。その火の粉を払うには大きなコストがかかります。取引コストを減らすためのインターネットだったはずなのに、フェイスブックを介在させたほうが、取引コストが大きくなるという本末転倒なところがあるですよ。 

オンラインの親密さはあくまで擬似的なもの。

武田:宮台さんは、オンライン・オフラインに限らず「匿名の親密さ」というテーマを語っておられますね。 

宮台:はい。anonymous intimacyという概念自体は、テレクラについて考察していた25年くらい前に考えたものです。 

武田:その概念は、まったく色あせないどころか、今にふさわしいテーマだと思います。 

宮台:僕は、ずっと以前からオンラインでの匿名性を媒介にした擬似的な親密さは、あくまで擬似的でしかないと思っていました。今回の東日本大震災でそれが明らかになったのではないでしょうか。 

オフラインのコミュニケーションで日頃から信頼関係を醸成していた人たちは、食料を融通したり、僕みたいに知り合いの子どもを連れて疎開したりと、他者のためにかなりのコストを払う用意がありました。そこには情緒的なコミットメントあったし、将来的に貸しは返してもらえるだろうと予想できるほどの緊密な人間関係の継続も期待できました。 

しかし、オンラインの関係性はこうしたベーシックな信頼がないので、コストをかけるのがリスクになって、他人の子どもたちを引き受けて疎開するなんて、ありえないですね。 

武田:「貸しが返ってくる保証がない」というわけですね。 

宮台そうです。オンラインでの共同性だけでは不十分で、オフラインほどのリスクを負えません。これは震災がなくても、おそらく先進各国でだんだんと明らかになってきつつあることだと思います。 

武田:一方で、オンラインの関係性を擁護する声もあります。東日本大震災のあとに、メディアの接触ごとの被災者の心情について、オンライン・グループインタビューを行いました。 

結果としては、マスメディア、とりわけテレビが不人気でした。テレビは、非被災地に向けた報道が多く、被災地にいる自分たちはフラスコの中に入れられて観察されているような気持ちになったそうです。対して、インターネットでは一対一のやりとりが展開されました。自分に向けて発信された情報に触れて「あたたかい」と感じたそうです。 

被災時に、オンラインゲームの仲間は頼りになるか

宮台:それは、オフラインの側に問題があるからです。僕は今回の震災で、日本ではオフラインのコミュニケーションですら十分に信頼できなくなっている、と感じました。その例が、避難所における配給物資の分配です。共同体が空洞化していて、「アフターユー(お先にどうぞ)」といえるだけの信頼関係がないので、「なんであの人が先なんだ」ともめることを懸念し、全員分が揃うまでは配らないというおかしなことになりました。
僕が派遣した調査員によると、お寺の檀家衆や宗教団体を中心とする避難所は、比較的平和だったそうです。それは、彼らが日頃から緊密な共同体のなかで生きていて、「アフターユー」と言えるからだと思います。

武田:日常的に、ある程度太い関係性のパイプがある人たちは救われるけれど、オンラインのソーシャルゲームでパーティー(行動を共にする仲間)を組んでいるくらいの関係では、非常時にはほとんど頼りにならないということですね。 

宮台:そうです。従来型のオフラインのコミュニケーションにどれだけ信頼醸成が可能な仕組みや実績があるのかということが、否定的に照射されたので、「その程度であればオンラインのほうが有効だ」と考えられたのだと思います。 

武田:先ほどの、国際的なフェイスブックの利用実態調査でおもしろい傾向が見られました。アメリカ人はフェイスブックを利用してみて初めて疲れることに気づいたようですが、オランダ人は、はじめからフェイスブック疲れを予想していたようなんです。
彼らは治水文化をもち、地域間のコミュニケーションが他国よりも強い。もともと地域のリアルなソーシャルネットワークがしっかりと根を張っているため、そこにフェイスブックが介在したところで良くも悪くもならないと考えているようなんです。

宮台:とてもよくわかりますね。フェイスブックのような実名のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)は、もともと存在している同心円的な人間関係をベースにすることになりやすいですよね。
ところで、これを地域の空洞化していく関係を埋め合わせる再活性のツールとして使うというケースはあるのですか?
 

