JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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対談:ソーシャルメディア進化論とは?

世界の誰もがつながりうるインターネット時代、私たちを取り巻く文化や経済、社会はどう変化していくのか? 日本最大のファンコミュニティクラウドで300社超のマーケティングを支援してきたクオン代表 武田隆が、各分野を代表する有識者との対談を通し、未来を読み解く「知」の最前線を探索します。(2012年〜2019年、ダイヤモンド社が提供するビジネス情報サイト「ダイヤモンド・オンライン」にて公開されました)

日本のインテリジェンスが絶え果てる前に IT業界が注目すべき“編集力”

「役員は6カ月にわたって無報酬になり、社員の給与も半分になった。やむなく消費者金融に通ってみたが、何かがまちがっているのだと思えるようになるまで時間がかかった。武田たちは満身創痍で脱出口を探す。そうして得たものが、これまでのエイベックのすべてを支えてきたものになる」――それはまるで、336ページの本を1文字残らず咀嚼しきったかのような書評だった。武田隆の著書『ソーシャルメディア進化論』を、本好きの間ではあまりにも有名なブックレビューサイト「千夜千冊」上で松岡正剛氏が評してくださったのは今年1月12日のこと。あまりの嬉しさに、さっそく取材を申し込んだ。念願かなってようやく実現したのが今回の対談だ。 天井高までそびえる書架にぐるりと囲まれ、不思議と心地よさを感じる本楼。そこで2人が語り合った本のこと、インターネットのこと、起業のこと……。 

「日本のIT系の本って、基本的につまらないだ。 デリケートな感情の動きがあるはずなのに、それが描かれていない」(松岡) 

武田隆(以下、武田)今回の対談は、松岡さんの千夜千冊に拙著『ソーシャルメディア進化論』を取り上げていただいたこときっかけ実現しました。 

松岡正剛(以下、松岡)千夜千冊で紹介しているのを見つけて、ずいぶんと驚かれたようですね。最初は社員の方が見つけたですか?

  武田いえ、私が最初です。おそらく、配信されてすぐだったのではないかと。

  もともと、千夜千冊はいつも拝見していたです。『ソーシャルメディア進化論』の参考書籍であるハンナ・アーレントの『人間の条件』も、松岡さんが千夜千冊に取り上げられたのをガイドにして読みました。  私にとっては、世界中の名著が紹介されるあこがれの舞台のようなものだったので、「あの松岡正剛だよな……あの千夜千冊だよな……」と目を疑うのと同時に、最初は怖くてなかなか読めなかったです。 

松岡ボロクソに書かれているかもしれないから? 

武田うーん……いえ、ボロクソというよりは、たとえば、私のアーレントの理解なんて、松岡さんに比べればお話にならないというのがわかっているので、松岡正剛の知に自分の浅薄な理解が晒されたとき、もう、どうなってしまうのだろうかと……。

  とはいえ、憧れの千夜千冊に載ったわけですから、覚悟を決めました。最初はとにかくものすごいスピードで一気に読んで、その後、気を落ち着かせてからじっくりと、何度も読み返しました。 

松岡「案外ちゃんと読んでるな、この人」という感じがしたでしょう(笑)。 

武田いやいや、「ちゃんと」なんていうものではないです(笑)。本を丸ごと掴まれた気がしました。

  松岡僕は、取り上げる本はすべて克明に読むです。好き勝手にさらっと書くのは楽です。でもそれは絶対にしません。基本的に、取り上げる本を10~15冊用意して、1ヵ月くらい前からその世界に入り始めるです。

  丹念に書いてあるものとそうじゃないもの。自分で編集していい言葉と、そうでない言葉。そういった特性が1冊1冊違っていて、要素を選別するのに1ヵ月はかかります。料理する前に、野菜を洗ったり、湯を沸かしたり、と下準備をしておくようなイメージですね。

  そして、とりあえず頭のところだけ書いておこう、マイクロコンテンツ型に並べておこうという感じでそれぞれ進めて、最後にズンと書いていく。 

武田一夜一夜、そんなふうに書かれているですね。 

松岡ソーシャルメディア進化論』は、物事が時系列に並んでいるのではなくて、少しスイッチバックが入っているところが、うまくいってるよね。この方法は下手をすると、わかりにくくなる可能性がありますから。 

武田最初は教科書のように書いていたです。ウェブ上のコミュニティというものを構想して12年。その中で得た知見を整理して、系統立ててまとめようとしていました。その原稿を編集者の常盤亜由子さんに見せたら、「まったくおもしろくない」と一刀両断されまして……。 

松岡それはいいアドバイスだったね(笑)。 

武田「武田さんも最初から正解を知っていたわけではないでしょう?」と彼女に言われて。発見のプロセスも書け、というわけですね。それは、ものすごい説得力と迫力で……(笑)。なので、泣く泣く、最初から書き直したです。 

松岡ああ、そのストーリーが生きていますね。武田さんに言うのも何だけれど、日本のIT系の本って、基本的につまらないだ。ほとんどおもしろいと思ったことがない。だからあまり千夜千冊にもとりあげない。クリス・アンダーソンとかあの辺はさすがにうまいと思うけれど、いつも彼らに屈服しているわけにもいかないしね。 

武田どのあたりがつまらないと感じますか? 

