JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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対談:ソーシャルメディア進化論とは?

世界の誰もがつながりうるインターネット時代、私たちを取り巻く文化や経済、社会はどう変化していくのか? 日本最大のファンコミュニティクラウドで300社超のマーケティングを支援してきたクオン代表 武田隆が、各分野を代表する有識者との対談を通し、未来を読み解く「知」の最前線を探索します。(2012年〜2019年、ダイヤモンド社が提供するビジネス情報サイト「ダイヤモンド・オンライン」にて公開されました)

シリコンバレーの歴史は「偶然の出会い」で築かれた

今回の対談相手は、日本のインターネットビジネス黎明期からベンチャー投資業界を牽引してきたベンチャーキャピタル「サンブリッジ」の創業者、アレン マイナー氏。彼は、1999年に創設したサンブリッジの代表取締役として、アイティメディアやセールスフォース・ドットコム、等のベンチャー企業に投資し、IPOを実現させてきた人物。日本語を話し、日本の文化を知るマイナー氏は、大学卒業後に入社したオラクル2年目で、驚きの提案を行う。「偶然の出会い」がもたらしたものとは?

初来日は「宣教師」として

武田 今回は、日本のインターネットビジネス黎明期からベンチャー投資業界を牽引してきたベンチャーキャピタル「サンブリッジ」の創業者、アレン マイナーさんに来ていただきました。サンブリッジは、日本のベンチャーにシリコンバレーの風と勢いをもたらしてくれた企業です。

実はエイベック研究所(現クオン株式会社)も、サンブリッジに投資していただいたベンチャー企業の1社で、もう15年(注:2014年9月時点)の付き合いになります。アレンが「なぜ日本に来たのか」などの経緯はうかがったことがありませんでしたね。今日はそのあたりから、お話しいただければと思っています。

マイナー 僕は、モルモン教の本部があるユタ州で生まれました。モルモン教徒の男性は19歳になるときに、どこか別の国に宣教師として赴くのが通例なんです。行き先は教会が決めるのですが、通知する手紙に「日本」と書いてあったときはうれしかったですね。子どものころから日本を紹介する絵本を読んでいて、日本に関心があったんです。行き先は、神様のお導きだと思っていました。そうして北海道に2年間、宣教のために赴任しました。

武田 2年の期限が終わったら、どうなるんですか? そのまま宣教師になるのでしょうか。

マイナー それは決められていないんですよ。僕は、アメリカに戻って大学に行きました。高校生のころからコンピュータプログラマになりたいと思っていたので、コンピュータサイエンスを勉強して、並行して哲学の授業もとっていました。2年生になってからはアジア文化学を自由科目で受講したんですけど、それがおもしろくて。中国、日本、インドなどの宗教、文学、歴史、音楽などをすごいペースで学ぶんです。

武田 でも、そういった仕事には就かなかった。

マイナー そうですね、新卒でオラクルに入社しました。僕が大学を卒業した1986年に、オラクルが新卒採用を始めたんです。当時の全社員の10%、約45人を新卒で採りました。たまたまそのときに、オラクルの営業本部長が熱心なモルモン教徒だったんですよ。

武田 へえ!

マイナー だから、45人中3人はモルモン教の大学出身者だったんですよ。オラクル創業者のラリー・エリソンらは、ハーバードやMITではなく、どうしてそんな地味な大学から採るんだと聞いたらしいのですが、その本部長は“Trust me!”と言ってそのまま採用したそうです(笑)。

武田 そのなかにアレンもいた、と。いろいろな偶然が重なっていますね。

日本語とプログラミングがわかる貴重な人材

マイナー 実は僕、オラクルのインタビュー(入社面接)を受けたとき、データベース事業ってつまらなそうだなと思ったんですよね。コンピュータグラフィックスやAIなど、エンジニアとしてもっとカッコいい、研究的な要素が入っている仕事がしたいと思っていたんです。

武田 オラクルはデータベースの会社なのに(笑)。

マイナー だからあまりやる気がなかったんですが、話を聴いているうちに、どんなコンピュータでも同じデータベース、同じ開発環境が使えるというのは非常におもしろいと思いました。お客さんのハードウェアに依存しないというのは、シェアを拡大できる余地が非常に大きい。しかも、社員の方々がみんなすごく頭がよくておもしろい。この人達と働いてみたい、と思って入社を決めました。