本音のコミュニケーションを起こすための「仕組み」

武田:うーん、地域と実名SNSというのは、私の感覚からいうと相性が悪くて……。
SNSというメディアの特性上、連絡網のように個人と個人が扇形につながるかたちをとるので、つながればつながるほど窮屈になる。ロール・コンフリクトが起こりやすく、地域の人間関係をより硬直させてしまうというジレンマがあるんです。
 

宮台:なるほど。 

武田:これまで、さまざまな地域SNSができたのですが、そのほとんどがうまくいっていません。でも、私はこの現状は変えられるのではないかと思っています。
オンラインの利点を整理すると、コミュニケーションにかかる時間と空間による負担が低減するということが挙げられます。これを利用すれば、全国同時に、長期間にわたって参加するコミュニティの設計が可能になります。
ここに匿名性を維持したまま参加できる仕組み、つまり、立場の制約を軽減させる仕組みを加え、さらに、コミュニティをあたたかく、かつ有意義な場にする役割を担った司会進行役が入ると、参加者が「私の声が求められている」と感じることができる本音を吐露しやすい環境が生まれます。これを利用できないかと考えました。
たとえばある教育関連企業のオンライン・グループインタビューで、通信教育を始めた理由について質問しました。最初は「父親の意向で……」という答えが挙がってくるのですが、1週間を超えたあたりから「実は、塾に行かせるお金がなくて……」と本音が出てくる。
このように隠れた声はひとりひとりの生活者のなかにたくさん眠っています。そうした生活者の生の声を抜粋してつくったサイトが、いますごく好評です。同じように生の声だけで制作した英会話教室のサイトでは、そのページを見た方の7.8%が無料レッスンに申し込んだという結果が出ました。
 

宮台:それはすごいですね。 

武田:はい。このことを地域コミュニティと関連して考えたときに、匿名性を担保したうえで、地域に隠されたさまざまな悩みや希望を集め、出てきた声を地域のウィキペディアのようにまとめたらいいのではと思うです。
ただSNSをつくって、なにか発言してくださいといわれても困ってしまいますし、顔が見えるご近所どうしでまとめられると、関係性が硬直してくる。場をあたためることができる司会進行役がしっかり入り、みんなの本音を集める。そのような発話環境をつくることが重要だと思います。
 

つながればつながるほど窮屈になる。このジレンマを解消する鍵はコミュニケーションの アーキテクチャ(設計)に隠されている。

宮台:たしかに人は「さあ、ここで話しましょう」といわれても話せないものです。
僕はいま、政治領域で、議会制民主主義の弱点を補完するために、住民投票の利用を提案しています。これは、世論調査による政治的決定ではなく、住民投票に先立つ数ヵ月間に住民ワークショップを繰り返して、行政や企業や専門家にあらゆる情報を出させ、互いに「気づき」を獲得していくことを目的とします。
でもワークショップは、みんなで話せば「気づき」が得られるというほど、生やさしくはない。そこで僕は、デンマークで開発された「コンセンサス会議」という形式を導入することを提案して、摸擬コンセンサス会議を繰り返しています。会議に独自のアーキテクチャを仕込むことで、初めて価値観の違う者どうしのシャッフリングを起こすことができるんです。
 

武田:オンラインであろうとオフラインであろうと、どれだけ深いコミュニケーションが起こるかどうかがポイントになるということですね。 

宮台:はい。武田さんがおっしゃるように、地域にSNSが根づきにくいのは、アーキテクチャが吟味されていないからなんですね。どんなアーキテクチャを仕込むかによって、コミュニケーションの実りが大きく変わってくるわけです。 

他者の「深いリアリティ」に触れることで心が変化する

武田:以前、明治学院大学と産学協同である実験を行いました。AとBというまったく違う価値観をもつ人たちをオンライン上の部屋に集め、3つのグループに分かれてディスカッションしてもらったです。
ひとつはAだけのグループ、もうひとつはBだけ、そしてAとBを混ぜたグループ。結果、1ヵ月後にはAとBを混ぜたグループが、圧倒的に他者に対する寛容性が上がりました。異なる価値観がどういったプロセスや背景から生まれてきているのかを知ることで、見える世界が変わったようです。
 

宮台:なるほど。僕が関わっている市民運動の世界でも、何かを現実化しようとすると、かならず違う価値観や事実認識を持つ人間とコミュニケーションしなければいけなくなります。放っておくと、誤解による対立が生じやすくなります。
たとえば、原発住民投票に無関心な層がいると、投票推進派は「こいつらは敵だ」と考えがちです。でも、無関心層の話を丁寧に聞いていくと、敵味方などという単純な構図ではないことに気づきます。その裏には、経済的格差ゆえに子どもの食材に気を配れない親たちが、気を配れない自分を責めたくないので、認知的整合性理論的に放射能に無関心にならざるをえないという事情があることがわかってきます。
 

武田:お互いの多様性が確認されるわけですね。 

宮台:そう。どんな事実や価値の認識にも、それに先立つそれなりの前提があるものです。そうした前提を互いに理解すれば、誤解が解け、手を結ぶために必要なリソースも見つかるです。 

武田:私たちの心はお互いの「深いリアリティ」に触れることで変化します。小さい一歩のように見えますが、そこにはコミュニケーションの希望があるようにも思います。 

心の情報処理システムを変革する「気づき」

武田隆(以下、武田):オンライン・グループインタビューの参加者に調査後のアンケートをとると、96%が「もう一度この調査に参加したい」と答えます。3週間かけて5400前後のワードに答えてもらうので、それなりの負荷がかかる調査なのにもかかわらず、ほとんど全員がまたやりたいと言っています。オランダ、インド、アメリカで行った調査でも同様でした。 

