JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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対談:ソーシャルメディア進化論とは?

世界の誰もがつながりうるインターネット時代、私たちを取り巻く文化や経済、社会はどう変化していくのか? 日本最大のファンコミュニティクラウドで300社超のマーケティングを支援してきたクオン代表 武田隆が、各分野を代表する有識者との対談を通し、未来を読み解く「知」の最前線を探索します。(2012年〜2019年、ダイヤモンド社が提供するビジネス情報サイト「ダイヤモンド・オンライン」にて公開されました)

一般人の知恵を集めた「集合知」は信頼に足り得るか 

情報社会になり、ビッグデータがトピックスになっています。そこには人々の知識や知恵など多くの情報が集まり、「集合知」という言葉が用いられるようになりました。我々はこの新しい「知の集合体」をどのように理解して、扱っていけばよいのでしょうか。今回は東京大学名誉教授、情報学者の西垣通氏をお迎えして、情報学的な視点から、集合知の理論、可能性、限界をわかりやすく解説していただきます。

 

専門家が知識を駆使するより、一般人の多数決のほうが正解に近づく

武田隆(以下、武田)私は、先生が1997年に出版された『思想としてのパソコン』を読んで衝撃を受けました。ITやソーシャルメディアのルーツを教えて頂いたと思っています。今回は、念願が叶って対談をさせていただくことになりました。よろしくお願いします。 

西垣通(以下、西垣)ありがとうございます。あの本には、パーソナルコンピューターの誕生にまつわる主要な論文をできるだけ集めたつもりです。実業家の武田さんにそう言って頂けると、あの本が本来の役割を果たしているようで嬉しくなります。私も武田さんが最近、マーケティングジャーナル(日本マーケティング学会の学会誌)に寄稿された消費者コミュニティについての論文「消費者コミュニティとコ・クリエーション」を読んで非常におもしろいと感じました。メモもたくさんしましたので(笑)、今回の対談では、そのお話も伺いたいと思っています。 

武田ありがたいお言葉です。ではさっそく、本題に入らせていただきます。最近、先生がいくつも著作を書かれている「集合知」の話からお聞きしていきたいと思います。「集合知」とはそもそもなんのことなのでしょうか。 

西垣広義には「生命体の群れのなかに宿る知」のことですね。これは人間にかぎらず、アリやハチが集団で生きていくために駆使している知恵のようなものも含まれます。ただ、私が研究しているのはもっと狭義の、人々の「衆知」、見ず知らずの他人同士が知恵を出し合って構築する知のことを意味しています。 

武田集合知は「みんなで作る知恵」なのですね。先生の著作では集合知の例として、教室に集まった56人の大学生に、大きな瓶のなかに入ったジェリービーンズの数を推定させるという実験結果を紹介されていましたね。 

西垣はい。正解は850個だったのですが、56人の学生全体による平均推定値は871個でした。これより正確な推測をした学生は1人だったといいます。何回実験をおこなっても、集団の推測のほうが、個々のほとんどの推測より正確だったのです。 

武田「みんなの意見を集めると正解に近づく」というのは、興味深い現象です。もう一つ紹介されていたアメリカのテレビ番組「百万長者になりたい人は?」(日本版は「クイズ$ミリオネア」)の例も面白いですね。 

西垣これはまさに、専門知と集合知のどちらが正しいのか、という比較になっていますね。 

武田この番組の回答者は、四択問題に答え続け、15問連続で正解すると、100万ドルがもらえる。回答者が答えに詰まったときは、スタジオの観覧者にアンケートをとりその結果を見て答える、または、その問題に詳しそうな人に電話で助言を求めることなどができます。10年に及ぶ番組の記録から、正答率を比較してみると、なんと観覧者のアンケート結果を参考にして答えた正答率は91%を超えていただそうですね。 

西垣驚きますよね。普通は、専門家にアドバイスしてもらったほうがいいと思うでしょう?観覧者の中にはもしかしたら、クイズにすごく詳しい人もいるかもしれませんけど、全体的にみればタレントを観に来ただけの一般人です(笑)。だけど、その人たちの多数決の結果のほうが当たるです。 

武田一方、専門家の助言に従った時の正答率は、65%。これはまた低いというか… 

西垣四択問題なので、まったくランダムに答えると正答率は25%になるです。だから、65%はそんなに悪くないですよ。ただ、一般視聴者の91%と比較すると低く見えてしまいますね。 

武田いったい、これは何が起こっているのでしょうか…? 

西垣種明かしをしましょう。この正答率はマジックでもなんでもなく、統計的な根拠があるです。 

武田よろしくお願いします。 

 

「多様性」によって成り立つ集合知 

西垣まず、世の中にはいろいろな意見を持った人がいます。だから、あるクイズについて正解をまったく知らない人が集まっていたら、四択クイズの回答数は25%ずつに分かれるはずです。 

武田はい。正解の当たりが付いていないのであれば、解答は四択それぞれに均等に分かれるというわけですね。 

西垣そうです。でもそのなかで、ほんの数人でも正解を知っている人がいたとする。すると、その分だけその選択肢の回答率が突出します。 

武田会場に集まった観覧者は4つのグループに分けられますよね。正解を知っている人たち。2つのうちのどちらかが正解だと知っている人たち。3つのうちどれかが正解だと知っている人(間違っているひとつを知っている人)たち、そして、正解がまったくわからない人たち。 

西垣そう。正解を知らない第二、第三、第四のグループの人たちは、それぞれ2つ、3つ、4つの選択肢からランダムに選んで答える。答える人が多くなればなるほど、間違った選択肢が選ばれる数は均等になっていくです。 