武田 誰と働くかは重要ですよね。

マイナー 向こうが僕を採用する決め手になったのは、日本語ができたことだと思います。そのときオラクルでは、製品の日本語対応を本格的に進めたくて、日本語がわかってプログラミングもわかる人がほしかったんですね。

武田 なるほど。まさにアレンですね。

マイナー でも僕、実は日本に移住して仕事をする気はなかったんです。アメリカ人と結婚して、シリコンバレーで家庭をつくろうと思っていました。だから、面接で「日本に行って仕事をするチャンスはありますか?」とあえて聞いたんです。

武田 ほう。

マイナー これには2つの意味がありました。ひとつは、僕がアジア文化学を学んだなかで、海外での事業展開は、各国で現地の有能な社長・社員を雇って、現地のオペレーションに任せるのが正しいあり方だ、と考えていたこと。それについてのオラクルの考え方を聞きたかったんです。

もうひとつは、自分は日本に行きたくなかったから、あえて行きたいようなニュアンスの質問をした。そうすると、面接官は現地採用をするから行くチャンスはない、と答えてくれたんです。「よかった!」と思いました(笑)。

シリコンバレーの歴史はセレンディピティで築かれた

武田 オラクルは70年代から勢いが衰えない、シリコンバレーを代表する会社のひとつですよね。アレンがシリコンバレーで働き始めた時は、もうITベンチャーのブームが来ていたんですか?

マイナー 70年代の初めから徐々にプレイヤーが増えて、シリアル・アントレプレナー(次々とベンチャー事業を立ち上げる起業家)が現れたり、アントレプレナーだった人がエンジェル投資家(創業間もない企業に対し出資する個人)になったりという状況はできつつありました。

それがピークに達したのは、やはり1993年にイリノイでネットスケープを立ち上げたマーク・アンドリーセンを、ジム・クラークがシリコンバレーに呼び寄せたこと。これが大きかったと思います。

武田 マーク・アンドリーセンとネットスケープの登場は大きかったですよね。日本でもモザイクがネットスケープに変わったころから、インターネットが本格的に普及してきた感覚があります

マイナー シリコンバレーの歴史を見ていると、この人がこのときこう行動したから、後に続くものができた、という「すべてのはじまり」をピンポイントで示せる瞬間やアクションがある。偶然の出会い、セレンディピティが非常に重要なんです。当時はマイクロソフトもオラクルも、ネットワークコンピューティングという名前で、ケーブルテレビ会社などと組んで、家や会社のテレビに端末をつなげてインターネットのように使うシステムを実現しようと競争していました。そういう会社がマーク・アンドリーセンを引き入れて商品をつくる可能性も、十分ありえた。

武田 そうしていたら、インターネットは今のようなかたちには、なっていなかったかもしれませんね。

マイナー はい。ジム・クラークとマーク・アンドリーセンが独立して、ムーブメントを起こそうとしたからこそ、いまのインターネットのあり方がある。そして僕はそのころ、日本にいたんです。

武田 えっ、日本に住むつもりはなかったのでは? 出向命令が出たのですか。

わずか入社2年目!日本オラクルの初代代表取締役に

マイナー それが、入社した1年後に自分から希望したんです(笑)。なぜかというと、日本に行ったほうがいいと思える出来事があったから。入社した当時は「アシスト」という日本の会社と、新たに代理店契約を結ぶタイミングでした。もとの代理店のところにあいさつに行ったときに、上司が向こうの提案をまったく聞いていなかったことがわかったんです。たしかにその代理店が販路を拡大できなかったのは事実ですが、相手だけが悪いはずはない。オラクル自身も変わらなければ、代理店が替わっても、1年後、同じ会話をしている可能性がある。

武田 1年後にまた「別の会社と代理店契約を結ぼう」という話が出てしまうかもしれません。

マイナー日本にいなければどこを変えるべきか、どうサポートするべきかがわからない。遠隔でずっと日本語の製品開発に関わっていても、現場感がないんです。だから、アシストが代理店として無事軌道にのるまで日本でサポートするべきだ、と考えました。

そのために、米国オラクルの子会社として日本オラクルという名前の会社をつくることになりました。僕はその会社の代表取締役になったんです。

武田 入社2年目で日本オラクルの初代代表に! すごいことです。

マイナー 名ばかりの社長ですよ(笑)。本当は、1年半くらいやって抜けようと思っていたんですけど、その後も次々にやりたいことが見つかるので、日本オラクルの次の発展のためにゼロから社長をスカウトしようという話になりました。そして、1年くらいかけていろんな社長にインタビューをしたんです。

武田 日本オラクルを任せられる人を探すために。そのとき、売上はどのくらいあったんですか?