宮台真司(以下、宮台):それは、おそらく「気づき」があるからだと思います。コミュニケーションを通じて、思考のフレームや価値観が変わるという経験は、貴重ですからね。 

武田:私は以前、ひきこもりのコミュニティを観察することで、価値観が変わりました。私自身はひきこもりの経験がないので、最初は「ただ甘えているだけなんじゃないか」と思っていたです。
でもある日、コミュニティのリーダーが「明日、このグループは解散します。僕は、病院に通おうと思う。外に出ます」と宣言した
です。すると、メンバーの中で「私もすぐには無理だけど、あなたの後を追って外に出たいです」という応援や、「裏切られた」という落胆が声が上がりました 

こういった発言をつぶさに見ていると、「本当に出ようと思っても出られないだ」ということがわかります。私は自分の思考のフレームが間違っていたことに気づきました。 

宮台:なるほど。しかし、それは武田さんにとって価値観変容のきっかけになったかもしれませんが、コミュニティ内のメンバーにとってはどうなんだろうという疑問があります。 

基本的に、均質なコミュニティの中にいるかぎり、人の心理システムは変わりません。人は自分の中に、簡単には変えられず、しかも自分では意識できないフレームを持ちます。スクリプトとかストーリーとか神経言語プログラムと呼ばれるものです。それを通してすべての物事を認識しています。 

たとえば、あるものが有害に見えたり、好ましく見えたりするのは、それが実際に有害か好ましいかは関係なく、そのように情報処理するフレームが、自分の中にあるからだということです。 

同じカテゴリの人間だけでコミュニケーションしているかぎり、そのフレームを上書きするフレームができあがる可能性は薄いです。ある種のノイズ撹乱要因が必要なのです。たとえば、突然に思いがけないことを発言する人が出てくると、認識のホメオスタシス(恒常性)が崩れますが、従来のフレームでは気づけなかったことに気づくチャンスになります。 

武田:私がコミュニティの属性と異なる属性を持ち、コミュニティの外にいる人間だったから、異なる価値観に触れたことで変容が起きたということですね。 

夜這いのような強制的マッチングシステムが消え、恋愛が市場化された現在は…

武田:インターネットは、時間的、空間的、うまくやれば立場的な制約も飛び越えやすい環境です。だから、異なる価値観や言語体系を持ったグループを飛び回って、混ざり合う体験がしやすいはずなのですが、フェイスブックを見ているとそういうことはあまり起きていない気がします。 

宮台:その理由は簡単です。インターネットにはコアーシブ(coercive=強制的)なコミュニケーションがないからです。 

武田:ああ……!たしかにそうですね。 

宮台:性愛で考えるとわかりやすい。昔は夜這いが慣習化されていましたが、実は性的奔放などではなく、若衆宿などの共同体システムを背景とし、それなりの女にそれなりの男が夜這いをかけるコアーシブなマッチングシステムでした。
夜這いや若衆宿が消えた高度成長期には、かわりに体育会的ホモソーシャリティが機能しました。そこもコアーシブなコミュニケーションで、「オンナは苦手で……」なんていう言い訳は許されず、先輩に早朝ソープに連れていかれたものです(笑)。
 

武田:まさにコアーシブですね(笑)。 

宮台:でも、いまは恋愛がコアーシブでなくなり、市場化されました。誰でも好きな人を選んでいいというのは、自由に見えて実は不自由です。出会い系の例がわかりやすいから、紹介しましょう。
男女にABCのランクがあるとすると、男はどのランクの女にも向かいますが、女はAランクの男にしか向かわないので、Aランクの男が一瞬で払底する。その結果、どのランクの女もほぼ永久にAランクの男と出会えません。
出会い系業界ではよく知られている法則です 

武田:需要と供給のミスマッチが起こるですね。 

宮台:そうです。永久に相手が見つからないから、出会い系産業がサステイナブル(持続可能)なんです。
 コアーシブな共同体がなくなれば、個人が自力で異性と出会わなければいけません。でも、先ほどのミスマッチもあるし、共同体の中での方法的な伝承もなく、恋愛市場での成約は見通しがたい。すると「面倒くさいし、リスクも高いし」ということで、性から退却する人が大勢出てくるのは当たり前です。 

それを踏まえて先ほどの問いに答えると、インターネットは摩擦係数の低いコミュニケーションで、誰からも強制されません。強制する人がいたら切ればいい。つまり、自分にとって「快」に相当するものだけを選ぶ空間です。だから……。 

武田:「混ざる」「飛び越える」といったコミュニケーションが起きづらいのですね。 

宮台:そうです。それを起こすには、アーキテクト(設計者)が、オンラインコミュニティに、混ざるアーキテクチャを作り込まねばなりません。それだけでは足りず、「混ざることに意味がある」という理念をアーキテクト自身が発信し、それを受けとった人が「そうだ、多少強制されてもかまわない!」と自発的にならねばなりません。そうでないと、混ざる前に出ていってオシマイです。 