武田すると、間違った回答は相互に打ち消しあって、あとは、正解を知っている人たちの解答だけが際立って現れてくる。 

西垣それがこの「集合知」の謎解きです。回答者の数が100人くらいだと完全にランダム(等確率)とは言えないかもしれませんが、1万人、10万人と数が増えていけば、大数の法則が成り立つわけです。 

武田たくさんの人が参加すれば、偏りがなくなって理論的確率に近づいていくですね。 

西垣一見すると不思議なんですが、統計的には自明の結果です。ところが、ここで気をつけなければいけないことがあります。世の中のことがすべてこの事象に当てはまるとは限らないということです。例えば、一般人の大多数が偏見を持っていたとします。マスコミの言説に影響されるなどしてね。すると、観覧者の認識は、そっちにずれてしまう。この高い正答率が成り立つのは、あくまでも、フラットな状況。つまり、先入見がなくて、すべてをランダムに選ぶという、統計的な前提が成り立つ場合なんです。 

武田声の大きな人がいて、「絶対に1だ!」とか「絶対に3は違うだ!」と言っていると、せっかくの集合知も濁ってしまうのですね。 

西垣大切なポイントは「多様性」です。つまり、それぞれの回答が分散していたほうがいいのです。先ほどの例に戻りますが、瓶の中のジェリービーンズの数を推定するとしましょう。それぞれの推定した数はぴったり正解と一致しない限り、誤差がある。数学的には、個人の推定値の誤差の平均から、推測値のバラつき(分散値)を引いたものが、集団誤差(集合知による推測の誤差)になります。 

武田集団誤差が、小さければ小さいほど正解に近づくわけですね。 

西垣そうです。ここから、集団における個々人の推測の誤差が大きくても、大きな分散値、つまりみんながバラバラの数値を推測する多様性があれば、相殺されて集団誤差は小さくなる。さまざまな推測モデルを持つ多様な集団なら、集団全体として正しい推測が可能になるです。
武田「それぞれがみんな違う視点を持っている」ということが集合知の精度を上げる。改めて、多様性というのは大切なものなのですね。 

西垣専門家というのは、みな同じような推定の仕方をするものです。そういうふうにトレーニングされているから、専門家なわけです。でもそうすると、そもそもの推定モデルが間違っていたら、専門家が何人集まっても正しい答えにはならない。 

武田むしろ何も知らずに、いろいろな考え方をする人が集まっている方が、正解に近づける。 

西垣そう、ここがおもしろいところです。世の中の人は、どうしても専門家の知識が正しいと思ってしまう。だからこそ、私としてはこの事実を広く発信したいという気持ちがあり、集合知についての本を書き始めました。 

武田気の合う同質性の高い人たちでいたほうが安心だし、間違わないと思ってしまいますが、じつはそれは怖いことでもあるですね。 

西垣そうです。自分と違う意見の人と議論を戦わせるのは、面倒くさいと思いがちです。でも、自分と違う意見の人に耳を傾けてみることはとても大事だし、“ある条件”のもとでは、より正解に近づけるです。 

集合知の精度は多様性と人数に関連しており、専門家に勝ることもある。しかし、明確な評価基準がないものには効果がない

 

東日本大震災で見えた集合知の有用性と限界 

武田“ある条件”ということは、集合知が活きる条件というのがあるのでしょうか? 

西垣そうです。単純に多様な意見を集めるという方法には限界があります。ジェリービーンズの数や四択クイズの解答はシンプルです。でも、チェスなどのゲームでは、一手指した後また一から考えるのではなく、系列的にその先を読んで指していくことが必要になりますよね? 

武田たしかに。意思決定が連鎖してきますね。 

西垣社会で実際におこなわれている決定は、非常に選択肢が多く、系列的に考えていかなければならないことばかりです。例えば、スーパーマーケットで品物をどれだけ棚に並べておけば、売上が一番上がるのか。そういう実際のマーケティングの現場で起こるような問題は非常に複雑な構造を持っています。 

武田多数決でマーケティング課題が解決できたら、みなさんの仕事がどんなに楽になることか……(笑)。 

西垣複雑な問題は、単純にみんなの意見を集めればいいというものではありません。しかし、その意見の集め方によっては、集合知が有効な場合もあるですよ。 

武田先生の本では、チェスの世界王者アナトリー・カルポフおよびガルリ・カスパロフと、ネットで集めた人々の衆知「ワールドチーム」が対戦したときの結果を紹介されていましたね。1996年の対戦時、ワールドチームは単に最大票を集めた指し手を選び、あっさりカルポフが勝った。しかし1999年の対戦時は、カスパロフは非常に苦戦することになった。 

西垣前者のケースではワールドチームの参加者同士が相談することはなかったけれど、後者のケースでは、参加者同士が長い時間をかけて熟議することが許されました。この違いの結果です。 

武田適切なリーダーのもとでアイデアを比較検討し、まとめていくプロセスが奏功したということですね。 

西垣そうです。解答が単純ではない複雑なテーマの場合は、リーダーのもとでの熟議が必要なのです。 

武田私が集合知の可能性と限界を同時に感じたのは、東日本大震災のときでした。地震が起こった当日から暫くは、ツイッターが大活躍しました。安否確認もそうでしたが、「日比谷線の恵比寿駅が動いたぞ!」とか「東横線はすごい混雑だ…」とか、それぞれがそれぞれの視点から知った状況を逐一報告することで、リアルタイムにみんなが状況全体の把握ができたです。 

西垣まさに集合知の一形態を成していましたね。 

武田多様な地点から、それぞれが見たこと、聞いたことを伝え合うことでひとつの集合知が形成されました。ところが、状況が少し落ち着いてきてからは、ツイッター上でも原子力発電所の是非ついての議論などが始まりました。それは、集合知と呼ぶにはあまりにもお粗末な、お互いが理解を深めることもなく、前向きな提案が出てまとまることもなく、それぞれの感想や思い込みをぶつけ合うだけの状況でした。 

