JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

これからも肌を見守る黄色いクリーム

ユースキン製薬

<ゲスト>代表取締役社長 野渡和義さん

※2021年収録

手荒れに悩むお客さまの声から生まれた「ユースキン」。
消費者の思いを商品の実現につなげる、その温かな企業理念は創業から六六年を経た今も受け継がれています。

知花 社名でもあるクリーム「ユースキン」は、オレンジの温かみあるパッケージが印象的で多くの方が目にしていると思います。まずは、この看板商品誕生の経緯から教えていただけますか?
野渡 戦後、私の父は薬屋を営んでいたのですが、店番をしている時、一人のお客さまが訪れ、ひどく荒れた両手を見せて「何か良い薬ありませんか」と聞いてきたそうです。店には石油系油脂の商品しかなく、それを父が差し出したところ、そのお客さまは「これですか」と落胆した様子だったとか。すでに使ったことがあって、あまり効かなかったのでしょう。それでも仕方がなく買って帰られた。父は、このことが忘れられず、あのお客さまの手荒れを治す商品ができれば多くの方に喜んでもらえるのに、と考えたのが最初だったと聞いています。

「ユースキン」の開発はお客さまの落胆から

知花 そのお父さまが、ユースキン製薬の創業者である野渡良清さんですね。
野渡 はい。父はもともと農家の四男坊でした。当時、田畑を受け継ぐのは長男で、それ以外の男子は外で働かないといけません。横浜市の鶴見で薬屋を営んでいた遠い親戚から「働き手がほしい」という話があり、働きに出たそうです。まだ十六歳くらいですから、かなり心細かったようですね。
知花 お父さまはそこで薬の商売を覚えられたのですね。
野渡 ご主人の販売する様子を見て覚えたようですね。その後、父は調剤薬以外の薬を扱える「薬種商」の資格を取得して、ご主人の商圏を侵さないよう隣町の川崎で最初の薬局を開きました。その後間もなく戦争に召集され、いったん店を閉めますが、幸いなことに戦地から帰ってまいりまして、駅に近い場所に店を移し、昼間は店を妻に任せて自分は京浜工業地帯辺りの研究所や工場を回って薬品の注文を取っては配達するという商売を始めました。
知花 なるほど。実際の商品の開発はどのように行われたのでしょう?
野渡 お得意先のある研究所に、非常に気さくに話をしてくれる先生がいらしたそうです。綿谷益次郎とおっしゃる方で、ご専門が「乳化」という技術。父は最初に、その先生にハエやウジなどを殺す乳化タイプの殺虫剤の開発を依頼しました。
武田 ユースキン製薬の前身となる瑞穂化学工業を設立されたのがその頃ですか?
野渡 そうです。一九五五年に創業しました。そんな時に、先ほどお話しした手荒れのお客さまの来訪があり、「そうだ! これも先生に相談してみよう」ということになったのです。クリームというのは、まさに乳化の技術を使った製品ですからね。それでできあがったのが「ユースキン」です。この時、父のアイデアでビタミンB 2とカンフル(樟脳)を加え、黄色くてスーッとした匂いのするクリームができました。
知花 黄色は「ユースキン」の特徴ですよね。お客さまの反応はいかがだったのですか?
野渡 最初は「色と匂いのあるクリームなんか売れるか」と、薬屋さんも扱ってくれませんでした。そこで、サンプルをたくさんつくって薬屋さんに配り、お客さまに渡してもらうようにしたのです。すると「黄色いクリームください」というお客さまが増えてきました。そうしてようやく薬屋さんが売る気になってくれて、だんだん広がったというのが経緯です。
知花 そうでしたか。社長から見て、良清さんはどんな方でしたか?
野渡 アイデアマンですね。駄洒落もよく言っていましたが、ネーミングも結構うまいと思います。
武田 「ユースキン」も先代のアイデアですか?
野渡 そうなんです。父は小学校しか出ていないので、英語を習っていません。でもユーとスキンくらいは知っていたわけですね。「あなたの肌」なら本来は「ユアスキン」となると指摘したところ、「ユーのスキンでなぜいけないんだ」と(笑)。でも「ユアスキン」という商品名だったら売れなかったかもしれません。
知花 そうかも(笑)。「ユースキン」の方がスッキリした印象ですよね。