快・不快の構造が平板になっている若者たち

武田:先日行った国際オンライン・グループインタビューの結果から、アメリカ人、オランダ人の40代の多くは、フェイスブック上に発話される内容に対して、「さして重要なことはない」と否定的な意見を持っていることもわかりました。一部の論客は自分の意見を発信できますが、一般人の隠れた本音は出てきていません。
好きな論客だけをフォローして、会話をするのは、当たりさわりのない内容のやりとりが中心のグループのみといったことになった場合では、快の上澄みの部分が抽出される状況が生まれるのかもしれません。
 

宮台:そのとおりです。快・不快を基準にした摩擦係数の低いコミュニケーションを続けていると、コミュニケーションだけでなく、その背景にある快・不快の構造自体が非常に平板になってしまうです。
例えば、いまの若者はケンカを避けますよね。人とぶつかるのは不快だから。でもケンカは本当に不快なだけなのか。仲直りしたり、意外な人が仲裁に入ってきて新しい社会関係が生まれたりと、ケンカの経験がある人はケンカにまつわる快感をたくさん知っています。
表層的な不快という敷居を乗り越えれば、実は世の中には利用可能な快感というものがまだまだたくさんあります。快・不快で判断するのがいけない
じゃなく、若い人の快・不快がものすごく表層的でつまらないところに張りついているのが問題なんです。 

表面的な快・不快では、恋愛もオンラインもつまらない。思いがけないからこそ、コミュ ニケーションはおもしろい。

 

武田:無理やりケンカに連れていく「先輩」もいないわけですからね。 

宮台:いまの僕もわざわざ「君たちのコミュニケーションはつまらない」と言ってあげようとは思いませんしね。でも、ついこの間までは、そういった踏み込んだコミュニケーションをしていたですよ。
おあつらえ向きなやつをネット上に探してわざとdisって、相手が反撃してきたら、十倍返しでコテンパンにして潰すっていうことをやっていた(笑)。そのやりとりを見せることで、ギャラリーに対して価値を発信する意図がありました。
 

武田:プロレス的な発想ですね。 

宮台:そうです。僕が発信したかったのは、とりあえずは「暇つぶしでケンカするのって楽しいぜ」という価値ですが、一部の人たちには説明するまでもなくわかってもらえたものの……不評でやめました(笑)。ゼミ生にも「宮台先生のゼミにいることを言いづらくなるのでやめてください」と言われて。 

武田:(笑) 

宮台:有名な先生とネット上で大喧嘩した後に和解してみせるってのもやりましたが、「当たりさわりないやりとりをする間柄より、喧嘩して仲良くなった間柄のほうがずっと濃密だ」という価値も発信したかったですね。
僕は、インターネットのコミュニケーションにはもっと可能性があると感じています。でも、人々が「やりたいことしかやらない」という素朴なレベルで関わっているかぎりは、できることも限られてしまいますね。
 

ハイ・レベルなナンパは相手を「飛び越え」させる

宮台:やりたいことしかやらない、というコミュニケーションにはもうひとつ問題があります。僕は80年代にマーケットリサーチの会社の取締役をやっていて、その当時から「顧客のニーズに応じてはいけない」と言っていました。それは、顧客は自分が本当にやりたいことがわかっていない存在だからです。 

武田:ニーズに応じるだけでは、感動を生むような商品は生まれないということですね。 

宮台:そうです。これは、一般のコミュニケーションにも言えることです。例えば、ナンパ。いまの「自称ナンパ師」は僕らの世代から見ると、テクニック的にレベルが低い。それは、女の子のニーズにただ合わせようとしているからです。 

武田:マーケット・インだけの発想なんですね。 

宮台:そう。僕がナンパする場合、そんなレベルの低いことは絶対にやりません。デートであれ、セックスであれ、女の子の望みの外にあるものを体験させて、「ええっ、こんなものがあっただ!知らなかったけどすごい!おもしろい!」と言わせることが大事なんです。 

武田:「飛び越え」させるわけですね。 

宮台:そうです。そうすることで、女の子、そして顧客は成長するです。従来のニーズが、はっきり言って「くだらなかった」と気づく。今までは、ボーッと思考停止的に要求していただけだっただとね。 

“Think different”で顧客の認知構造を変えたジョブズ

宮台:アップル社の“Think different.” というメッセージも同じです。あれは「違った考え方をしよう」と直訳してもいいのですが、正しく意訳すると「君たちは間違っている」ですよ。
「君たちはストレージがどうのCPU速度がどうのと言っているけれど、そんなのクソじゃない?」と。「えっ、俺たち、間違っていたの?」と揺らいだところに、「これどうだい?この魅力はスペックじゃないだろ?」と商品を見せる。
相手の欲望をわざと無視したり否定することで、先に述べた概念的なフレームを変えることができるんです。だから、Macは信者が増えるし、エバンジェリスト(布教者)も増える。これって、動揺が生み出す変性意識を用いた洗脳の技術なんですね。
 