西垣チェスの指し手や最適な仕入れ量については、ある程度明確な評価基準があるです。ほぼ正解が決まっているとも言えます。でも、原発の是非とか、成人年齢を何歳にするかとか、裁判員制度の得失とかいったような問題には、明確な評価基準がありません。 

武田答えがないということですね。経営やマーケティングの現場で起こる問題にも答えが単純でないものが多いです。 

西垣そのような問題は、個人の価値観の差が強調されて、お互いに反対意見を持っている相手を決して認めないという事態になりがちです。 

武田原発賛成派は反対派の人々を、経済音痴だと思っているかもしれませんし、反対派は賛成派の人々のことを、生命の安全に無頓着だと思っているかもしれません。ぶつかれば感情的な罵り合いになっていきます。 

西垣なかなか生産的な議論にはならないのです。だから私は、このような複雑な問題に対して、どのようにすれば集合知を応用できるのか、ということを情報学的に考察してきました。 

 

多数の幸福が実現するためなら、少数派を殺すのも正義?

武田隆(以下、武田)先ほどは西垣先生に、集合知の魅力とその限界について教えていただきました。ジェリービーンズの数の推定やクイズなど、正解が決まっているような問題は、単純な集合知が役に立つ場合も多い。けれど、政治問題やマーケティングの課題など、いわゆる正解がない問題については、たくさんの人の意見を集めるだけでは解決できないことがある、と言うことでしたね。 

西垣通(以下、西垣)はい。だからこそ、そうした複雑な問題に対して、どうすれば集合知の議論が応用できるか、考えてみようと思ったです。そこで参考にしたのは、公共哲学の議論です。2010年に出版されたマイケル・サンデル氏の『これからの正義の話をしよう』で、日本でも公共哲学というものが、少し身近になりましたよね。その本の元となった講義も、「ハーバード白熱教室」としてNHKで放送されて話題になりました。 

武田『これからの正義の話をしよう』は、ベストセラーになりましたね。あの本では、功利主義、リベラリズム、リバタリアニズム、共同体主義の4つの正義について説明されていました。今回は、この4つの正義について、改めて整理してみようと思います。 

まず、功利主義というのは「最大多数の最大幸福」を目指すものですよね。 

西垣そうです。集団の利益というものを一番に考える正義ですね。例えば、ある町に新幹線が通ることになり、海辺を通るAルートと、山奥を通るBルートの2案が出てきたとします。そのとき、どちらを通ったほうがより多くの住民の便益を見込めるか、ということを測定して決めていくのが功利主義です。 

武田海辺を通るAルートの場合の幸福度を住民の分だけ足し合わせ、それと、山奥を通るBルートの場合の幸福度と比べてみるわけですね。 

西垣対象が「集団」というのが特徴です。功利主義の欠点としてサンデル氏は、古代ローマにおけるキリスト教信者の虐殺の例をあげています。古代ローマでキリスト教が禁止されていた頃、捕らえた信者をコロッセウムでライオンに食い殺させるという見世物をやっていました。観客は何百どころか何千人もいたかもしれません。でも、殺されるキリスト教徒はせいぜい十数名程度。そうすると…… 

武田多数派である観客が楽しいと言えば、「最大多数の最大幸福」が実現してしまうわけですね。 

西垣そうなんです。でも、虐殺はどう考えたっておこなうべきじゃない。そこで個人の基本的人権を尊重する、「リベラリズム(自由平等主義)」という立場が出てきます。 

 

自らを最も弱い立場と考える「無知のベール」とは 

武田先ほどの新幹線のルートの例でいくと、もしかしたら海側のAルートのほうがたくさんの人が喜ぶかもしれないけれど、山奥に新幹線が通らないと命にかかわる人がいる場合、人数が少なかったとしても、その人たちの基本的人権を尊重しよう、と考えるわけですね。 

西垣はい。海側はもう拓けていて、すでに病院がたくさんある。でも病院がひとつもない山側にも、新幹線が通ることによって病院ができるかもしれない。そうしたら、これまで亡くなってしまっていた人も、助かるだろう。このように、集団全体の幸福ではなく、ひとりひとりのもっとも基本的な権利を優先させようというのが、リベラリズム。端的に言うと、弱い立場にいる人達を尊重して、格差をなくそうという考え方です。 

武田リベラリストのロールズは、「無知のベール」という考え方を提案しています。 

西垣人々が全員、自分がどういう存在か知らない「無知のベール」をかぶり、その上で公共のルールを考えたらどうなるか、という思考実験ですね。そのベールをかぶると、自分の宗教も、社会的地位も、職業も、学歴も、財産も、性別や体調、皮膚の色さえもわからなくなる。 

武田ベールを脱いだときに、自分は一番弱い少数派になっているかもしれない。だから、もっとも弱い人が尊重されるルールが選ばれるはずだというわけですね。 

西垣この「無知のベール」というのは、天才的なアイデアだと思います。しかしサンデル氏は、「負荷なき個人」なんてものは存在しない、人間は何らかの価値観を背負って生きていくのが前提なのだから、無知のベールはかぶれない、と批判した。そんな抽象的な人格を考えるのは、いわば空論ではないか、というのが有名なサンデルのロールズ批判です。 

武田そしてもうひとつの自由主義の正義が、個人と経済の自由を重んじるリバタリアニズム(自由至上主義)ですね。 

西垣はい。リバタリアンにとって正義というのは、市場を通じて財が安全に正しく配分され、その財を人々が自由にできることなんです。すべてを市場のメカニズムに任せようという考え方です。 

武田市場原理は平等に働くというわけですね。 

西垣そうです。ところが、お金持ちの家に生まれた人とそうでない人は、本当に平等なのかという議論があります。また、才能を持って生まれた人とそうでない人は平等かというのも同じです。 