松岡さっきの常盤さんからのダメ出しにもつながるだけど、苦闘を描かないだよね。とくに日本人としての苦闘。 

たとえば、メディア論として、マーシャル・マクルーハンを参考にするとする。そのとき、「マクルーハン」を引いてくるのは簡単です。著作を多少サマライズして書けばいい。でもそれをするからには、アメリカからやってきた考え方として、「マクルーハンっていいじゃん!」と思った瞬間があるわけでしょう。そこに日本人としてのデリケートな感情の動きがあるはずなのに、それが描かれてないですよ、ITの本って。  既存の思想・技術を、一番新しく注目されているものからセットバックして、いかにも「自分はこれがくるとわかっていました」みたいに書くからおもしろくない。 

「技術が先に入ってくると何の疑いも持たなくなってしまいます。 そうすると、日本のインテリジェンスが死んでしまう」(松岡)

 武田いま、ITというものが最初に現れたころの輝きが失われてきているように思います。 

松岡同感です。なぜだろうね。マルチメディア時代、ニューメディア、高度情報化社会、ネット社会など、呼び名はいろいろ衣装替えをしてきましたよね。でも名前は違っても中身は同じ。外側のマントやケープのつくり方がぞんざいだったのが、よくなかったのではないかな。

  今の「クールジャパン」や「アベノミクス」もそうですが、中心には必要とされたものがあったはずです。でも、言語化やリプレゼンテーション(再表現)が甘いだと思います。

  特にITに関しては、アメリカから膨大なカテゴリが先に来てしまって、ゆっくりとジャパナイゼーション(日本化)を起こせなかった。カテゴリや技術にまつわるストーリー、出来事を持ち出せないまま進んでしまっただろうと思います。

  武田福沢諭吉が『学問のすゝめ』で、「ソサエティ(society)」を「社会」ではなく、「人間交際」と訳していましたよね。 

松岡これは、実にうまい翻訳だね。福沢の良さが活きている。

  武田ITは、アメリカで流行したことを、そのまま日本に数年遅れで流用するという流れがずっとありました。だから、福沢諭吉的な翻訳・編集のアプローチが必要なかったのかもしれません。 

松岡本当に、右から左に流してきたからね。 

武田でも、ソーシャルメディアとなると、そうはいかなくなります。日本人が使うのであれば日本人固有の関係性に注目せざるをえない。インターネットが人と人をつなぐメディアという本来の役割を果たしつつあるなかで、ソーシャルメディアがその中心になるのであれば、アメリカ生まれのサービスをそのまま輸入するだけではもう機能しなくなってしまいます。

  松岡そう。チュニジアやシリアは、良い悪いは別としても、モバイル端末をドメスティックに使うことでフェイスブックが社会化していますよね。日本は技術化・技能化から入ったから、社会化が後追いになってしまった。福沢諭吉の時代は、欧米の何もかもが新しくて、ソサエティが「人間交際」であることも、「これからはスピーチュ(演説)が大事である」ということも、自分で一つひとつ気づいていったわけです。

  しかし戦後、意味はともかく技能・技術をそのまま導入する方針で経済発展を遂げてきた結果、言語的なリプレゼンテーション能力は落ちてきた。だからといって、今さら言葉を再定義して、変えていくのは不可能です。「ソーシャルメディア」なんて翻訳不可能でしょう。

  武田「人間交際媒体」なんていわれても、わけがわかりません(笑)。 

松岡あとは、インテリジェンスの問題かもしれませんね。情報には「インフォメーション」だけでなく、それを、判断と行動に機能を与える可能性のあるものに精製した「インテリジェンス」の意味があるのですが、日本ではそのインテリジェンスの扱いが薄い。これは、もともと「諜報」などと訳されていたように、国家が外交に用いる知見のようなものだったです。日本では軍事やシンクタンクが権力を持っていないから、インテリジェンスが浅いままなのかもしれません。 

そして、インターネットというのはもともとアメリカの国防省が構築したネットワークシステムから始まっています。つまり、住居にたとえると、土台がなくて、上の階だけが日本に輸入されている。そうすると、フェイスブックやブログが入ってきても、彼らに見えているもののわずかしか僕らには見えない。たくさんのリベラルアーツおよび戦略的な思考のもとにつくられたインターネットの、全貌は伝わりません。

  福沢諭吉や内村鑑三、新渡戸稲造の時代は、外国の思想・文化を自ら行って体験し、注文をつけながら帰ってきたわけです。内村鑑三は既存のキリスト教に異を唱え、ダイコトミー(二分法)ではない二項同体のキリスト教を考えました

  しかし、技術が先に入ってくると何の疑いも持たなくなってしまいます。すると、言語が動かない。母国語が動かない。言語が動かないと思考が動かない。そうすると、日本のインテリジェンスが死んでしまう。 

武田翻訳も編集もないのであれば、まともにインターネットを語りえない、ということでしょうか。 

松岡そう。日本はITに関して置き忘れてきたものを、一度おさらいしたほうがいいでしょうね。おさらいというのは、ドブさらいも含めてね。

    

「ここでお金のために広告に手を出したら、 いったい何のために起業したのかわからなくなる」(武田)

武田私がインターネットにふれた1993年ごろは、地球上にウェブサイトはまだわずかしかありませんでした。でも、そのことが逆に、世界がひとつにつながっていくような感覚を強烈にしていたと思います。

  だんだんインターネットも拡大し、ビジネスに利用されるようになってくると、初期のコンセプトの輝きは複雑さのなかに埋没していったように思います。私自身、投資家に広告事業を勧められたときなど「広告は一方向だから、双方向のインターネットに反する」などと反発していました(笑)。 

松岡うんうん、その気概はいいと思うよ。

  武田でも、開発を続けるためには資金が必要です。ウェブ上のコミュニティについてベンチャーキャピタルにプレゼンすると、「で、ビジネスモデルは?」と聞かれるわけです。当たり前ですが……。

  松岡ああ、そうだろうね。 

武田ビジネスモデルなんてないと言うと「じゃあ帰ってくれ」と言われます(笑)。「だから広告をやれ」と話が戻る。

  でも私としては、ここでお金のために広告に手を出したら、いったい何のために起業したのかわからなくなる。当時、1998年ごろです。若かったということもあって、インターネットはもっと純粋でロマンチックなものなんだと、憤っていました。21世紀に新しく復興するルネッサンスだ、と。これは今も思っていることですが。 

松岡そんな理想があるのに、よく企業と一緒にコミュニティをつくる方向に向かったね。それなら、小さな国をつくって武田イズムのなかで、「これがインターネットだ!」という世界をつくってもよかっただろうに。

  武田でもそれでは広がりがないと思ったです。コミュニティによるインタレストの集合体が世界を包むという理想を実現しながら、広告でもユーザー課金でもない方法でマネタイズするには、企業と顧客がコミュニケーションする部分で効果を出すしかなかった