武田:とはいえ、「飛び越える」体験をさせるためには、顧客を知らないとダメですよね。 

宮台:そこがポイントです。 

武田:スティーブ・ジョブズは、市場が求めていることを汲みとれた。そのうえで、くだらないと否定して、もう一段高いところを提示したですね。 

宮台:そう。では、求めているものを汲みとるとは、どういうことなのか。女の子とデートする際、音楽や料理や趣味や旅行などの好みをあれこれ質問する「ウザやつ」が増えたでしょう。僕的には絶対にありえません。 

若いころの車デートでは、高速でこの曲、湾岸でこの曲みたいな「特製カセットテープ」が必須でしたが、日ごろの行動から好みを推定してつくりました。その際「この曲好き。あっ、その曲も好き。どうして好みを知ってるの?」とドンピシャの命中を狙うだけでなく、「それならこれも好きなはずだ」と女の子の知らない曲を混ぜるです。 

これは相手の欲望の無視や否定じゃなく、拡張ですから、より初心者向きですね。いずれにせよ、こうして相手のニーズに応じるだけのコミュニケーションでは与えられない喜びを与えられるですね。さもなければ、深い絆はつくれません。 

武田:相手を知る。そのためには相手のインサイトに耳を傾ける必要があります。マーケティングも一緒で、顧客を深く知り、そのうえで顧客の想像を超えるようなプロダクトを市場に出す。マーケット・インとプロダクト・アウトの姿勢を組み合わせる。 

ソーシャルメディアの登場によって、以前よりも顧客とつながりやすくなり、より深く顧客を知るチャンスが生まれました。「マーケティングは市場とのコミュニケーションである」という原点回帰が、先進企業の間で起こり始めているように感じます。 

幸福は「未規定性」によって与えられる 

武田隆(以下、武田):先日、宮台さんがされていた「クルマが輝かなくなった」というお話が非常に示唆的でした。「むかしクルマは輝いていた。いまはかつての輝きはない」とおっしゃっていました。品質の面でいえば向上していると思われるのに、なぜなのでしょうか? 

宮台真司(以下、宮台):それは一般にコモディティ化(粗品化)と呼ばれる現象です。モノは、手元にあるのが当たり前になると、日常の風景に埋没し、輝かなくなるのです。そもそも「輝く」とは「日常における非日常の亀裂」つまり「ケに対するハレ」です。 

クルマに乗る経験が少ないころは、乗り心地やエンジン音のちょっとした新しさが非日常を醸し出しました。クルマが日常化すると、そうした新しさはどうでもよくなり、クルマは目的地に着くための道具になり下がります。 

社会学の[表出性/道具性]という枠組みに重ねると、モノだけでなく、たとえば性の世界にもコモディティ化=道具化が見出されることに気づきます。性が禁圧された時代は、性的なものにほんの少し触れただけで目眩がしました。 

ところが、性が自由になると、性は「快楽の道具」や「相互理解の道具」になり、入替可能になります。「快楽の道具」や「相互理解の道具」は他にもあるからです。性のコモディティ化を、いくつかの要素に分けてみます。第一は〈完全情報化〉。 

武田:たしかに私が中学生のころ、性に関する情報源は、いまに比べるとずいぶん少なかったように思います。 

宮台:だから「ワケがわからずドキドキした」のです。いまは「すべて事前の情報どおりだった」で終了。第二は〈脱タブー化〉です。かつては、規範の明白な境界が共有されてきました。タブーがあるから、タブー破りの快感もありました。 

たとえば80年代半ばまで、人妻が婚外関係を持つことは、いまよりずっと罪の意識を伴いました。だから盛り上がったのです。いまは不倫も当たり前になり、罪の意識を用いた「言葉責め」も機能しなくなりました。 

武田:輝きを失い、興奮しなくなってしまったということですか? 

宮台:そう。第三が〈脱偶発化〉です。出会い系サイトや婚活サイトは、年収・身長・学歴・趣味などのスペックへのニーズを元にマッチングされます。自分が最も嫌うタイプの相手を好きになるアクシデントがありえません。すべてが想定枠の内側で起こります。 

 〈完全情報化〉も〈脱タブー化〉も〈脱偶発化〉も、ニーズに応じたものです。前回お話ししたように、「ニーズに応じたマーケット・イン」は人々の幸福値や尊厳値を下げます。人の幸福や尊厳は必ず〈未規定性〉とともに与えられるのです。 

カオスが消え、フラットになった先に広がる〈終わりなき日常〉 

武田:松下幸之助が「水道理論」でいっていたように、家電も水と同じように当たり前になれば、価格が安くなり貧困層にも普及していく。これは高度成長期に機能したひとつの幸福の方程式でした。 