武田市場の正義は、富めるものがさらに富むという状況を加速させてしまう気もしますね。 

西垣その通りです。功利主義も自由主義も完璧ではありませんね。 

武田いよいよ核心に迫ってきました。『これからの正義の話をしよう』を読んでいると、功利主義のいいところと問題点、自由平等主義と自由至上主義のいいところと問題点と話が進んで、最後に共同体主義の説明が来ますよね。あの構成だと、結局「共同体主義がいい」という結論に行き着きます。 

 

マイケル・サンデルの結論共同体主義

西垣サンデル氏は、コミュニタリアン(共同体主義者)なんです。共同体主義というのは、個人の自由というよりはむしろ、共同体の伝統や慣習、文化の中で培われた道徳観や共通善を重視するものです。でもこの考え方って昔から日本では当たり前のものなんですよね。 

武田「世間様」という考え方ですね。 

西垣むしろ日本では、個人主義というのが戦後に出てきた考え方で、共同体主義は古く見える。けれど、アメリカの共同体主義というのは、1980年代の終わりくらいに出てきた、わりと新しいものなんです。功利主義やリベラリズムのほうが古いですね。そして、サンデル氏の学問的主張は、ロールズのリベラリズムに対する批判から始まったのですが、その真の批判の対象は、リバタリアニズムに向けられていると私は思っています。 

武田サンデル氏は、市場のメカニズムに任せることに反対しているということですね。それはどうしてでしょう?  

西垣サンデル氏は2012年に”What Money Can’t Buy: The Moral Limits of Markets”という本を出しています。日本語訳もされていて、邦題は『それをお金で買いますか――市場主義の限界』です。この本を読むと、彼がリバタリアニズムに反対していることがよくわかります。例えば、エンパイアステートビルの展望台にのぼるための行列に並びたくない場合は、ひとり45ドルの「エクスプレスパス」を買えば、行列に並ばずに展望台に直行することができるだそうです。これはどう思いますか? 

武田その分展望台でゆっくりできて、金額分の価値があると納得するなら払ってもいいじゃないでしょうか。 

西垣では、それが病院の場合はどうでしょう。高いお金を払って、他の人に並んでもらう。もしくは「コンシェルジュ診察」として、年間1500~1800ドルの年会費を払うことで、いつでも待ち時間なく病院で診てもらえるサービスに加入する。 

武田それは、お金を払える人はいいでしょうけど……。 

西垣払えない人は、長時間待たされることによって病気が悪化したり、最悪の場合は死亡したりするリスクが高まります。他にもいろいろな例があって、兵士として戦場に行く人たちの中にも、永住権や学費がもらえるなどの特典が欲しいと考える、貧しい移民の若者が増えている。これは果たして公平なことなのか。また、代理母による妊娠代行サービスの例も出ています。どうしても妊娠出産ができない医学的な理由がある人はまだしも、スタイルが崩れるのを嫌がる富裕層の女性が、健康なインドの若い女性に妊娠・出産を外注し、お金を払う。これは果たしていいことなのかと。 

過去、さまざまな哲学者が、社会における「正しさ」について考えてきた。その歴史をたどることで、ネット集合知による問題解決の道筋も見えてくる

 

共同体の「共通善」はグローバル通用するのか

武田リバタリアニズムの主張としては、市場で需要と供給が成り立つのであれば、構わないということになりますよね。 

西垣そうなんです。代理出産をする人も、本当に嫌ならノーといえばいいと。自由意志で契約してやっているのだから何の問題もない、という考え方なんですよね。リバタリアニズムというのはある意味で非常に進歩主義的で、相手に干渉しないですよ。自分の考え方を押し付けない。多様性を認めて、個人の所有権を守って、あとは市場に任せるす。この考え方は、新自由主義的な経済学者の台頭とともに、大きな力を持つようになりました。 

武田アメリカの社会がまさに、どんどん市場主義に変わっていきましたからね。 

西垣そして、アメリカだけでなく、いまや世界全体が市場原理に動かされるようになってきています。でも、サンデル氏はそこに異議を唱えている。それによって壊されてしまった価値観があるというわけです。 

武田だいぶ正義にまつわる全体像が見えてきました。 

西垣サンデル氏は、市場原理よりも大切にすべきものがあるはずだ、と主張していると言えばわかりやすいでしょう。 

武田それが共同体に根付くモラルというわけですね。 

西垣そうです。簡潔にまとめると、サンデル氏は、「古きよきアメリカの道徳を思いだそうじゃないか」と提唱しているわけです。 

武田サンデル氏の正義論を古きよきアメリカへの郷愁と一刀両断にできるのは、西垣先生くらいです…。複雑な正義の理論が、ずいぶんすっきり整理されてきました。 

西垣彼が想いを馳せるのは、最初のアメリカのコミュニティ、身分制度から自由になった市民たちが集まって協力し、互いに討議しながらルールをつくり、自分たちのコミュニティを築き上げていった、その頃のものだと思います。昔の西部劇に出てくるような、女性に優しく、正義の為に命を捨てるというような正義感です。 

武田ただ、そもそも、そうしたそれぞれの共同体の正義が、グローバルには通用しなくて、むしろ、それぞれの正義が反発しあうような状況が、今の問題なのですよね? 

西垣もしアメリカ社会がWASPだけの世界であれば、もしかすると「共通善」がうまく機能するかもしれません。しかし、さまざまな移民が混ざり合い、それぞれの「共通善」が併存するという状態では、全員の合意に達するのは難しい。 

武田残念なことに、これで4つの正義、すべてが頼れなくなってしまいました。 

西垣はい(笑)。そこで私は、この4つの正義を組み合わせて使ってみようというアイデアを思いつきました。 

 

 “正義”を用いて、具体的な決定をするには? 