マイナー 10億円くらいありましたね。そのときは半年くらいで引き継ぎを終えて、本社に戻るつもりだったんです。それが、佐野力さん(元日本オラクル代表取締役会長兼CEO)に会って気持ちが変わりました。とても優秀で、仕事だけでなく人間的にも尊敬できる方でした。佐野さんがやってくれるなら、この人の下でさらに勉強したい、と思ったんです。

武田 本社に戻るという意思を変えるほど魅力的な方だったんですね。

マイナー 結局、私は自分の上司を採用したことになります(笑)。

武田 ゼロから10億円規模まで育てた会社を、よくあっさり譲ることができましたね。

マイナー 10億円規模にできたのも、僕が名ばかりの社長だったからだと思います。ビジネスをクリエイトしてくれたのは、アシストや取引先の会社の皆さんでした。やはり、現地で長くビジネスをしている方々は強いですよ。

僕は当初、オラクルの本社でやっている方法をいろいろ提案しましたが、それを取り入れてもらえず、フラストレーションがたまっていました。一方で営業に同行すると、頭を下げて「よろしくお願いします!」と言うだけ。これでオラクルが売れるはずがないと思っていたんです。しかし、3ヵ月くらいすると、売上が上がってくるんですよね。現地に任せるのが一番だ、ということを痛感しました。

武田 米国のオラクルのやり方が通用しないところもある、と。

マイナー 佐野さんが社長として入った時は、これでもっとオラクルらしく事業展開できる、とちょっと楽しみにしていたんです。でも、佐野さんは佐野さんで、もっとすごい手法をとりました。当時のオラクルは、いろいろなところで小さなマーケティングセミナーを開いて顧客開拓をしていたんですね。そのセミナーが新規の導入候補と会える唯一のチャンスだったし、そこから営業が始まるので、とても大事な核となるものだったんです。佐野さんはそれを全部取りやめて、そのかわり、年に1回だけのビッグイベントをやると決めました。年間売上10億円のときに、1億円をそのマーケティングイベントにかける、と言ったんです。そして他では一切マーケティングをしない、と……。

武田 うわー。大きな決断ですね……。

ソニーを超えた!?時価総額9兆円


シリコンバレーの歴史にも日本オラクルの成功にも、 様々な偶然の出会いが不可欠だったと言える

マイナー 佐野さんが始めたこの大規模イベントは、今では「Oracle Open World」としてオラクル本社でも年に1回、大々的に開催されています。ほかにも、アメリカではほとんど直販で販売していましたが、日本ではいろいろなビジネスパートナーと良い関係を築いて発展していた。このパートナー企業との提携も、アメリカに取り入れられました。

武田 日本オラクルが発端となって、グローバル展開されるようになった取り組みがいろいろあるんですね。

マイナー 日本オラクルは、日本のマーケットポテンシャルから言うと、世界各国のオラクルのなかでこれから最も成長すると見られていたんですよね。そして、世界的にネットバブルがピークだったときに株式公開することになり、とんでもない株価がついたんです。公開後、僕の予想の10倍くらいの価値になりました。

武田 時価総額はいくらになったんですか?

マイナー えーと、9兆円くらいまでいきました。

武田 9兆円!?

マイナー ソニーの時価総額を超えてたんですよ。ありえないですよね(笑)。

武田 アレンの歩いてきた経緯を聞いていると、やはりセレンディピティを感じますね。最初の宣教師としての赴任先が日本だったこと、オラクルの採用に関わる人がモルモン教徒だったこと……。

マイナー その時彼らが日本語開発のできる人材を探していたこと、佐野さんという人材と出会えたこと。さまざまな偶然が重なって今があります。

武田 大きなキャピタルゲインを手に入れた後、アレンはどこに行ったのか? 次の冒険が気になります。

幻の「サンフランシスコで一番の日本料理屋」

武田 これまで、アレンが日本オラクルの立ち上げに携わり、初代代表を務められ、2000年の株式公開時に大きな上場益が手に入ったあたりまで伺いました。そこから次のステップとして、何をされようと思ったんですか?