ハウスメーカーを辞め、ユースキンに入社

知花 野渡社長は二代目ですが、大学ご卒業後はハウスメーカーにご就職されたそうですね。
野渡 はい。あまり深く考えず、友だちと一緒にハウスメーカーを受けに行ったら受かってしまって(笑)。配属は営業だったのですが、一年目はとにかく空き地とその所有者を探せと言われ、登記所に行って調べる日々でした。「いずれ自分の一戸建てが欲しい人だから」という理由で、アパートや団地に住んでいる人のところをしらみつぶしに訪れるようにも言われてずいぶん歩きましたね。
武田 ユースキン製薬に入社するつもりはなかったのですか?
野渡 当時は父と一緒に仕事をすることがなんとなく嫌だったし、家業を継ぐのもあまり素敵じゃないとも思っていました。ただ、社会に出てみて、自分の考えは甘かったなと思いましたよ。全然成績が上がらなかったのです。就職したハウスメーカーの商品があまり好きではなく、そういう思いが根っこにあったせいかもしれません。毎月の営業会議で責められ、つらくて円形脱毛症ができたりして。家業が薬屋ですから、いろいろな薬をつけたのですが、全然治らず(笑)。そうやって苦しんでいると、父が「うちも増産体制ができたからおまえも営業で一緒にやらないか」と声をかけてくれて、それで入社一年を前にハウスメーカーを退職し、ユースキン製薬に入社しました。
武田 お父さまの会社に入社されてからは順調でしたか?
野渡 実は入社時、私は少し天狗だったんです。大卒だったこともあって「俺はできる」みたいな顔をしていた。その鼻をへし折られました。営業だった私の担当は東京の多摩地区と東北六県で、ひと月のうち三週間くらいは先輩たちと一緒に東北に出張していたんですね。卸業者任せにせず、自分たちで薬屋さんを一軒一軒歩いて回るわけです。そうすると、一〇軒回って五件注文を取る先輩に対して、私は一件取るのに四苦八苦。それなら数をこなそうと、先輩が一日二〇軒回るところ、三〇軒目指して営業しました。生半可な知識じゃ通用しないことを痛感した日々でした。

売り上げ減覚悟。自社製品だけで勝負!

知花 ユースキン製薬は二〇二一年で創業六六年になります。その長い歴史の中で転機になる出来事を挙げるとしたら何でしょうか?
野渡 拡大路線からの方針転換ですね。「ユースキン」は柱の商品になりましたが、夏の市場には強敵がいて、自社製品がなかなか売れなかったのです。それで他社製のものを売り始めました。当然利益率は悪いですが、扱わざるを得ない。売れなければまた次の商品、ということを繰り返していくうちにどんどん資金繰りが悪くなり、ついに倒産寸前に追い込まれてしまったのです。この時、他社製のものをすべてやめて自社製のものだけを売ることを決断しました。
知花 それはいつ頃のことですか。
野渡 一九八八年ですね。私が社長に就任する年です。
武田 売れているものもあったわけですよね? やめるのは勇気の要る決断だったのでは?
野渡 他社製品は売ってもあまり喜びがないんですよ。売り上げをつくるために売るのはもうやめた方がいいなということは前々から思っていました。同時に、自社製品についても、過剰につくって押し込み営業をするのもやめることにしたのです。原料を買ってつくっても長い手形をもらってお金になるのは一年先。つくればつくるほど資金が必要になるという悪循環になっていましたから。必要なだけつくる、売れないものはやめる、誇りを持てるものだけを売る。こう決めたわけです。
武田 経営状況はどう変わりましたか?
野渡 売り上げは四割ほど落ちましたが、資金繰りは改善しました。これで安定すると確信したので、そこから「ユースキン シソラ」シリーズの前身である「ユースキンS」を開発して、販売に力を入れることにしたのです。
武田 売り上げを落としても利益率を上げて資金繰りを安定させる。そして開発余剰金をつくり、商品を生み出した、ということですね。
野渡 はい、私自身が手がけた商品の第一号です。
知花 しその力に着目したスキンケア商品だから、「ユースキン シソラ」ですよね。
野渡 そうです。しそのエキスがアレルギーを抑制するという研究結果が発表されたのを受け、ともかく当社が先陣を切りたいと思い、敏感肌の方のために急ピッチで開発しました。