しかし家電は、実際にあるのが当たり前になり、生活の中に溶け込んでいく過程で輝きを失っていった。私は団塊ジュニア世代なのでリアルタイムの経験はありませんが、クーラーがめずらしいころはクーラーがあるだけで輝いていたわけですよね。 

宮台ええ。〈完全情報化〉も〈脱タブー化〉も〈脱偶発化〉も、〈未規定性〉の消去です。〈未規定性〉とは「得体の知れなさ」。68年に「3C」という言葉が流行りました。カー・クーラー・カラーテレビ。どれも「得体の知れないもの」でした。よく記憶しています。 

多くの家にクルマ記念日やクーラー記念日やカラーテレビ記念日がありました。それだけじゃない。新幹線も高速道路もすべてが「得体の知れないもの」でした。何もかもが〈未規定性〉に彩られ、社会全体が「輝き」に溢れました。映画や小説に刻印されています。 

68年から69年までオンエアされた円谷プロの『怪奇大作戦』。SRI(科学捜査研究所)の所員が怪奇な科学犯罪に立ち向かう。都市生活や郊外生活を彩る新しいテクノロジーが、「輝き」であると同時に「得体の知れないもの」であることが描かれていました。 

 〈未規定性〉ゆえの「輝き」が溢れたころ。第一に、人はいまよりずっと貧しく不自由で鬱屈を抱えていましたが、それゆえにこそ「輝き」を深く体験できました。第二に、そうした〈未来〉の体験可能性を信じられたから、人はひどい貧しさや不自由に耐えました。 

いわば〈ここではないどこか〉への希望。60年代までの日本映画と同じく、90年代までの韓国映画には〈ここではないどこか〉への憧憬が溢れました。ビル街とスラム街が通りを隔てて隣接するカオスつまり〈未規定性〉が、しかし「希望の光」だったのですね。 

ビル街とスラム街が隣接するような格差は良くありませんから、平準化されます。すると都市から光と闇のコントラストが消えて、何もかもスーパーフラットになります。すると今度は、人はすべてに希薄さを感じ始めます。それが〈終わりなき日常〉です。 

車・ファッション・グルメの三重負担から解放されたオタクの存在 

武田:宮台さんは、モノが輝かなくなったのは、モノのせいではなくて、私たち消費者側の心の問題だと断言されていますよね。 

宮台:そう。ただし〈個人的な心理の問題〉でなく、〈社会的な意味論の問題〉です。その中で、新たに開発されたモノも、随所に残った都市の光と闇の対照も、独特の意味加工を経て体験されました。新技術も貧困も、いまとはまったく異なる仕方で体験されたのです。 

73年の石油ショックで「低成長時代」になります。石油ショックの直前、「3C」を含めた耐久消費財の普及曲線がプラトーに達し、新規需要より買替え需要が専らになりました。そして、77年からオタクの萌芽が現れ、83年には誰の目にも「見える化」します。 

この時間的順序に注目してください。84年からマーケットリサーチの会社の取締役になったのですが、僕たちの会社は、オタクが車・ファッション・グルメに関心を持たない統計的事実を初めて立証しました。 

武田:いまの若者にも共通していますよね。 

宮台:そう。この統計的事実を元に、オタクが従来のマニアと巷で区別される理由は、オタクがリアルなコミュニケーションに関心を持たないからだと結論しました。その意味で「マニアは一般市民の片割れだが、オタクはそうじゃない」から差別されるのだと推定しました。 

77年という年号が重要です。「オタクの時代」が、デートマニュアルに象徴される「ナンパの時代」と同時に幕を開けた。ナンパ系の人にとっても、クルマはもはや単体で「輝き」を持たず、ナンパツールとして意味を持つものへと変じていた。この事実が大切です。 

モノが「輝き」を失ったので、「輝き」を持ち込むツールとして、当時はまだ不自由だったがゆえに「輝き」を帯びた性愛が持ち込まれたのです。でも性愛には得手不得手があります。不得手な人は、現在ではコンテンツと言われる「わかる人にはわかる」的な世界での「輝き」を探しました。そこでは、人間関係をつくり出さなきゃいけないとか、ナンパ成功させなきゃいけないとか、かつては存在したような状況が全て無効化されることで、クルマやファッション、グルメへの欲望から解放されていくわけです。 

モノを所有することで「人並み」を誇ることが“痛く”なった

宮台:消費社会の概念を確認すると、モノをイメージによって消費する社会という意味です。モノの「輝き」もイメージの最たるもの。さて、「3S(炊飯器・掃除機・洗濯機)」や「3C」の時代、その「輝き」を人は「人並み化」という言葉で表現しました。 

いまでは「?」でしょう。周囲がどんどん「3S」化「3C」化している(と見える)なか、「3S」「3C」の商品を買って「これで我が家は人並みだ」とイバるのです。ここでのポイントは「人並み」の言葉が示すような〈「輝き」イメージの共有〉です。 