マイナー ひとつはレストランですね。

武田 えっ、レストラン? これはまたITともデータベースとも関係がない……(笑)。

マイナー 日本オラクルで一緒に働いていた永山(隆昭氏。日本オラクルを経て米国オラクルに勤務後、日本でマイナー氏とともに株式会社サンブリッジを立ち上げた)と、シリコンバレーエリアで一番高級かつ一番おいしい日本料理レストランをつくろう、と盛り上がったんです。

武田 お二人がIT以外の話をされていたのも意外ですね……。

マイナー 「カリフォルニア懐石」という新しいキュイジーヌをつくろう!なんて言っていたんですよ(笑)。そこで、ネットスケープ出身で仕事をコツコツとこなす女性が社内にいたので、彼女になら実務を任せられると考えてメンバーに誘いました。いよいよ本格的に事業を進めようと、意気揚々とミーティングを始めたら、彼女が「あなたたち、レストランの経験ないでしょ」とばっさり(笑)。

武田 返す言葉もないですね。

マイナー 彼女はさらに「レストランをやるなら、サンマテオあたりでもうちょっと安い焼き鳥屋か炉端焼き屋をやろう。六本木にアレンが気に入っているお店があるし、まずはそこを参考に始めるほうが商売としてかたいでしょう」と言うんです。完璧なロジックで計画を覆されて「そのとおりだ!」と思った瞬間、やる気が完全になくなっちゃいました(笑)。

武田 せっかくカリフォルニア懐石を創りだそうとしていたのに(笑)。

マイナー でも冷静になってみたら、飲食店の経験もない僕らがいきなりサンフランシスコ一(いち)のレストランをつくるっていうのも、とんでもない発想だなと(笑)。そこで方向転換して、今度は1997年頃から考えていた、日本のインターネットビジネスの本格的な立ち上げに関わるという方向を具体的に考えてみました。

武田 レストランからはまた大きな方向転換ですが、私の知っている未来には近づいてきました。

マイナー 当時『Yahoo! Internet Guide』という雑誌に「Web of the Year」という日本のベストサイトを選ぶ賞があったんです。1998年の、EC・有料サービス部門の第1位は紀伊國屋書店のサイトでした。どんなものか見てみたら、当時のユーザーインターフェイスは良くないし、中の仕組みも、新宿の紀伊國屋の在庫を店員が探して、梱包して送るだけのものだった。アマゾンの使いやすさに対してまだこれしかできていないのなら、まだまだチャンスはあるだろうと思いました。

武田 最初は自分でウェブサービスをつくろうと考えていらっしゃったんですね。

マイナー そうです。アマゾンと同じくらい使いやすいオンライン書店を日本につくろうと思っていました。いつアマゾンが日本に入ってくるかわからないから、最初は専門書に特化して差別化しようと考えたんです。「一般書はアマゾンで買うけど、技術書や美術書は“hondana(本、だな!)”で買おう」となったらいいなと。

武田 サービス名まで決まっていたんですね。

マイナー バカバカしい名前でしょ(笑)? でもそうしているうちに、京都の、あるオンライン書店の存在を知ったんです。それはわりとよくできたサイトでした。そこで、自分たちでサービスをつくるより、いろいろなインターネットのビジネスアイデアに出資して、ベンチャーキャピタリスト、インキュベーターとしてやるほうがいい、と考えるようになったんです。

武田 それがサンブリッジのスタートだったんですね。

ベンチャーキャピタルの投資対象は、その人のパッションや信条。

武田 サンブリッジは日本におけるITベンチャーに特化したキャピタリストの先駆けですよね。初めてお会いしたのは2000年だったと思います。

アレン どこで?

武田 六本木で。サンブリッジが渋谷マークシティに居を構える前の仮オフィスです。アレン、覚えてないでしょう?

アレン うん。あなたは六本木を知っているんだね?