左から、初代ユースキン、1983年から37年間続いたデザイン、2020年のリニューアル版。

「ハンドクリームの日」として登録された11月10日には、ハンドマッサージイベント「ハンドエキスポ」を開催。正しいハンドケアを広く伝える機会に。

毎年、全国から募ったオリジナル格言から 31を選んでつくる格言集。1999年から続くその選考会は、お客さまと社員の交流の場ともなっている。

しその葉エキスが持つうるおい成分を活用した「シソラ」シリーズ。野渡和義社長が社長就任後最初に開発を手がけた製品。

二万人が参加する格言選考会

知花 ところで、ユースキン製薬は毎年、格言集を刊行されていらっしゃるそうですね。
野渡 はい。格言は全国の皆さまから公募して、その中から最終的に三一を選んでいます。もともと私の父が格言やことわざが好きで、以前は格言入りの日めくりカレンダーを年末の挨拶回りで配っていたのです。ところが、ワープロやパソコンの普及で、カレンダーをつくる印刷屋さんが廃業してしまって。それでもなんとか続けようと一度はバックナンバーから拾ってつくったのですが、格言を使い回すのも限界がありました。そこで公募をしてみたら一三〇〇も集まったのです。
知花 そんなに?
野渡 ただ、どれも人生が反映されたものばかりで捨て難い。私と父と当時の総務部長の三人で、来る日も来る日も選考していたら、みんな具合が悪くなってしまって(笑)。私たちの様子を見かねた女性社員が「愛用者に選んでもらったらどうですか」と提案してきて、「それはいいアイデアだ!」ということで始めました。格言選考会は思った以上に好評でして。初回は東京近郊の方三七人が来てくれたのですが、帰り際に「また来年もやってほしい」とおっしゃる。そこで徐々に範囲を広げ、全国主要都市で開催してきました。選考に参加してくださった方は延べ約二万人に上ります。
武田 そんなに! 社員の方が愛用者と触れ合う機会にもなっていますよね。
野渡 その通りです。選考会を開きたかった背景には、ファンと触れ合って、直接感謝を伝えたいという気持ちもありました。一方、お客さまにとっては、自分が愛用している商品をつくっている人に会う機会になります。
知花 選考会を通して「社員の顔の見える製品」になったわけですね。
野渡 「顔の見えるメーカー」になることにこれほど効用があるのかと思いました。お客さまの声を直接聞くこと、こちらの思いを伝えることの大切さを改めて痛感しました。
知花 私がとても面白いなと思ったのが一から九まである「選考会運営上の留意点」。その二番目に「お子さま連れのためにキッズコーナーを設置」というのがあるんですよね。これは、お母さんにとってはとてもありがたいはず。
武田 優しい視点ですよね。「ユースキン」のパッケージのように優しい。
野渡 お子さまをお持ちのユーザーの方もたくさんいらっしゃいます。子どもが騒いだら悪いからと来られない方がいるのであれば、それは申し訳ない。そう考えて、キッズコーナーを会場の一角に設置して、社員が一人つくようにしました。