武田隆(以下、武田)今まで、功利主義、自由平等主義(リベラリズム)、自由至上主義(リバタリアニズム)、そして共同体主義という、政治哲学における4つの正義について考察してきました。どの正義も一長一短で、納得できるところもあれば、危ないと思うところもある。完全な”正義”を実現するのは難しいという印象を受けました。 

西垣通(以下、西垣)そうですね。この正義について、公共哲学者のあいだでは学術的な議論が熱心になされてきました。しかし、結論はなかなか出ないし、いくら議論を精緻にしたところで、現実の社会問題は、学術的な議論とは別の次元、つまり政治的力や経済力の関係によって事実上決まってしまいます。一般の人々の知らない複雑な力関係によって、十分な討議もされないまま物事が進められていきます。 

武田だから、もっと具体的で現実的な方法で正義の理論の活用を考える必要がありますね 

西垣そう。そこで出てくるのが「集団の規模」を考慮しつつ、4つの正義原理を組み合わせ、最適解を模索していく、という方法です。 

武田規模…ですか。規模というのは集団を形成する人数のことですね? 

西垣はい。 

武田それは私の専門のオンライン・コミュニティにも通じます。 

西垣そうなんです。詳しくは拙著『ネット社会の「正義」とは何か』(角川選書)を読んでいただきたいのですが、ざっくり説明すると、集団の規模が小さい時は共同体主義が有効です。でも、規模が大きくなるにつれてその有効性はだんだん減少していってしまいます。 

武田暗黙の了解が効きづらくなるのですね? 

西垣はい。共同体主義というのは、共通善というものに基づいて物事を判断するわけですね。でも共通善というのは身体的コミュニケーションと関係が深くて、論理的で明確な記述ができないですよね。 

武田「言わなくてもわかりあえる」、いわゆる暗黙知というやつですね。 

西垣昔からの習慣とか慣例というのもそれです。 

武田京都の町家で「向こう三軒両隣に水を撒く」という習慣は、お互いの契約でやるわけではないですしね。 

西垣そうした暗黙の了解が通用するのは比較的小さいコミュニティです。共通善を共有できる共同体というのは、数十人からせいぜい150人くらいの「群れ」なんですよね。この人口規模は、我々の脳の構造にもとづいており、かなり絶対的な値です。150という数は、霊長類の脳や行動を研究したロビン・ダンバーという人類学者が提唱した値で、ダンバー数と呼ばれています。こうした小規模共同体で成り立つ公共的原理を、そのまま何万とか何千万以上といった中大規模の共同体に当てはめるのは無理があります。 

武田町の風習をそのまま、国民全体やEUのような巨大な共同体に適用することはできない。組織経営にも通じるものがありそうです。 

西垣一方で、リベラリズムやリバタリアニズムといった自由主義のいいところは、普遍的であるところです。つまり超大規模集団に対しても有効なのです。 

武田誰にでも納得可能な説明ができるということですね。どこに弱点があるのでしょうか? 

西垣端的に言うと、自由主義にもとづいて制約条件を設定するだけでは、物事は決定できない。自由主義というのは、集団の意思決定というより、個人の権利保護に着目する正義原理ですから。 

武田どういうことでしょうか? 

西垣「無知のベール」を被って、最も貧しい人の生活を保障しようという理念が共有されたとしましょう。でも、それだけでは、社会的な問題や政治的な問題、企業のマーケティングなどの現実問題を解決できるわけではありません。 

武田例えば、「人を殺してはいけない」というみんなが守るべき絶対的で必要最低限の正義が仮に設定できたとしても、それだけでは、問題解決のための意思決定には不十分だということですね。 

西垣はい。個人の権利の尊重は制約条件にはなりますが、どうするかという解答が見えてこない。決めるにはどうすればよいのか、という具体策には直接つながらないのです。実際の複雑な問題を意思決定するには、当事者が集まって、その集団に関連するコストや安全性など、多くの現実的な課題と向き合っていかなければならない。 

武田では、そうした現実的で複雑な課題に対処するにはどうすればよいのでしょうか? 

西垣それには、功利主義が有効です。「最大多数の最大幸福」というのは明快な正義原理で、定量化できますから、客観的な議論にも向いている。つまり、こういうことです。もっとも基礎には共同体主義の共通善にもとづく直感的で身体的な価値観があり、小さなグループからそれが選択肢として浮上してきます。次に、自由平等主義や自由至上主義が全グループに関わる共通の制約条件を定めます。それらを踏まえて、当事者集団のグループが、功利主義的に意思決定しようというわけです。 

武田!これで4つ、全ての正義が出揃いました。 

西垣はい。複雑で現実的な問題の意思決定には、功利主義原理で用いられる“効用関数”が向く。 

武田その問題の当事者にとっての効用をそれぞれ計算していくということですね。数理の結果であれば皆が納得できる。 

共通善が機能するのは、せいぜい150人程度のコミュニティまで。しかし、大きな政治的意志決定においても、当事者がグループの規模を決め、そこにおける共通善を決定に反映していくことはできる

 

それぞれの主義の“いいとこ取り”で正義を機能させる 

西垣効用といってもいろいろありますが、ここでは、共同体における効用をわかりやすくするために、幸福度、安全度、財貨の3つとしてみましょう。 

武田ある問題に対して、当事者にとっての幸福度、安全度、財貨を最大化させることができれば、みんなにとって満足であるとみなすわけですね。 

西垣はい。ただ、3つすべてを最大化する解があればいいのですが、応用数学的にはこれら3つのすべてを最大化することは、通常できません。だからどれか一つを最大化し、残り2つは必要に応じて制約条件にすることとなります。 

武田例えば、どういう状況が考えられるのでしょうか? 