武田 はい。アレンと永山さんのお二人にお会いしたんですけど、アレンが、私たちの事業に興味がなさそうだったのをはっきりと覚えています(笑)。

マイナー そう(笑)。僕は永山と、投資するかしないかで揉めた案件が2つあったんです。それが、ジー・モードとエイベックです。

ジー・モードは、携帯電話向けのゲームの会社でした。僕はゲームと携帯の両方を組み合わせたこの事業に投資しないなんて、日本でベンチャーキャピタルをやっている意味がない、とさえ思っていました。だって、ゲームも携帯もどちらも日本の得意分野じゃないですか。

一方、エイベックについては、僕はコミュニケーションツールがすべてEメールに集約されると考えていたので、事業の可能性が感じられなかったんです。その頃は、SNSがこんなに広がるなんて思いもしませんでした。

武田 コミュニティについての話をすればするほど、アレンの顔が曇っていきました……(笑)。

ターニングポイントを経る度、広がる視界に合わせて目標を高めていったからこそ、今があるのだろう

マイナー そうそう(笑)。でも、ベンチャーキャピタルというのは、結局ビジネスアイデアではなく、人にかけているんです。パッションや信条に対してお金を出す。永山は人を育てたいという熱意を持っていて、武田さんのことをすごく買っていたんですよね。だから「君がそこまで彼を気に入って、育てたいならいいよ」と僕が折れた。

武田  ありがとうございます。その頃の私達は、ビジネスモデルどころか、システムもまだ完成していない状態だったんですよね。毎週のように永山さんとミーティングし、企業と顧客がコミュニケーションすること自体が新しい価値になるかもしれないという可能性にかけて、投資を決めてくださった。おそらく、当時日本で、こんな状態の私達に投資をするキャピタリストは他にいなかったと思います。

デューデリジェンス(投資を行う際に、投資対象となる資産の価値・リスクなどを経営・財務・法務などの観点から詳細に調査・分析すること)に1年かけるキャピタリストもいないだろうけど(笑)。

マイナー そう。僕らはハンズオンどころか「ハンズイン」と言っていたのですが、一緒に会社をつくりあげるのが本当のベンチャーキャピタリストだと考えていました。お金をばらまいて一部が成功すればいいと考える、ポートフォリオ分散型のモデルが嫌だったんです。

日本のインターネットベンチャーが数多く巣立っていった場所があった

武田 そして、渋谷マークシティの17階にサンブリッジが投資をしている企業が集まる、インキュベーションオフィス「サンブリッジ・ベンチャーハビタット(ハビタット=動植物の生息場所・生息環境のこと。ベンチャー企業育成拠点の意味が込められた)」ができて、私たちもそこに移りました。

マンションの一室で住居も仕事場も一緒だった状態から、いきなりマークシティのオフィスに移ったものですから、すごい変化でした。

マイナー  あの頃のエイベックは……とんがってましたよね(笑)。同じ施設内にいた、アイティメディア(2007年上場)やセールスフォース・ドットコム(2004年上場)なんかは落ち着いていましたから。エイベックとETICはまさに若いベンチャーという感じでした。2社とも、その時から同じ夢を追いかけて発展し続けているのが、感慨深いですね。あの時、あの場所で、何か特別なセレンディピティが生まれていたように思います。

武田 ひとつのファミリーのような感覚がありました。オフィスには大きな水槽と一枚板のテーブルがあって、すごくかっこよくて……やっぱりあそこには西海岸の風が吹いてましたね。クライアントに来社していただくと、皆さんビックリしていました。

マイナー シェアオフィスでどこまでがエイベックのスペースかわからないから、社員がたくさんいるようにも見えるしね(笑)。

武田 (笑)。とはいえ賃料が高いので、永山さんに「どうして安くしてくれないのか」と迫ったことがあるんです。すると「いつかあなた方は自分のオフィスを持つようになる。そのときに、なんてサンブリッジのハビタットと比べて賃料が安いんだ!と思って楽に感じるだろうから、今苦しくても我々は安くしない」と言われて……(笑)。

マイナー それはめちゃくちゃだ(笑)。でも高いだけじゃなく、あのオフィスにいることで利点もたくさんあったでしょう?