  インターネットは双方向なところに本質がある。それが企業と顧客に活かされていないのはおかしいというところに注目しました。企業と顧客も双方向につながれる。むしろ、インターネットが本当に経済と双方向につながるためには、その方法しかないとさえ思いました。

  松岡それで2000社も回って、クライアントを勝ち取ってきただね。コミュニティの運営コストは企業が持つでしょう?ユーザー課金にしなかったところがポイントだね。 

輸入に頼ってきたIT技術を日本固有のものにするために、そこにあったはずのストーリーを振り返る必要がありそうだ。

 

ビッグデータ時代に注目すべきは 「合理」と「雑音」

ソーシャルメディアのデータの価値は「属性」よりも「喜怒哀楽」

「読んでいるときに見えていることと、それを文章で表すときに出てくるものは違うんですよ」。編集工学者・松岡正剛氏は言う。それは、道に咲いている松葉牡丹に感動したときと同様だと。 その感動をどう伝えたらいいかわからないから、松葉牡丹の色や形などの属性を挙げていく。それが統計であり、データだ。だがそれだけでは、思いがけず松葉牡丹を目にしたときのあの感動も、こんなところに咲いていたのかという「こんなところ」も、統計処理の中には出てこない。 では、次の時代に求めるべきデータとは、そしてあるべきデータのとり方とはどのようなものだろうか?ひきつづき、“知の巨人”との対談をお送りする。

「日本人なんだから、日本人のことはわかっていて当たり前」 という勘違い

松岡正剛(以下、松岡) 『ソーシャルメディア進化論』には、エイベック(現クオン)流のコミュニティのつくり方がいろいろ明かされていますよね。「ここまでオープンにしちゃっていいの?」とこちらが心配になるような技術も。あれ、ほんとに大丈夫なんですか?

武田隆(以下、武田) はい(笑)。マーケティング開発の責任者と相談して、決断しました。こちらもすごいスピードで成長しているので、生意気なようですが、公開してすぐに追いつかれることはないだろうと……。むしろオープンにすることで、私たちが得ることのほうが大きいはずだと考えました。怖かったですが、現にオープンにしたことで、こうして松岡さんともお会いすることができました。

松岡 なるほど(笑)。 なかでも、オンライン・グループインタビューで、親密な空間を形成できる限界の人数が7、8人というのは、おもしろいですよね。あんまり多くても、少なくてもダメ。これって、僕が考えている臨界値の生物学とよく似ているんですよ。

武田 ありがとうございます。オンライン・コミュニティの研究を始めて10年以上が経ちますが、全部、試行錯誤の中から見つけた法則です。実験はいまだに続いています。

松岡 それから、企業のコミュニティづくりも、このグループインタビューで得た顧客情報から構築しはじめるというのも、見事な知見だと思いますよ。思い込みを排除できるわけでしょう? 企業はみんな、グループインタビューをやったほうがいいのにね。

武田 そうですね。どの会社にもアイデンティティがあるので、顧客とのつながり方にしても、じつは千差万別、どれひとつとして同じコミュニティにはならない、というのがこの仕事のおもしろいところなんです。だから定性調査(※)から始めるというのにも理由があります。 定性調査の限界にまつわる問題は、以前から市場にありました。そこで、オンラインのグループインタビューで定性調査をかけてみたら、今までの問題をいくつか解決できることがわかりました。 オンライン上で信頼を築き、交流することで、テーマによっては、オフライン以上に本音を出し合うことができるとわかったんです。施策をご一緒した企業の担当者の方々が、その本音を聞いて涙を流された姿も幾度となく見てきました。

松岡 泣くほどなんですね……。顧客との距離ですね、わかるな。定性調査にはたしかに感情が入ってきますからね。定性というのは、もともと喜怒哀楽に毛が生えたものだから。

武田 日本の企業をまわって気づいたのですが、調査について初(うぶ)な企業が意外と多いんです。ほとんどアンケート調査ばかりで、しっかりした定性調査はしたことがない。最初は「なぜ?」と不思議に思ったんですが、その理由が、「日本人なんだから、日本人のことはわかっていて当たり前だ」という思い込みに根づいていると気づいたんです。

松岡 なるほど。それは大きな間違いだ。

武田 はい。ソーシャルメディアに現出するさまざまな生活者の実体を知れば、「日本人のことがわかる」というのが明らかな誤認だとわかります。これほど多様な生活の実態を容易に把握できるはずがないんです。 さらに問題なのは、日本人はみな一緒だという同質性の幻想に惑わされて、調査を怠っている企業にとっては、クレーマーの声だけが経営陣に届く「唯一の定性情報」になるんです。 企業だけでなく、新聞社、テレビ局、政党、自治体、多くの組織において、関係者の不納得を生み出すアンバランスな意思決定がこの問題によって成されています。 組織の行動を決定する責任者の耳に、クレーマーからの声だけでなく、ファンからの声も入れなければならない。クレーマーの声だけしか聞こえない極端な現状を中和するための定性情報が、今、強く求められていると思います。 この危機からの脱却が、ソーシャル施策を導入する最初の目的であってもよいと思います。

松岡 本当にそうですね。ビッグデータだってそうだ。そんな情報ばかりたまっているから、今のままだと編集にかけようがないんですよね。場合分けや動機づけだけでとったグローバルデータを、日本に集めてもダメですよ。データのとり方からつくり直さないと。 ※ 定量調査は決定されたものの全体を計るもの。これに対し、定性調査はその決定までの過程を内容的に探るもの。

「これからは、ゆがみやノイズ、喜怒哀楽が入ったデータが重要になる」(松岡)