西垣簡単な例として公立図書館の蔵書購入について考えてみましょう。ベストセラーと古典とどちらを購入するのがよいでしょうか。利用者の好みはいろいろ違い、個人の幸福度を足しあわせたものが集団の幸福度ということになります。この場合、安全度はあまり関係ないので外し、予算である“財貨”が制約条件になり、利用者アンケートなどに基づいて“幸福度”を最大化するという方向で購入する書籍を決定するといったことが考えられるでしょう。 

武田先程出た、新幹線の新ルートを敷設する際に、海辺を通るAルートと山奥を通るBルートのどちらにするか、という問題だと……。 

西垣利用者集団の便益という“幸福度“と、がけ崩れなどの回避を含む“安全度”が制約条件となり、工事コスト、つまりマイナスの“財貨”を最小化するという議論になるでしょうね。 

武田たしかに。わかりやすく皆が納得できる合理性があります。一方で、多くの意見に埋没してしまう小さな声はどうすればよいのでしょうか?功利主義のそもそもの問題は、最大多数の最大幸福の裏に隠れた声なき声、マイノリティの意見が消えてしまうことにあったと思います。 

西垣そこが正義に「集団の規模」を考慮するポイントになります。今の新幹線の例では、どっちのルートが便利かという話だけではなく、山奥の方にはその土地でずっと昔から大事にされていたお寺があって、そこはどうしてもつぶしたくない、といった強い要望があるかもしれない。そうした暗黙的な声は、共同体主義にもとづく選択肢に反映されます。また一方、収用される個人の土地や家屋などの財をきちんと補償するというのは自由主義からの制約です。これらを踏まえて、効用の計算の舞台にまで引き上げていくことが必要になります。 

武田その共同体の人が大事にしていることも、効用関数の中に含まれてくるわけですね。そうした共同体に発話のチャンスが与えられれば、声なき声が埋没されてしまうことがなくなる。 

西垣そうです。今まで話してきた正義の議論を総括すると、功利主義による効用計算の前に、まず、自由主義によって皆が守るべき絶対条件を定め、その土台の上に、共同体主義にもとづく暗黙的な了解にもとづく提案を表出させ、効用計算の舞台にあげる。そして結論をみちびくということになります。 

武田最も大きな規模には自由主義を、最も小さな規模には共同体主義を活用し、これらを合わせたうえで、功利主義の最大多数の最大幸福を計算するというわけですね。 

西垣はい。端的に整理するとこの考え方は、集団の規模に注目し、まず、自由主義の制約条件を念頭に置きつつ、功利主義の効用関数に基づいて、公共的正義のあり方を検討するというものです。そのとき共同体主義の共通善というのは、人々の道徳観にもとづく判断として、選択肢の設定において非明示的に作用することになります。 

武田集団の規模に応じて、功利主義、自由主義、共同体主義を統合するのですね。 

西垣はい。これを私は、N-LUCモデル(Nishigaki Model of Liberal Utilitarianism for Communities)と略称で呼んでいます。これを用いることで、我々の21世紀における意志決定ができるじゃないかと考えたです。公共哲学者からは乱暴だと批判されるかもしれませんが、私はもともと実践的な工学畑出身の人間なので。 

武田しかし、“財貨”はわかるのですが“幸福度”の効用計算というのは、どういうふうにするのでしょうか。例えば、夏と冬の違い、男と女の違い、といった意味の差というものは、数値化できないですよね。 

西垣 仰る通りです。意味のあいだには差異があるだけで、意味を何らかの数理的な軸の上に位置づけることは直接にはできません。2つの意味なら、これとこれが近い、ということはわかりますが、それが3つになると、距離という概念を数理的には定義できなくなります。その場合は仕方がないので、なんらかのA、B、Cという選択肢に落として、投票するという方法をとることになりますね。一種の還元処理(リダクション)です。投票の得票数によって数値化していくことはひとまず可能です。ただし、こうした選択肢を定義していくプロセスで、まさに共通善が機能するわけです。 

日本における共同体の変化。
よりどころのない人はどこへ向かう? 

武田そこにはやはり発話が必要なんですね。「山のお寺は壊しちゃならん」という声も発話されなければ、それが考慮されることもない。ハンナ・アーレントが、反ユダヤ主義の政権下においては、政治的な意見を地下に隠れた居間で仲間と発話することが、自らの尊厳を確認することだったという内容のことを書いていました。オンラインコミュニティを見ていても、消費者の中にもやはり隠れた声というのはたくさんあるです。 

西垣その通りです。そういう隠れた声からこそ、皆が納得できる正義の意思決定が生み出されるのではないでしょうか。 

武田共通善となるその隠れた声を引き出すこと。オンラインコミュニティはそこで機能すると思います。 

西垣まさにそう思います。ここで、武田さんたちが取り組んでいらっしゃるコミュニティの話が出てくるのではありませんか。私は「消費者コミュニティ」によって、「企業」も「消費者」も、その概念が革新されていくと思っています。 

 

消費者コミュニティは広告の在り方を変える 

西垣私は、武田さんの会社でやってらっしゃる「消費者コミュニティ」に、未来を創る新たな可能性を感じています。アルビン・トフラーが1980代に著書『第三の波』のなかで予言した「プロシューマー」を連想させますね。 

武田プロシューマー。生産活動を行う消費者のことですね。生産者 (producer) と消費者(consumer) を組み合わせたトフラーの造語でしたね。でも、現実にはそういった波はあまり来なかったようにも思います。 

西垣 仰る通りですが、それは時代が未成熟だったのです。でも、インターネットが普及するにつれて、ソーシャルメディアなどを使って、一般の人々が自分の声を発信する手段を持つようになってきました。そこで、企業が、自社の財やサービスにまつわるコミュニケーションの場を設ければ、消費者にも参加してもらえるようになってきた。消費者コミュニティは、うまくいけば、新しいタイプの共同体とプロシューマーを生み出すかもしれません。 