武田 はい、たくさんありましたね。

マイナー  ベンチャーはいかにコストを抑えるかではなく、いかにたくさん売って事業を大きくするかが大事。だから、お客さんを呼んでも恥ずかしくない、都心で営業先にもすぐ行けるというのは重要なことだと思ったんです。また、ここは予想外でしたが「マークシティで働けるなら」ということで、採用にもプラスにはたらいたと聞いています。

結局、実績もブランドもないベンチャーに必要なのは、能力の高い社員といいお客さんです。それらの獲得に非常に大きく寄与する場所だったんじゃないかと思っています。

武田 あの場所は私たちにとって、本当にハビタットでした。

シリコンバレーのVCの特殊性

武田 ここからは、アレンが立ち上げた日本のITベンチャーキャピタルの先駆け「株式会社サンブリッジ」について、伺っていきたいと思います。そもそもアレンが日本でベンチャーキャピタルを始めたのは、「自分たちでサービスをつくるより、生まれたてのビジネスアイデアに出資して、インキュベーターとしてやるほうが面白い」という考えからだったと伺いました。

マイナー 始めた当時は、シリコンバレーと日本のいいところを組み合わせた、日本ならではのベンチャーエコシステム(生態系)をつくることに貢献したいと思っていました。

たしかに日本にはシリコンバレーのようなダイナミズムはありません。でも、創業者の質やクリエイティビティなどは全然負けていないと思っていました。熱意やまじめに取り組む姿勢もすばらしい。

シリコンバレーは成功者が多いように見えるけれど、失敗するベンチャーの方が実は大変多いんです。大成功した会社しか日本に来ないから、すごいと思われているだけ(笑)。

武田 でも、シリコンバレーと日本では、ベンチャーの資金調達のしやすさなども大きな違いなのでは? 私は2000年に、ホットリンクの内山社長に誘われてシリコンバレーに1カ月だけ滞在したことがあります。そこで見たキャピタリストと創業者のコミュニケーションは、日本のそれとは大きく異なるものでした。

マイナー はい。違いはあります。でも、それだって創業者の能力差ではないんです。これはむしろ、シリコンバレーのベンチャーキャピタルが特殊なんです。ヨーロッパのベンチャーキャピタリストはあまりリスクテイクしないと聞いたことがありますし、ボストンやニューヨークのベンチャーキャピタリストもまた違います。その違いは、ベンチャーキャピタリストのバックグラウンドにあるのではないかと思います。

武田 なるほど。シリコンバレーのベンチャーキャピタリストの特殊性とはなんでしょうか?

マイナー 一言でいうと、自分自身の経験ですね。人は、新卒で入った業界の常識とカルチャーによって、世界の見え方が変わります。証券会社だったら、一部は債権、一部は株、とリスクを分散するのが正しい戦略です。銀行だったら、経費、キャッシュフローなどを徹底的に確認して、絶対つぶれないところにしか貸さない。

では産業界はどうかというと、自分たちの強みを見出し、ひとつの事業に集中して大きく賭けるのが正しい戦略、カルチャーなんです。

武田 シリコンバレーのベンチャーキャピタリストは産業界からの出身者が多いと?

マイナー そう。自分たちが若い頃にベンチャーを立ち上げたり、技術者や営業職として事業創出に携わったりしたことがある人が多いということ。これに尽きると思うんです。

だから、リスクテイクを恐れない。ベンチャーキャピタリストをどう教育するかではなく、それぞれの業界の違いを見極め、どの業界からベンチャーキャピタリストを呼びこむかが重要なんです。

日本がベンチャー投資に値する国である理由とは

マイナー また、私たちは、自分たちを評価するための目標として、シリコンバレーのキャピタリズムに負けない投資パフォーマンスを日本で実現しようと考えていました。そして、日本がベンチャー投資に値する国なのだということを証明したかったんです。

日本にはいいベンチャーがないのではない。経営に深く入るハンズオンの投資をすれば、日本でもシリコンバレーに匹敵するような投資収益が出せると思いました。

武田 サンブリッジが投資した、アイスタイル(東証1部:3660)、セールスフォース・ドットコム(NYSE:CRM)、アイティメディア(東証マザーズ:2148)、オウケイウェイヴ(名証セントレックス:3808)、ガイアックス(名証セントレックス:3775)、マクロミル(東証1部:3730)、ジー・モード(JASDAQスタンダード:2333 ※2011年当時)、シコー技研(東証マザーズ:6667 ※2012年当時、現:新シコー科技株式会社)と8つもの企業がIPO(新規株式公開)を果たしました。振り返ってみると、すごい実績ですね。

マイナー おかげさまで、サンブリッジの日本国内での投資実績は、シリコンバレーの上位10%くらいのパフォーマンスを出せています。

そして、もうひとつ目標にしていることがありました。

武田 なんでしょうか。

マイナー 日本発のグローバルベンチャーの成功例をたくさんつくりたい。日本は日本国内の市場が大きいので、国内だけでも大きな会社にできるし、IPOもできる。それは良いことでもあるのですが、海外展開になかなか目が向かない原因でもあります。他にも、英語ができないからとか、戦略性が欠けているからとか、いろいろな要因があると言われています。

日本では、ベンチャーキャピタリストが早く資金回収をしたいということで、市場全体が早いIPOを薦める傾向があることもひとつの要因です。でもそれはおかしいと思うんです。

武田 それは、世界展開と足並みを揃えてIPOをするということでしょうか?