武田 ネット上に写真をアップするフリッカーというサービスがあります。慶應義塾大学の井庭崇先生に教えていただいたのですが、そのフリッカーの写真データに付属している緯度と経度のデータを打点していくと、きれいな世界地図ができるんだそうです。海岸や名所では多くの人が写真を撮るので輪郭がくっきり出るし、ロンドン橋やエッフェル塔など世界の名所もちゃんと表現されます。 この場合、写真を撮っている人は世界地図を作ろうと思って写真を撮っているわけではありません。全員がある意味、「撮りたい写真を撮る」という利己的な動機で動いた結果、世界地図ができるというわけです。 みんな、この地図に感嘆の声をあげます。たしかに集合知のひとつの姿として美しいのですが、これは「神の見えざる手」的な単なる数値データの集合とも言えます。ここで止まってしまっては、それこそ資本主義中心の旧時代を超えられないと思うんです。なぜならそこには、参加者たちのコミットメントも、主体的なコ・クリエーション(共創)もないわけですから。

松岡 それはフリー、フラット、フレキシブルにやればいいという、デモクラシーの弊害かもしれませんね。統計がそうです。でもこれからは、コミットメント入りの、もっと言うと、ディストーション(ゆがみ)やノイズ、喜怒哀楽が入ったデータが重要になるはずです。

武田 それは、合理と雑音(ノイズ)の二項対立、この対極の止揚が必要ということでしょうか?

松岡 そう。二項対立で、どちらかをバグのように切り捨ててしまうのではなく、そのふたつが混ざって還流することで、既存のものに対しての解釈が進む。それが次の時代に求められている姿勢ですよね。 武田さんの問題意識は正しいと思いますよ。僕もいずれそういう編集エンジンをつくりたいと思っています。 千夜千冊を書くときもそうなんだけど、読んでいるときに見えていることと、それを文章で表すときに出てくるものは違うんですよ。それは、道に咲いている松葉牡丹に感動したときと一緒です。 その感動をどう伝えたらいいかわからないから、松葉牡丹の色や形などの属性を挙げていく。それが統計であり、データです。でも、そうしているうちに感動がどこかへ行ってしまう。自分が喫茶店を出て、まっすぐ帰ろうと思ったけれどちょっと寄り道をして、そうしたらこんなところに松葉牡丹が咲いていた。この「こんなところ」は統計処理の中には出てきません。

武田 ノイズやコンテクストがカットされてしまう……。

松岡 そうです。コンテクスト、コミットメント、そこにまつわる喜怒哀楽が、今の情報社会ではデータとしてとれない。だから、アクセス数で統計を出せば、少しは市場が明らかになるのではないかと思っても、結局、ランキング情報のようなものだけしか生まれない。それじゃ、マスメディアの時代と本質的に変わりはないじゃないか、と。

「病気明けだろうと、どんな趣味を持っていようと、フェイスブックなどのSNSはその人を1人の単位にしてしまう」(松岡)

武田 ネットワークを数理モデル化するにせよ、感情の舞台として見るにせよ、そのノード(1つひとつの要素)を「個人」とすることに限界があるんじゃないでしょうか。現状のSNSも「マイページ」というページが用意されているだけあって、個人が中心なんですけど、それが問題を難しくしているように思います。

松岡 本質的な話題に差しかかっていますね。

武田 私は、ネットワークのノードを個人ではなく、ユニットにしてみたいと考えています。エイベック研究所(現クオン株式会社)ではそれを「サークル」と呼んでいます。興味関心ごとに集まるクラスタを複数持って、自分のアイデンティティをゆるやかに確認していくのが、その方法の利点です。

松岡 「◯◯出身」「ラーメンが好き」といった編集的なフィルターを複数使うことで、自分らしさを表すということですね。ハンナ・アーレント的に言えば「アテンションの交差」、編集工学的に言えば「注意のカーソルが交差する」場所ということです。

武田 はい。関心が集まっている集合体(=サークル)をノードととらえた時、サークルがどういったプロセスで成長していくかをモデル化する必要があります。かつ、サークルが活性したら、内部の情報がソーシャルを通じて、社会全体にどのように伝播していくのか。そこもモデル化してみたいと考えています。

松岡 それは僕たちがやりたいと思っていることと一緒ですね。 いまのフェイスブックなどのSNSは、自己(セルフ)を平均値で切り取っている。病気明けだろうと、どんな趣味を持っていようと、その人を1人の単位にしてしまう。それがひとつのIDに集約されている。これは、平均化であり、平等であり、民主主義です。 でも実際のセルフというものは、たくさんのケバケバがあります。たくさんの「私」がある。だから、セルフオーガニゼーションの過程でできる動的な範型が出入りできるような、コミュニティやネットワークのあり方がつくられないとダメですね。

武田 新しく生み出される必要がありますよね。それには、フェイスブック的なSNSが持っているある種の限界を、技術的に切り崩す必要があると思います。それから、コミュニティというふわふわとしたものに、数理のメスを果敢に入れていくことで、新時代に適応する、先生のおっしゃるような「動的な範型が出入りできるような」コミュニティをつくっていけたらと思っています。

ひとつのIDに集約しきれない、たくさんの”自分”が表出されるネットワークのあり方が求められる。

 

ホントの行きつけの店は食べログに書かない? ランキング情報が文化を生まないワケ

食べログ、アマゾン、カカクコム……。これだけ私たちのまわりにモノや情報があふれてくると便利なのが、いわゆる評価サイトだ。購入者の感想や評価、売れ行きなどをもとに生成されるランキング情報は、一見してわかりやすいため、よく参考にしているという人も多いだろう。 けれど、ランキング情報ばかりが過剰に重視されることには違和感もある。松岡正剛氏はずばり言う。「『みんながいい』というのは価値のひとつではあるけれど、つまらない」。なぜならいつの時代も、ものの価値を編集できる目利き集団によって文化はつくられてきたのだから、と。果たしてインターネット上でも、目利きの機能を持たせる方法はあるのだろうか?

「ランキング」だけで評価していると、文化は生まれない

松岡正剛(以下、松岡) 先程の話から続きますけれど、新しいコミュニティがブレイクするためには、セミプロ集団のような、隠れた目利き集団が必要かもしれませんね。

武田隆(以下、武田) それは、コミュニティを評価するために必要、ということでしょうか?