武田今まで100を超える消費者コミュニティを見てきましたが、面白いのは、どれひとつとして同じコミュニティに育たないということです。 

西垣それぞれにユニークなのですね。 

武田はい。本来、企業は法人として、個性があり、アイデンティティがあり、それぞれにヒストリーがあります。どの会社も創業時には社会に対して、なにか貢献の目的を持って活動を始めたはずです。それが長い社史のなかで、または、大量生産と分業化と流れ作業のなかで、希薄になってしまうこともあるのだと思います(※(クオンジャーナル内の)國領二郎氏対談)。企業を中心として生成される消費者コミュニティは、そうしたCI(コーポレイト・アイデンティティ)を思い出させてくれるものであると思います。企業と消費者が心と心でつながる場面に幾度となく遭遇しました。 

西垣それは企業にとっても消費者にとっても幸せなことですね。 

武田消費者が生成するネットワークから生まれる様々な発言が、企業やブランドを物語ってくれています。CIが消費者のつながりから縁起しているのです。 

西垣今まで多くの企業がマス広告という手法に頼って物語を発信してきました。私には、消費者コミュニティが広告の在り方を変えるという予感があります。今までのマス広告は、テレビや新聞などの媒体で、発信側の意図を汲んだムード演出をしていたわけです。消費者の欲望をそそる魔法をかけるようなものだった。今、そうした一方的な物語は望まれていないように思います。なぜなら、そうした魔法は繰り返されれば繰り返されるほど飽きてしまうからです。 

武田期待効用は時間と共に低減していくわけですね。 

西垣そうです。そこで新しいやり方として出てきたのが、Googleのキーワード連動型広告です。これを着想したのはお見事でした。例えば、「魚釣り」に関連する言葉を検索している人の画面や魚釣りの話題が出ているコンテンツに、釣りに関連した広告を出すとか。 

武田消費者が検索キーワードを入力するということ自体、テレビを試聴する行為に比べれば主体的です。たしかに、マスに対して一斉に放射するのではなく、ロングテールに小さくマッチングをさせていくというのは、広告のあり方を変えました。 

西垣しかし、テレビのムード演出の広告もうるさいけれど、ネットのピンポイント広告も割合にうるさいです(笑)。検索画面に広告がしばしば出てくると、邪魔だな、と思ってしまいます。ところが一方、消費者コミュニティでは、消費者のポジティブなアクションが自然につながっていく。今までの広告とは全く異なりますね。 

武田はい。絶えず、主体的な双方向コミュニケーションの連鎖によって物語が生成されていきます。 

西垣コミュニケーションを取っているうちに、だんだんと物語の効用が増してくる。これは、とても新しいやり方ではないでしょうか。Googleのピンポイント広告は、結局機械的な処理によって広告を表示しているだけです。でも、消費者コミュニティは、それぞれに人間が介在して、生きた双方向のコミュニケーションを織り上げていくわけですよね? 

武田はい。 

西垣ここには、単なる多数決やアルゴリズムによる処理を超えた、一種の集合知が生まれている可能性があります。

消費者コミュニティは規模によって特徴が異なる 

西垣ところで消費者コミュニティでは、その企業のご担当者が話題を振り分けるのですか? 

武田企業はそこまでコミュニティの前面には出て行きません。もっと……そうですね、エンジェルというかアイドルというか、触れられそうで触れられない存在が良いようです。能の舞台で喩えるとシテとワキの、シテのような役割です。 

西垣なるほど(笑)。 

武田シテである企業の替わりに、ワキとしてファシリテイターと呼ばれるコミュニティの司会進行役が登場して、参加している消費者に役割を提供することで、参加を促し、場を活性させていきます。その際、重要なのはレリバンシー(関連性)です。消費者がそのコミュニティに関与すればするほど、好きになったり購買が上がったりと、ロイヤルティが向上していきます。 

西垣関与がさらなる関与を呼ぶサイクルなのですね。そこでの私の興味はやはり、集団の規模になります。消費者コミュニティも規模によって特徴が異なるのでしょう? 

武田はい。規模に応じて関与の仕方、つながり方が変わります。それは企業の目的に応じて調整されます。例えば、一度に多くの参加者が集まるイベントを開催する場合と深い発言を引き出すことを目的にした場合とでは、運営に適するコミュニティの規模が変わります。発話の深さを求めるケースには、比較的小さな規模の部屋が向いています。規模が大きすぎると、自分が発言した際、批判されるじゃないか、無視されるじゃないかと感じて、発話できない人も増えてきます。参加者がコミュニティに集まる他の参加者との同質性が確認できると、発話がより活発に出てくるようになります。 

西垣同質性が会話をより具体的にするのでしょうね。人間というのは、大規模な集団においては比較的ジェネラルな意見を求めるわけですが、少数メンバーで会話するときには具体的な話題から刺激を受けるものです。例えば、いきなり映画のラストシーンでの「人生に大切なのは愛である」みたいな台詞を言われても… 

武田「ごもっとも」で、会話が終わってしまいます(笑)。 

西垣でも、具体的な俳優の名前を挙げてその人について話し始めると、「私もその人のファンで…」とか「あの作品にでていた時は…」などと話が広がっていく。 

武田企業の商品についても、「◯◯味の◯◯というアイスが好きで、いつもこういうふうに食べています」といった、小さな生活のリアリティがお互いの発話を促し、たくさんのナラティブが生まれています。 

西垣それこそが、私から見ると生きた「情報」なんです。ジェネラルで抽象的な情報だけが、必ずしも相手を納得させるものではない。 

武田アレントが言うように、自身が発話するという行為を通して変化するものもあるのだと思います。 

西垣具体的な発話が出てくるような空気を演出するのもコミュニティの役割ですね。その場の雰囲気は、消費者コミュニティだと、やはりファシリテイターが設計していくのでしょうか? 