マイナー そうです。少しずつ海外のビジネスがうまくいっているところも出始めていますが、まだ日本発のGoogleやApple、この時代のソニー、トヨタのような企業は出ていません。グローバルリーディングカンパニーを日本から出せるということを証明したい。

これは、サンブリッジとしての最初の目標でもありますし、僕のライフワークでもあります。この6年くらいは、シリコンバレーをベースにしてその流れを進めてきました。日本から押してダメなら……。

武田 引いてみろ(笑)。「サンブリッジ」という社名は、もともとアメリカと日本の間を架ける橋という意味があったんですよね。

マイナー そうです。この2年くらいは、動きが活発化してきたように思います。僕の気持ちと、日本のベンチャー経営者の気持ちが一致してきた。僕が関わっているベンチャーの海外展開で、誇りに思える成功事例ができると信じています。エイベック研究所(現クオン株式会社)も、ね(笑)。

武田 もちろん(笑)。

世界がサバイバルするためのモデル=日本

2000年代初頭、ベンチャー企業の夢を育てた「サンブリッジ・ベンチャーハビタット」の様子

武田 では、海外展開において、気をつけるべきことはありますか?

マイナー 日本には、これ以上アメリカナイズされてほしくないと思っています。

武田 アメリカ人であるアレンがなぜそう思ったのでしょう。

マイナー ベンチャーキャピタルを始めた当初は、日本のベンチャーって変わってるな、と思っていたんです。みんな企業理念に「社員が楽しく働ける」「社会に良い影響を与える」など、事業内容と関係ない理想を書くんですよね。しかも投資家向けのプレゼンで、それを最初に話す。なぜ投資に関係ないことを?と思っていました。

でも、日本でベンチャーキャピタルを続けているうちに、社員、顧客、社会の三方良しという考え方は、すばらしいと思うようになりました。

武田 近江商人ですね。

マイナー これは国全体にも言えることです。みんなが安全安心で幸せに暮らせるという国家目標は、つまらないように見えますが、これが日本の強さだとわかりました。

資源の少ない島国は、人間を活用するしかありません。メディア、経済人、官僚、すべての人が理念を持ち、社会のあるべき姿をつくろうとしているのは、日本という国が生き残るために必要なことなんです。

しかし、バブルがはじけた以降日本の経営常識が少しずつアメリカナイズされてきている事が気になります。一方で、2008年のリーマン・ショック以降、アメリカ型の資本主義は批判されてきています。

武田 エンロン事件など、不正が明るみに出た例もありますし、財が一極集中していくモデルに批判的な意見も多くあります。

マイナーこれからの地球の全人類が生き残るためのモデルは、アメリカからは出てこないと思います。そして、島国である日本から出てくるのではないかと思うんです。だから日本企業は、昔から大切にしていた生き方、考え方を持ち続けて、グローバルで活躍してほしい。

シリコンバレーに対しても、日本人の生き方やモラリティ、起業についての常識を広めてほしいと思っています。世界の将来のあり方のモデルとして、日本のやり方をぜひ発信して欲しいです。

武田 本連載で、経済学者の岩井克人先生が、日本企業は株主のものであると同時に、会社を「法人」と呼ぶ、つまり会社を「人」であると考える、というお話をされていました(リンク:岩井克人対談)。人形浄瑠璃の人形に感情移入する文化がある、日本ならではの考え方なのかもしれません。アレンが先ほど話していた、企業理念が事業内容に先行するというのも、会社に魂を見出そうとするからなのかもしれませんね。

マイナー まったくその通りだと思います。

ベンチャーは、未来の社会のために必要な存在

武田 もうひとつ、思い出したことがあります。2000年頃、サンブリッジの創業記念パーティーで、長らく日本ベンチャー学会の会長を務められていた早稲田大学名誉教授の松田修一先生にお会いしました(リンク:松田修一対談)。

マイナー はい。松田修一先生は「サンブリッジ・ベンチャーハビタット」で、ベンチャー企業へ事業計画への助言などを行なうアドバイザリーボードのメンバーでした。

武田 松田先生がパーティーの席上で、「今は売上を上げて社員を養って、という目の前のことに追われているだろうが、それに邁進し会社が生きながらえれば、イノベーションを体現する存在として、日本経済全体を活性化する一助になる。ベンチャーは社会に必要な存在なんだ」というメッセージを頂きました。

アレン うん。素敵なメッセージ。さすが松田先生だ!