松岡 いいえ。コミュニティの内部にこそ、です。 たとえば、美術であれば、ギャラリストやメディア、あるいは美術学、コレクターなど、ここぞというときに真価を発揮する目利きが存在しています。 歌舞伎も、これを十八番にしましょうとか、こういうタイトルにしましょうとか、今でいうコピーライターみたいな集団が最終的な価値を編集していたんです。それによって、「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」のような歌舞伎文化にしかないネーミングが生まれた。 僕がやっている編集工学研究所が担うべきは、そういう役割かなと思います。だって、いつまでもインターネット上の評価がランキングやカカクコムのようなシステムだけでは、文化は生まれないでしょう。

武田 飲食店の本当の常連は「評価サイトには、自分の行きつけの店は書かない」というのを聞いたことがあります。僕もそうですけど(笑)。 たとえば、焼肉屋のレビューに、タンが厚いとか肉の脂身がとけるとか、具体的な状況が書いてありますよね。でも実際、常連になる人は、たとえそれがきっかけであっても、その店に通い詰める理由はもっとホリスティック(包括的)に、「その店が好き」なわけですよね。 なんともいえない店の匂いとか、誰かとの想い出があるとか、だから、タンが薄くてもまあ許せる(笑)。本当の理由はもっとノイジーで偶発的なもので、レビューに書けるようなものではありません。 逆に、書いても差し支えがないようなレビューが集まれば、そこにもやはりランキング的な情報の集合体が現れる……。

松岡 そのとおりです。「みんながいい」というのは価値のひとつではあるけれど、つまらないものです。 そういう意味で千利休は、茶の湯をプロデュースするために、目利きの機能をうまく利用していましたね。織部の茶碗もそうやって出てきたんです。 年に1、2回だけ、当時最大のコレクターであった神屋宗湛や、一番新しいイデオロギーを持っていた高山右近など、5人の目利きを呼ぶお披露目会を開く。そこに織部のゆがみ茶碗という、まだ価値の定まらないものを持ち込んで、暗がりで見せる。そして1度見せたら、もう半年は見せない。 そうすることで、「あの暗闇で拝見したひょうげものはなんだったのか」「今まで見たことがないくらいすごい傑作だ」と噂だけが広まっていく。そして半年後、その茶碗が市場に出たら、とたんに通常の10万倍の値段になる。これは限られた目利きだけが評価したからこその価値付けです。

武田 インターネットってオープンスペースですから、そういった暗闇のなかの秘密が薄いんです。谷崎潤一郎が暗い部屋で羊羹を食べて「あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融(と)けるのを感じ……」と表現したような淫びな世界が生まれづらい。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグも、暗闇をどんどんなくすような「トランスペアレンシー」を提唱しています。

松岡 ほんとザッカーバーグって、子どもみたいに暗闇のない顔してるよね。

武田 (笑)。でも、密度の濃いネットワークが陰や闇のもとに集まるものだとすると、インターネットにも茶室のような、なにかしらの秘密を守る空間が必要だということになりますね。

「インターネットやウェブ、コミュニティが学ぶべきは空間デザイン」(松岡)

松岡 そう。千利休のつながりでいうと、茶室から、インターネットやウェブ、コミュニティが学ぶべきは空間デザインですね。いまは基本的にリテラル(文字の)なもので交流しているでしょう。

武田 写真や動画はありますが、文章がメインです。

松岡 僕はもっと空間的なものが必要だと思うんだけど、どうしてセカンドライフは失敗してしまったんだろう。あれは空間型だよね。

武田 そうですね。いくつかの理由があると思うんですけど、セカンドライフでは、自分をアバターとしてビジュアライズしなければいけません。本来、とても複雑な自分というものを、キャラクター化して、シンプルにすることを求められるので、ネットワークも体験も矮小化してしまう傾向があると思います。

松岡 ああ、個人の在り方として、これからの流れと逆を行ってしまったわけだ。ペルソナが増えるんじゃなくて、ひとつに集約されてしまったんだね。

武田 はい。本当は、もっと多元的な自分がいるはずなのに、それが一元化されてしまうという……。 たとえば、仕事と家庭を両立させようと「ワーク・ライフ・バランス」について悩んでいるビジネスパーソンが、仕事を「公」、家庭を「私」として捉えた結果、余計に状況が複雑になってしまうケースがあります。 結局「私」というのは、自立した自分そのものであるわけですよね。つまり、仕事をしているときの自分は会社に対する「公」です。また、家族といても、その自分は家庭に対する「公」なわけです。キャリアを伸ばそうとしている家庭を持った社員に対し、自分をとりまく環境をそれぞれ仕事も家庭も「公」だと整理して話すと、腑に落ちるところがあるようです。 このように、ワーク・ライフ・バランスと格闘している方々に限らず、みんな普段何気なく、いろいろなネットワークにアクセスしているから(宮台真司氏との対談参照)、どの自分が本当の自分なのか、そもそも「私」の自分とは何なのか、よくわからなくなってしまう。そこに、CG(コンピュータ・グラフィックス)のアバターを見せられて、「さぁ、第二の人生だ」と言われても……(笑)。

松岡 あぁ、何も解決しないね。

「インターネットの世界には、ロマンが大事だと思うんです」(武田)

松岡 あと、もうひとつ疑問があるんだけど、セマンティックウェブ(ウェブページの意味を扱うことを可能にし、ウェブページの閲覧という行為に、データ交換だけでなく意思の疎通を付け加えるプロジェクト)の構想は、なぜ一向にブレイクしないんだろう。

武田 これは、高速道路の自動走行がアポロ計画よりも前に計画されたけれど、いまだに実現できていないのと同じではないでしょうか。つまり、わかりやすいロマンがないんだと思います。できたらできたで恩恵はたくさんあるというのはわかるのですが……。

松岡 おもしろいね。悪しきAI(Artificial Intelligence:人工知能)のイメージがあるのかな。絶対値、神のようなすばらしいものができると言われても、抵抗があるというか。