武田はい。ファシリテイターに蓄積されたノウハウに頼るところが大きいです。加えて、これまでのコミュニティ運営で蓄積されてきたデータを解析することによって、運営方針を見つけ出すということも大切です。例えば、コミュニティの中には閲覧中心の人と、たまに来て長いコメントを投げる人と、毎日こまめに書き込んでいる人がいる、といったことがわかったとします。するとそれぞれのタイプが、コミュニティ内のどんな話題に反応しているのかも、データが示してくれます。発話者が多いと良い印象を受けますが、閲覧者との割合が閾値を越えると「蛸壺化」が起こり始めます。 

西垣そのサインを受けて、ファシリテイターが施策を切り替えるわけですね。 

武田はい。このように、データサイエンスから創出されたFact(事実)は共有可能な合理性を持つので、過去(事例)と今(状況)と未来(予測)を繋ぎ、それぞれに蓄積されたノウハウをつなぎ、暗黙知を形式知にすることができます。 

 

人間とコンピュータの共創で、新しい知が生まれる 

企業と消費者が双方向のコミュニケーションを取りあう消費者コミュニティ。そこからは、新しい商品・サービスが生まれるだけでなく、未来の社会をかたち創る共同体の可能性すら見えてくる

 

西垣人のノウハウとデータ分析を組み合わせる。それは非常に興味深いですね。この話は、いまのビッグデータブームに、一石を投じるインパクトがありそうです。というのも、私はすべてを機械に任せて自動的に分析しても、あまり効果はないと思っているです。 

武田一方で、いまや行動情報から人間の無意識のようなものまで、すべてのデータが記録される時代なのだから、その記録をデータマイニングすれば集合知が生まれるのではないか、という意見もありますが……。 

西垣全自動の分析は難しいでしょう。私から見ると、コンピュータという機械をちゃんと扱ったことがない人の意見だな、という感じがします。コンピュータは、たしかにデータ処理は得意で、人間がやったら途方もない時間がかかるような計算をあっという間に実行する。でも、計算結果から意味のある結果を引き出すには、人間のアイデアが不可欠なのです。 

武田勇気づけられます。私も、自動的に記録されたデータから、有用な知見が安定的に出てくるとは思えません。その理由は、主体的な参加で人間は変わるからです。コミュニティに主体的に参加することで、参加者の意識や行動が変わる瞬間を、私はこれまで何度も見てきました。主体的に参加していない状態の意識や行動のデータをいくらとっても、有用性は低いと考えています。 

西垣全く同感です。つまり「主体的」というのは「未来」の話なんです。 

武田未来、ですか…? 

西垣コンピュータと人間の違いはどこにあると思いますか? 

武田生きているかどうか、でしょうか? 

西垣コンピュータは所詮、人間が過去に書いたアルゴリズム、論理処理のモデルにしたがって動いているだけなんです。必ず、過去のプログラムやデータにもとづいて、人間に命令されて動き始める。それに対し、人間やあらゆる生物は、主体性を持って、未来に向かって生きています。 

武田主体であるということが、未来を向くということですか? 

西垣そうです。近未来に何が起こるかなんて、誰もわかりませんよね。一年後に隕石が落ちて地球が壊滅するかもしれない。でも、そういうぎりぎりのところで、我々は新しい、これまでの歴史になかったものを考え出していくです。決まった枠のなかで機械的に物事を処理するのではなく、次の瞬間に新しいものを創れるという思いが、生きているという実感を与えてくれる。我々は、すべてが計算できる宇宙に住んでいるようだけれど、実際はそんなことはありません。その不確かな世界で、未来を創っていくのが「主体」という存在なんです。 

武田今の世界に、みんなどこか停滞感を抱えているのではないかと思うです。ソーシャルメディアがこれだけ流行しているのは、寂しいから他者とつながりたいということだけでは説明がつきません。おそらく背景に、つながりあうことでなにか新しい世界が創れるのではないかという期待が、時代の通奏低音として流れているのではないかと思うです。 

西垣同感です。だからこそ、消費者コミュニティの存在意義があるのではないでしょうか。 

武田はい。ソーシャルメディアにおいて、企業はとても重要な役割を担うことができます。消費者が、社会に商品やサービスをつくりだすためにソーシャルメディアに参加する。一人ひとりの力は弱くとも、企業とつながることで、実際に自分のアイデアや気持ちが実社会に反映される。企業は、そういう消費者の自己実現を成し遂げるパートナーになりうるはずです。 

西垣私は、消費者コミュニティが、新たな21世紀の価値を創り出すのではないかと期待しています。そのとき企業は、ソーシャルメディアに共同体をつくり、そこから生成する集合知を社会に具現化するエージェント的な存在になる。 

武田まさに、N-LUCモデルの経済活用版というわけですね。 

西垣はい。そんな未来は、そう遠くないうちにやってくるかもしれません。 

 

西垣通(にしがき ・とおる)東京大学名誉教授。1948年、東京生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業。工学博士(東京大学)。株式会社日立製作所と米国スタンフォード大学でコンピュータを研究した後、明治大学敦授、東京大学社会科学研究所教授、東京大学大学院情報学環教授、東京経済大学コミュニケーション学部教授を歴任。専攻は情報学・メディア論であり、とくに文理にまたがる基礎情報学の構築に取り組んでいる。近著として『AI原論』(講談社選書メチエ)、『ネット社会の「正義」とは何か』(角川選書)、『集合知とは何か』(中公新書)など。『デジタル・ナルシス』(岩波書店)でサントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。