ユーザーの声を直接聞くことの大切さ

知花 留意点の九番目には「原則として全社員が少なくとも年一度参加する」とありますね。
野渡 お客さまと接するとなれば、商品知識を仕込まざるを得ませんよね。新入社員から年配者まで、営業部員から製造現場の社員まで全員が年一回は参加して「実際に使ってこうだった」「もっとこうしてくれ」というお客さまの声を報告会で報告し、レポートを書いてもらっています。そうすることで社員は「お客さまの役に立っている」「その喜びのために自分たちがいるんだ」とわかるでしょう? お客さまの声を直接聞けば、どうしても実現したいと思うはず。これはとても大事なことだと思います。
武田 先代から変わらぬ姿勢ですね。
知花 ユースキン製薬が今、力を入れていることはどんなことですか?
野渡 私たちは、「ユースキン」は手だけじゃなくて踵や顔にも良いと考えています。そういうことを伝えるために、まず始めたのがハンドケアの講習会です。格言選考会の会場でも必ず行いますし、各地の街角でハンドマッサージキャンペーンもやっていました。エステティシャンがお客さまにハンドマッサージをしてあげる活動から始めましたが、マッサージのやり方をお客さまに指導する方が覚えてもらえて、しかも安上がり(笑)なので途中で変えました。効果的なマッサージをすれば大きな効果を発揮することを伝え、その上で特に踵などへ用途を広げる活動をしています。
知花 「いい手の日」のイベントも開催されていますよね。
野渡 クリームは九月くらいから店頭に並びますが、商品が大きく動き出すのはだいたい一一月です。だから、一一月一〇日を「いい手」と読ませて、繁華街でキャンペーンを始めたのです。ゲームなどをしながら、正しいハンドマッサージの仕方をレクチャーし、実際に自分でやってもらう。この日を「ハンドクリームの日」として日本記念日協会にも登録しましたよ。社用車のナンバーもすべて「一一一〇」です。
知花 それはすごい。格言選考会やハンドクリームの日の交流など、ファンの方との触れ合いを大切にされてこられたことがよくわかります。
武田 丁寧にお客さまにお伝えし、丁寧にお客さまの声に耳を傾ける。これが創業者から続くユースキン製薬のDNAなのですね。
野渡 まさにそうです。「ユースキン」の発売を始めた当時、お客さまから「悩みが解消した」「綺麗になった」といったお礼状が届くと、先代は手書きで返信していました。今ほど意思伝達が簡単ではなかった時代、お客さまは相当なエネルギーを使って声を届けてくれていたはずですから、それは嬉しいし、応えないと申し訳ないと思ったのではないでしょうか。製品にアンケートはがきをつけるようになってからも、送られてきたはがきに手書きで返信するのが先代の習慣でした。生きがいにもなっていたと思いますね。
武田 「ユースキン」が長く愛されている理由は、こういったところにもあるのでしょうね。
野渡 もちろん製品の効き目がベースにあってのことですが、人間的なつながりがあれば、一度はほかの商品に目移りしても、また戻ってきてくれる。先代の時代に、私はそういう様を目の当たりにしていますから、次々とさまざまな製品が登場するようになった今も、こうしたつながりは選ばれ続けるための強さになると考えています。
知花 一〇〇年後の未来、ユースキン製薬はどんな会社になっていると思いますか?
野渡 五〇年ぐらいかければ「ユースキン」の良さを世界にわかってもらえるのではないかと思っています。そこからさらに五〇年先には、もしかしたら手を覆う膜のような手袋が開発されてハンドクリームが必要なくなっているかもしれません。その時、その膜をつくっていたいです。肌をずっと見守っていたい。一〇〇年も経てば状況も大きく変わっているでしょうが、「肌を見守る」という点では一貫した企業でありたいですね。

会社情報
ユースキン製薬株式会社

ゲスト

野渡和義(のわたり・かずよし)

1949年神奈川県川崎市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、住宅メーカー入社。1年後の1973年、父・野渡良清が創業したユースキン製薬入社。営業として拡販に努め、商品企画、広告担当を経て、1988年、代表取締役社長就任。「あなたの肌のために」の想いのもと、アンケートはがきから顧客の声を収集し、品質改善、新製品開発、さらに直接交流会を通じて関係を深める戦略を進める。2020年、主力製品「ユースキン」をリニューアル。