武田 それもあるかもしれません。AIは、神の精巧なつくりものである私たちが、さらに人間とそっくりな頭脳をつくるという熱情から始まっています。情報学者の西垣通先生の論によれば、野蛮なものに光を当てようとする「アメリカのフロンティア・スピリッツ」の延長です。 でも、環境的になったインターネットは、逆に、ダグラス・エンゲルバートの言ったIA(Intelligence Amplifier:知能増幅器)のようなものになってきている。完全無欠のコンピュータをつくるのではなく、コンピュータが人間の能力を拡張する存在として機能するほうが、インターネットにはしっくりきます。セマンティックウェブは、一見、そのようなインターネットの自由の精神に反しているように感じるのかもしれません。

松岡 なるほど。ということは、ユーザーにさまざまなペルソナを持たせるようなコミュニティをつくるには、1つひとつの名前、役割になるたびに、そこにロマン、つまり、IA的な拡張を感じられるようになれば、うまくいきそうだね。きっとそれは、間違いなくそうなるんだろうな……。

武田 アルフォンソ・リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』にあった、「自分の感受性のなかにだけある力、他の誰にでもできないように愛し、笑い、涙を流す力への関心は、世界中の裏道や小路に、自分のキスと抱擁を待っている人びとがいるという確信、そして自分の笑いと涙を待ち望んでいる湿地や砂漠があるという確信においてのみ可能となるのである」という一節のように、インターネットの世界には、このロマンが大事だと思うんです。

オープンスペースであるインターネットにも、高密度のネットワークを生む”秘密”が必要となりそうだ。

ソーシャルメディアの新潮流は、シリコンバレーからではなくヨーロッパから?

武田隆(以下、武田) 友人の会社の起業支援のため、2000年にシリコンバレーに1ヵ月だけ滞在しましたことがありました。スタートアップ企業界隈のダイナミックな資金の動きと、脳天気に晴れわたる天候に「これがシリコンバレーか!」と感動しました。 それから10年以上がたった今、これからのインターネットは、アメリカから学ぶことは以前ほど多くない、と感じるようになりました。

松岡正剛(以下、松岡) そうでしょうね。でも、なぜそう思ったんですか?

武田 もともとコンピュータのハードウェアの最新情報は、シリコンバレー(の一部のコミュニティ)から世界に拡がっていく構造がありましたから、コンピュータやインターネットの新しいプロダクトやサービスも、やはりアメリカから生まれてきました。 でもソーシャルの時代になると、インターネットがそれぞれの地域コミュニティのなかで、ローカライズされて使われるようになります。

松岡 そうなると、今までのようにアメリカ発のものを真似しているだけでは通用しなくなる、というわけだね。

武田 はい。そこで、エイベック研究所(現クオン株式会社)の海外拠点をどこに置こうかというテーマになったとき、アメリカではなくヨーロッパに行こう!ということになりました。マゼラン海峡から「Zipangu(ジパング)」を目指したデ・リーフデ号(1600年に日本に漂着したオランダの商船)と逆の航路ですね(笑)。 視察を繰り返すうちに、その直感は当たっていたと思うようになりました。ヨーロッパの市民社会の成熟を目の当たりにして、これこそ日本が輸入し忘れたものだと感じるようになったんです。

松岡 ほう、どこを回ったんですか?

武田 いろいろ訪ねましたが、とりわけ衝撃を受けたのはオランダとドイツです。

松岡 オランダって、ハッカーのメッカだった時期があるんですよね。武田さんは、そこじゃなくて、むしろ伝統的な部分に感動したんでしょう?

武田 はい。オランダは国土の表面積の26%が海面下という厳しい立地条件で、埋立地も多く、そうした場所に北海の漁業・商業の拠点をつくる。首都アムステルダムもそうです。さまざまな国籍の人が移り住むことが前提となっている。厳しい環境ゆえの、生まれながらの国際都市なんですね。 とてもインターネット的な成り立ちの街だな、と思ったんです。人種も宗教も価値観も違う人々が、洪水の危険に身をさらしながら生きている。そんな困難な条件のなか、コミュニティを500年以上もかけて成熟させてきた。オランダが辿ってきた歴史や、直面し解決してきた課題の多くを、これからのインターネットもトレースするはずだと。

ヨーロッパ文化を醸成した「ルル3条」とは

松岡 それはいいセンスですね。では、ヨーロッパについて語りましょうか。 ヨーロッパには、膨大な数のルール、ロール、ツールがあります。これを僕は「ルル3条」と呼んでいます(笑)。制度・約束事・プロトコルといった規定(ルール)、それぞれにきっちりと与えられた役割(ロール)、そして何百年もかけて磨かれた道具(ツール)。これらが尋常じゃないくらい存在しているんです。

武田 「ルル3条」、たしかにありますね(笑)。

松岡 それは執事だったり、小間使いだったり、橋の袂にいる跳ね橋をあげるおっさんなどが体現しています。アメリカのような擬似平等主義じゃなくて、差別が厳然として残っている。むしろ、その徹底的な差別が、文化を醸成しているんです。これはインドのカーストとは違って、小間使いは最高の小間使いに、執事は最高の執事になれる。最高の執事は、ただの首相なんかよりもカッコいい存在です。 でも、ITの面でアメリカなんかと比べると、なかなかオリジネートされた技術が出てこないところがある。彼らは古いものを大事にしていますからね。だから、エイベック研究所(現クオン株式会社)の技術のほうがよっぽど進んでるんじゃないですか?