実は「モノの時代」とは〈「輝き」イメージの共有〉があった時代です。ところが普及曲線がプラトーに達した後は〈「輝き」イメージの共有〉が失われ、島宇宙ごとのコミュニケーションで「輝き」を探求するようになる。それがナンパ系/オタク系の時代です。 

90年代後半に至るまで、ナンパ系もオタク系も共通して、コミュニケーションの閉じた島宇宙内でイバれることを、少なくとも作業目標(一応の達成目標)としました。ところが、90年代後半から島宇宙がバラ、イバりが「痛い」ことだと見え始めます。 

このことはナンパ系とオタク系の「階級落差」の消滅を意味させた点では良いことに見えます。でも1点、問題を抱えた。消費社会では「輝き」イメージの共有度合いにかかわらず、「自分の欲望は他者の欲望」でした。誰にも理解されない欲望には意味がないのです。 

ところが、島宇宙がバラ、所属が不透明かつ流動的になり、そのぶん人間関係がその場のノリを維持するだけの希薄なものになると、「他者の欲望を自分の欲望とする」メカニズムが働かなくなります。その結果、驚くべきことに、欲しいものがなくなるのです。 

そこそこハッピーなはずの「落差の消失」が生み出したこと

武田:「本当は何が欲しかったのか?」と問われ、いままで欲望の対象だと思っていたものが、実はそれほど欲しいものではなかったと認識されるということでしょうか? 

宮台:そう。人間関係を通じて消費アイテムに「輝き」をもたらし、かつ消費アイテムを通じて「輝き」を持つ人間関係を選別する動きが、鈍くなるのです。これが〈コモディティ化の第2段階=島宇宙拡散〉です。ちなみに〈第1段階=耐久消費財飽和〉でしたね。

 〈第1段階=耐久消費財飽和〉と〈第2段階=島宇宙拡散〉の違いが重要です。〈第2段階〉までは、ナンパ系のデートツールであれ、オタク系のウンチクツールであれ、消費を通じて、コミュニケーションによって成り立つ社会を支えている、との自負がありえました。 

言い換えれば、消費がどのように分布するかを見渡すことが、社会がどう構成されているかを見渡すことに通じるという発想です。これが消えるのが96年から98年にかけてです。具体的には、ナンパ系とオタク系の「階級落差」の著しい緩和が目印です。 

何にせよ「落差」は動機づけの源泉です。岡田斗司夫氏が言うように、ナンパ系とオタク系の「階級落差」がもたらす鬱屈感が、目も綾なるコンテンツを生み出す原動力でしたが、「落差」が消えてそこそこハッピーになった結果、コンテンツ供給力が急減しました。 

武田:つまり、オタクの人々にとっても圧力をかけてくる存在として、社会が近くにあったですね。 

宮台:そう。モノが単純に「輝き」を帯びなくなった〈第1段階=耐久消費財飽和〉以降、しかし「女子大生ホイホイ、HONDAプレリュード」「女子は全員、聖子ちゃんカット」など笑い話がありました。社会の全体が感じられる濃密なコミュニケーションの時代でした。 

コモディティ化を抜け出すヒントは、生活のリアリティ 

武田:企業が主催するオンラインコミュニティに参加する消費者には、コミュニティへの参加を通して、「社会とつながった気がする」という感想を持つ方々がいます。この結果に、私は大きな可能性を感じています。 

企業コミュニティは、ハーレーダビッドソンやマッキントッシュなど、商品の特徴が差別化されていなければ活性しないといわれていました。しかし、実際はそうでもありません。さまざまな会社のさまざまなテーマでコミュニティは活性します。たとえば、フルーツをテーマにしたコミュニティも大活性しています。 

宮台:なるほど。それは、どういう理由からなのですか? 

武田:商品はフルーツなので、それを持っているからといって仲間から注目されたりするものでもなければ、オーダーメイドで私だけのものになるわけでもありません。しかし、フルーツを自宅に持ち帰って消費するプロセスは千差万別です。それら多様な生活のリアリティがソーシャルメディアを通して噴水のように表出されています。 

たとえば、そのフルーツを食材にしたレシピ大会や子どもと一緒に撮る写真大会などです。そういう活動に参加していると、スーパーマーケットで買い物をしている際、彼女らの目にはそのフルーツが輝いて見えるのだそうです。 

これは、彼女らが主体的に参加しているコミュニティの履歴が、そのフルーツと、またそのフルーツを通したほかの参加者たちとの関係を特別なものにしているからだと分析しています。つまり、自分がその商品に関与しているという実感が、商品を輝かせているのだと思います。 