武田 え? アレンもその場にいましたよ?(笑)

マイナー そうでしたっけ(笑)。

武田 私は学生時代にベンチャーを立ち上げました。当然親も心配しますし、起業したからといって誰かが喜んでくれるわけでも、注目してくれるわけでもない。でも、松田先生に「ベンチャー企業がイノベーションを起こし成功することは、必ず後続の起業家に活力を与える。日本経済の発展に貢献するその存在自体が希少である。」とエールを送っていただき、そのとき初めて、なんだか存在を認められた気がしました。「僕たちも頑張ろう!」と仲間と誓いあいました。もし、今、起業したばかりの方で当時の私と同じような気持ちの方がいらしたら、この松田先生のメッセージを届けたいです。

マイナー 賛成です。そしてぜひ“メイド・イン・ジャパンのグローバルスタンダード”を目指してもらいたいと思います。私も応援します。

アレン・マイナー 株式会社サンブリッジコーポレーション 代表取締役会長兼サンブリッジグループCEO。日本オラクルの初代代表に就任し、今日の日本オラクル社の急成長の礎を築きあげる。1999年に設立したサンブリッジの代表取締役として、数多くのベンチャー企業への投資に加え、株式会社セールスフォース・ドットコムをはじめとする海外クラウドベンダーの日本におけるジョイントベンチャーの設立にも携わる。2011年より新たに、初期段階からグローバルを視野に入れるベンチャー企業を支援する「グローバルベンチャーハビタット」を立ち上げる。著書に『わたし、日本に賭けてます。』(翔泳社)がある。

第1回QONアドバイザー会議
〜Quality Of Networkとはなにか?〜

2020年2月5日 赤坂某所。日本を代表する知識人たちが一堂に集結し、次世代の重要テーマ「Quality Of Network」について、議論を白熱させた。このテーマは、クオン社の社名の由来でもある。1996年、学生ベンチャーとして起業し、多くの幸運に恵まれどうにか生き残ってきた。その幸運のひとつは、知の巨人たちとの出逢いだった。「ソーシャルメディア進化論(ダイヤモンド社/2011年)」の出版を機に紡がれた縁は、縁が縁を呼び、クオンの社格には不相応な重厚で貴重なネットワークとなった。「QONアドバイザー会」はクオンにもたらされた幸運の結晶でもある。「アドバイザー会議」に知の巨人たちが集まる…。この知のネットワークのやりとりをクオン社内に留めておくのは忍びない。アドバイザーのみなさまに、会議全録の記事公開をお願いし、快諾を頂いた。
当日、議論は凄まじい密度で展開された。「クオリティ」とはなにか?「ネットワーク」とはなにか?量と質。マスメディアとインターネット。秩序と混沌。人間とAI、意識と無意識。様々な二項対立の関係が次々と暴かれて行く。「Quality Of Network」について考えるということは、多くの矛盾と向き合って行くことなのだと痛感した。動的に冒険的に。そして大きな野望を持って。「QON」は、「Quality Of Network」 の頭文字だ。「QON」は「クオン」と読む。この音は仏語の「久遠」にも通じる。久遠とは、遠い過去または未来のこと。久遠の視野を持って、同じ時代を生きる皆さまと一緒に、ネットワークの多様な現実と可能性について模索していきたい。(クオン代表 武田 隆)

■参加者 ※敬称略
<アドバイザー>
野中郁次郎(一橋大学名誉教授)/ 松岡正剛(編集工学者)/ 村井 純(慶應義塾大学教授)/ 松田修一(早稲田大学名誉教授)/ 池上高志(東京大学大学院総合文化研究科教授)/ 佐野弘明(元株式会社電通常務執行役員)
<社外取締役>
アレン マイナー(サンブリッジグループCEO)/ 國領二郎(慶應義塾大学教授)

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