武田 北欧からはノキアやLinuxなんかも出てきていますが、たしかにヨーロッパ全体で見ると、アメリカのようにインターネットを先駆させていくようなフロンティア精神は少ないかもしれません。 たとえばオランダは、治水文化によって地域のコミュニケーションが親密で、リアルソーシャルが根強い。だから、ソーシャルメディアごときで自分たちの生活は変わらないと思っている節があります。

松岡 ですよね。それはある意味でほっとする、ヨーロッパらしくて。 わかった。武田さんが取り入れたいと思っているのは、技術とかハードウェアじゃなくて、ヨーロッパの持つ市民社会の成熟、そのものの源泉なわけですね。

ヨーロッパ市民社会の成熟から学ぶこと

武田 はい。市民の自立。その自立を可能にしている「自由」と「コンセンサス」の精神。それをインターネット上のコミュニティの、アーキテクチャーのなかに組み込みたいと思ったんです。 私たちはこの航路を進みます。冒険に旅立つ前に留意すべき点を、松岡さんにうかがっておきたいのです。

松岡 それは非常に難しく、また、良い問題が含まれています。では3つに絞って答えましょう。 ひとつは、ヨーロッパの知や価値観は、歴史が動くたびにひとつに集約されて、それを勝ち組がとっていくしくみがあるということ。ヴェネツィアに集約されたものをアムステルダムが編集して、そのアムステルダムにあったものをロンドンが取り入れ、ザ・シティと呼んで取引所をつくった。アメリカはその価値観を引っ張ってきただけです。さらに、それを日本が真似している。つまり、最初のヨーロッパにあった、エディティング・ステーション(編集拠点)の機能を意識して取り入れないといけません。

武田 地球を循環しているもののスタート地点を見ろ、ということですね。

松岡 そう。2つめは、ジュリアス・シーザーが『ガリア戦記』に書いているように、ヨーロッパは外に対する恐れと憧れを同時に持っているということ。決して排除的ではありません。恐れを、美や価値に切り替える才能があるんです。

武田 それは、オーストリアの画家グスタフ・クリムトが、エキゾチックへの憧れを絵画『接吻』に昇華させたようなものでしょうか。

松岡 そうです。ゴート族が攻め込んできたときも、もともとは、怖くて、気持ち悪くて、暴力的なイメージを抱いていたにもかかわらず、100年経つとゴートっぽいものを「Gothic(ゴシック)」と呼んで、ひとつの様式にしています。また、いったん失った古代ローマ帝国をロマネスクとして復元している。こういう才能があるんです。 3つめは、アメリカに対して、あれは我々から引きちぎられた一部にすぎないという、自負と誇りを持っています。それをもとに、アメリカの限界を精確に読み取る力を潜在的に持っているんです。 この3つが、ヨーロッパを参考にコミュニティをつくるにあたっての、ヒントになる気がします。

「かせぎ」と「つとめ」が一緒になってしまった日本

武田 福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」と言いましたが、ヨーロッパの人たちが自立しているのは、街全体が自立を促す装置として機能しているからだと感じました。

松岡 不便に対しての耐性を持っていますよね。自動化できることでも、自動化していないところがたくさんある。

武田 視察中にバスに乗ろうとしたら、おばちゃんがわざわざ手で切符を売っているんですよ。この非効率性たるや、行列ができるほどでした(笑)。でも、私たちが行きたい駅を言うと「隣だから乗りな! お金はいらないから」と言うんです。おばちゃんにデリゲーション(権限委譲)されていることに驚きました。

松岡 それが、ルール、ロール、ツールの多様性ですね。みんなが約束事や役割、機能を持っている。それはかつての日本にもあったんですよ。日本でも、昔は「かせぎ」と「つとめ」が別だったんです。

武田 「かせぎ」と「つとめ」が別というのは?

松岡 「かせぎ」というのは、野菜を生産する、両替をするなど、金銭を得る仕事ですね。そして共同体に戻るとその人は、火事の火消しだとか、屋根の葺き替えとか、子どもの世話とか、そういった手伝いをする。これが「つとめ」です。橋が壊れたからみんなで直す、祭だからみんなで餅をつく。これらはかせぎに入らない。かせぎ半人前、つとめ半人前、両方で一人前だとみなされていました。 でもいまの日本の社会では「おつとめはどこですか?」と聞くと会社名を答えますよね。つまり、つとめ(勤め・務め)とかせぎが一緒になってしまったんです。だから、企業で働く人は給料をもらうためだけに働くようになってしまいましたね。給料をもらう以外に働く社会的意義を見出せなくなっている。

多様なコ・クリエーション フィールドとしてのコミュニティへの期待と懸念

武田 プライベートの時間を会社に提供し、その代わりに報酬をもらうという関係のことですね。ハンナ・アーレントが提唱したような「活動的生活」とは縁遠い世界です。今の「労働」や「就職」という言葉のイメージからは、会社を共創のパートナーと考えるような視界を期待することは困難かもしれません。

松岡 そうですね。だから、アーレントの活動的生活や、イヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアル(いきいきとした共生)」を、コミュニティや企業に復活させないといけないわけです。 その復活は、一挙に10万人規模で始めるのではなくて、エイベック研究所(現クオン株式会社)が提唱しているような、少人数から始まって活性化するコミュニティから出てくるんじゃないかと思います。それを、徐々に1万人、3万人と増やしていく、というような……。

武田 そのような大きな規模のコミュニティもわずかながら生まれはじめています。夢としては、各社のコミュニティを1つひとつ育て、数千社に集まる数千万人のコミュニティにしたいと思っているんです。そうすれば、そこが生活者と企業をはじめとする、さまざまな組織のコ・クリエーションのフィールドになり、それが日本に、多様で活発なコミュニティが復活する一助になるのではないか、と。

松岡 期待しますね。また同時に、懸念も、ね。 たとえば、僕が、こうしたインターネットのコミュニティを見るときに、いつも問題だと思うのは、使用者の個人情報です。つまり、別々のものが寄り集まったときに、あるサークルでやっていたことが、他のサークルにも共有されてしまうのはどうなのか、と。そのあたりのセンシティブな問題は、どう解決しようとしているんですか?