宮台:そのような流れを通れば、たしかに輝いて見えるでしょうね。 

武田:そうした関係が生まれると、会社や商品に向けた参加者たちの理解も深まっていくようです。いままで気づかなかった魅力に気づくようになる。そうした会社や商品の魅力を、フェイスブックやツイッターといった外部のソーシャルメディアに発信する人の数は、一般消費者の20倍になるというデータもあります。 

モノから失われた輝きはコミュニケーションによって蘇る。我が事化とはつまり「声」 を出すことそのもの。

社会を近く感じるためには生活のリアリティをシェアできるコミュニティ 

武田:これを地域コミュニティに応用することを考えた際、「生活のリアリティが発露する」というソーシャルメディアの特性が地域活性にも役立つのではないかという仮説があります。 

現状、一般の市民には、自治体や政党の決定に対して、代表者を選任する「投票」というカタチでしかそれに関わる方法を与えられていません。コミュニティ活性の観点から見ると、これでは粗すぎて、我が事化を期待するのは困難だと思います。 

積極的に議論に参加できればいいのかもしれませんが、議論には準備や訓練も必要になるので、参加できるのは一部の人に限られてしまう。その他の多くの人々には、やはり参加の機会は見つかりにくい。 

そこで、議論の場に意見を投げるとまではいかなくとも、いま自分が感じていることを表出させるという軽い関与であれば、より多くの方が参加できます。特定のテーマで集まるグループに、司会進行役が入り、攻撃されたり無視されたりしない、自分の本音の声を求めてくれる場所をつくる。そうした場所から表出される生活のリアリティが集まり、それぞれの地域が抱える悩みや希望を可視化する市民によるウィキペディアが生まれるわけです。 

市民の多様な声が創りだすこうした空気が、間接的にでも政策に影響を与えるような仕組みができれば、誰もが参加でき、我が事化することで、より強いコミットを持ってつながり合う社会が生成されるのではないかと考えています。 

宮台:なるほど。僕は先日まで東京都民投票条例の制定を求める直接請求の請求代表者でした。住民投票の本質は、ポピュリズム的な衆愚政治の恐れを批判される「世論調査による政治決定」でなく、住民投票に先立つ数カ月間の公開討論会の活動にあります。 

第一の目的は、一部は法令に基づいて行政や企業に情報を開示させ、論点ごとに対立的な意見を持つ専門家たちを呼んで質疑をすることで、「原発絶対安全神話」や「いつかは回る核燃サイクル」のような〈巨大なフィクションの繭〉を破ることです。 

でも第二の目的も大切です。昨今どの自治体でもモンスター親に象徴されるクレージークレイマーだらけ。共同体空洞化が彼らをもたらしました。丸山真男によれば「孤独を感じ、知的ネットワークから排除された、社会問題に無関心な層」が社会問題に噴き上がります。 

共同体空洞化が生み出したクレージークレーマーが、やはり共同体空洞化ゆえに近隣によって囲い込まれて緩和されることなく、ダイレクトに政治家や行政官僚に大声でガナリ立てます。かくして至るところで〈安心・安全・便利・快適至上主義〉の出鱈目が起こります。 

だから武田さんのプロジェクトに期待します。軽い関与でも特定テーマで集まるグループに参加して本音をしゃべれること。そうした関与の集積から地域の悩みや希望が可視化されること。やがてクレージークレーマーを凌駕する生活のリアリティがシェアされること。 

僕が導入を働きかけてきたデンマーク発のコンセンサス会議と同じで、徹底して仕組みを工夫せねばならず、簡単ではありませんが、工夫次第では期待できます。現にフルーツのコミュニティは、元々フルーツに関心がある人が集まるだけでなく、逆も成り立つのですよね。 

武田:そうです。最初は懸賞が目当ての参加者も多くいます。ところが、参加するうちに我が事化も進み、帰属意識も生まれてきます。企業のコミュニティが活性するにつれて、「社会に参加した気分になる」という感想も多く挙がってきます。 

宮台先生にお聞きしたいことがあります。システム社会の中の交換可能なひとつでしかないと思いがちな私たち消費者が、改めて「声を求められる」経験をすると、社会が突然近いものになるということはないでしょうか?そうだとすると、ここで起こっている状況は、ユルゲン・ハーバーマスのいう「システム世界」の余剰分とされた「生活世界」のレコンキスタ(再征服)のようにも見えるです。 

宮台:おもしろいですね。たしかにそう見えます。しかし、あえて悲観的に眺めましょう。もしそうした参加アーキテクチャがルーティン化したらどうしますか?いや、新しいコミュニケーションには可能性があると確認したところで、今回はやめておきましょう(笑)。

宮台真司(みやだい・しんじ) 社会学者。映画批評・首都大学東京教授。 1959年3月3日山台市生まれ。京都市で育つ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で単著20冊、共着を含めると100冊の著書がある。最近の著作には『14歳からの社会学』 『《世界》はそもそもデタラメである』などがある。キーワードは、全体性、ソーシャル デザイン、アーキテクチャ、根源的未規定性、など。