編集的リーダーという役割

武田 ロールコンフリクトの問題ですね(宮台真司氏との対談参照)。現在の主流であるSNSのように、個人を一元的に整理すると、この問題が浮上します。 そこで、個人ではなく部屋(サークル)を主役にすることで、この問題をある程度は解決できると考えています。部屋を構成する要素として個が存在している、と見るわけです。その個人は、部屋ごとにニックネームを使い分けられるようにする。統合したければ共通のニックネームを使えばいいし、分割したければ別のニックネームを使えばいい。つまり、個ではなく、和をもって解決するという方法なんです。

松岡 なるほど。その方法は、かなりいい線をいっていると思いますよ。一客一亭(亭主が大切なお客様を一対一でもてなす茶事のこと)で、今回は自分が亭主だけれど、次はあなたが亭主になるというように、ロールを切り替えたり、ペルソナを脱ぎ換えたりするのが「座」の文化なんです。日本的なコミュニティをつくるなら、それを持ち込むのがひとつですね。あなたはずいぶん狙ってやっているね。 それなら、もうひとつ、日本的なコミュニティとして成功するための要素としては「遊び」がある。江戸ではそれを「連」とも呼んでいました。誰もまだやっていない遊び、ゲーム、簡単にいうと趣味をつくるんです。新しい流行になるようなもの、これを用意するのがいいと思うな。

武田 それぞれの部屋にですか?

松岡 部屋をまたいで、もう1つのサロンがあるということです。これはイギリスで、トランプのコントラクトブリッジ(別名 ブリッジ)が生み出されたようなものです。既存のものでペルソナを振り分けるだけでなく、まだ誰も知らない遊びを発見する。日本だと、百人一首や花札、そこに賭博も入りますが、そういうものをつくってきましたよね。 いまのネット社会でこれができていないのは、遊びを、個人がつながる関係以上に発展させられなくて、ソーシャルゲームというプラットフォームに載せてしまっているからなんですよ。

武田 ゲームはあるけれど、だいぶ違う解釈になっているということでしょうか。私は、コミュニティのなかで生まれるコ・クリエーション(共創)に注目しています。これも「遊び」に近いのでしょうか。

松岡 近いと思いますね。それは、いくつもの連が生まれるようなものだと思います。 さらにもうひとつ、コミュニティが成功するための要素があります。それは、新しいリーダーの登場です。ヒエラルキー(階層構造)に従うピラミッドの頂点のリーダーではなくて、編集的リーダーというか、ファシリテーターというか、カタリスト(触媒、転じてまとめ役や世話役)のような人が、どんどん出てこなくちゃいけない。

武田 インディアンの長のようなイメージでしょうか。みんなが輪になって、代表民主制ではないけれど、みんなの話をまとめて「よーしわかった、オレに任せてくれ」というような存在……?

松岡 そのいい呼び名が、今のところないんですよね。リーダーは、そのつど変わってもいいんです。自主的ないし自動的に、いいタイミングで、リーダーシップをとってかまわないという人が出てくるようなイメージです。ヒエラルキーを壊せる自由度を持っている役割が生まれる必要がある。 と、ここまで解説してしまったら、もう武田さんと一緒にやるしかないような気持ちになってきましたよ(笑)。エイベック研究所(現クオン株式会社)で考えられているコミュニティ、それからコミュニティ内外の活性のモデル化は、編集工学研究所で実現したいと思っていたことと、かなり近い要素があると思います。

武田 光栄です。ぜひ、こちらこそよろしくお願いします。

インターネットには、ヒエラルキーを壊せるような編集的リーダーが求められている。

松岡正剛(まつおかせいごう) 編集工学研究所所長。雑誌『遊』編集長、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授をへて、現在、編集工学研究所所長・イシス編集学校校長。日本文化、芸術、生命哲学、システム工学など多方面およぶ施策を情報文化技術に応用する「編集工学」を確立。執筆・講演・企画・構成・プロデュース・監修・演出などを 数多く手掛ける。また、日本文化研究の第一人者として、「日本という方法」を提示し、独自の日本論を展開している。2000年2月から連載中のブックナビゲーション「松岡正剛の千夜千冊」は、月間100万ページビューを超える。現在、平城遷都1300年祭「日本と東アジアの未来を考える委員会」幹事長ほか、モデレーターとしての仕事も手がけている。

第1回QONアドバイザー会議
〜Quality Of Networkとはなにか?〜

2020年2月5日 赤坂某所。日本を代表する知識人たちが一堂に集結し、次世代の重要テーマ「Quality Of Network」について、議論を白熱させた。このテーマは、クオン社の社名の由来でもある。1996年、学生ベンチャーとして起業し、多くの幸運に恵まれどうにか生き残ってきた。その幸運のひとつは、知の巨人たちとの出逢いだった。「ソーシャルメディア進化論(ダイヤモンド社/2011年)」の出版を機に紡がれた縁は、縁が縁を呼び、クオンの社格には不相応な重厚で貴重なネットワークとなった。「QONアドバイザー会」はクオンにもたらされた幸運の結晶でもある。「アドバイザー会議」に知の巨人たちが集まる…。この知のネットワークのやりとりをクオン社内に留めておくのは忍びない。アドバイザーのみなさまに、会議全録の記事公開をお願いし、快諾を頂いた。
当日、議論は凄まじい密度で展開された。「クオリティ」とはなにか?「ネットワーク」とはなにか?量と質。マスメディアとインターネット。秩序と混沌。人間とAI、意識と無意識。様々な二項対立の関係が次々と暴かれて行く。「Quality Of Network」について考えるということは、多くの矛盾と向き合って行くことなのだと痛感した。動的に冒険的に。そして大きな野望を持って。「QON」は、「Quality Of Network」 の頭文字だ。「QON」は「クオン」と読む。この音は仏語の「久遠」にも通じる。久遠とは、遠い過去または未来のこと。久遠の視野を持って、同じ時代を生きる皆さまと一緒に、ネットワークの多様な現実と可能性について模索していきたい。(クオン代表 武田 隆)

■参加者 ※敬称略
<アドバイザー>
野中郁次郎(一橋大学名誉教授)/ 松岡正剛(編集工学者)/ 村井 純(慶應義塾大学教授)/ 松田修一(早稲田大学名誉教授)/ 池上高志(東京大学大学院総合文化研究科教授)/ 佐野弘明(元株式会社電通常務執行役員)
<社外取締役>
アレン マイナー(サンブリッジグループCEO)/ 國領二郎(慶應義塾大学教授)

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