JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

故郷たたらの地と生きる五六〇年

田部グループ

<ゲスト>田部グループ代表 田部家第25代目当主 田部 長右衛門さん

※2022年 収録

はるか源平合戦の時代に起源をもつ田部家は、創業五六二年の実業一家でもあります。
名跡とともに受け継がれてきたのは、常に人を第一とする精神でした。

知花 本日お迎えしたのは、田部グループの代表にして、田部家二五代目当主の田部長右衛門さんです。貫禄のあるお名前ですね。
田部 うちの初代は田辺彦左衛門と申しますが、十代目の時に松江藩のお殿様から田部長右衛門という名前をいただきまして、以降、長右衛門を継いでおります。
知花 今の長右衛門さんは、いつ襲名されたんですか?
田部 三六歳の時です。元の名前は真孝ですが、襲名で本名そのものが変わるので、戸籍もクレジットカードも保険証も、今は全部、長右衛門なんですよ。
知花 将来自分が名前を継ぐことを、どう思っていましたか?
田部 プレッシャーは感じましたが、嫌だと思ったことはないです。自分が望む道と、用意されている道が一緒というのは、幸せだったと思いますね。

鎌倉時代に端を発する一族の軌跡

知花 田部家の歴史について、簡単に教えていただけますか。
田部 私どもの一族は、和歌山県の田辺という土地の出でして、平安時代には熊野水軍の一派でした。源平の戦いで、水軍と一緒に平家を打ち破ったため、その残党につけ狙われるようになり、一族は和歌山を出て、二手に分かれて安住の地を探したんです。片方の組は今の山梨県に。我々の先祖は最終的に今の島根県と広島県の県境あたりに行き着いて、そこで一二四六年頃、小大名の家臣となりました。
武田 ひょっとして今回は、番組史上、最も歴史ある企業さんかもしれませんよ。
知花 その通りですよ、武田さん。平安時代からのお家柄ですからね。
田部 でも武士になって十代目で当主が戦死し、息子の彦左衛門は、こんな命のやりとりを続けていては家が続かないと武士をやめることにしました。そして奥出雲の地で、一四六〇年にたたら製鉄を始めました。ヤマタノオロチ伝説が残る土地です。
武田 スサノオが退治した大蛇から、三種の神器のひとつ、草薙の剣が出てきたという伝説がありますね。
田部 そうです。神話に名高い名刀ゆかりの地で製鉄を始めました。田辺彦左衛門は、我々にとっては神様のような存在で、今も「鉄山元祖さん」と呼ばれ敬われています。
知花 そもそも「たたら製鉄」って、どういったものなんですか?
田部 砂鉄から鉄をつくる製鉄法です。砂鉄を土の炉に入れて、一五〇〇度で三日三晩熱しますと、七五%が不純物として流れ出てしまいます。あとに残るのが玉鋼(たまはがね)といって、日本刀なんかをつくる鉄なんですが、十二トンの砂鉄と十二トンの木炭を使って、できあがる鉄は三トンほど。
知花 とても少ないんですね。
田部 歩留まりは二五%ほどです。うちは大正末期までたたら製鉄をやっていましたが、明治維新の頃には撤退し、現在は飲食業、不動産業、地域開発業、養鶏業、住宅販売業、建設業と、あらゆることをやっております。

ユニバーサル対応だった昔の「たたら場」

知花 創業五六二年の歴史の中で、一つ転機をあげるとすれば何ですか?
田部 やはり明治維新です。うちは昔、松江藩のお抱え鉄師でして、つくった鉄を売る先も主に松江藩だったわけです。ところが明治維新で藩が廃止され、メインの販売先がなくなっちゃったんです。しかも海外から安い鉄鉱石が大量に輸入されるようになり、日本は近代製鉄の時代に入っていきました。
知花 たたら製鉄には、痛手ですね。
田部 たたらでつくる鉄は、質はいいんですけれど、つくるのに手間がかかって効率的ではありません。近代化の波にのまれ、とうとう一九二一(大正一〇)年に、私たちはたたら製鉄から撤退することになりました。ただ、従業員が、四、五〇〇〇人もいましてね。
知花 従業員が五〇〇〇人!
田部 すごい人数ですよね。というのも昔のたたら場はユニバーサルでございまして、読み書きができない人でも、戦で手足を失ったり、失明したりした人でも働けるよう、お酒を温めるだけの「燗方」とか、箸をお膳に並べるだけの「箸方」といった仕事までありました。我が家の先祖は代々地域の長として、みんなにできる仕事をしてもらい、給金を払ってご飯を食べられるようにしていたんです。
知花 職場がなくなって、その五〇〇〇人の働き手はどうなったんですか?
田部 新しい働き口を求めて離れて行ったり、我々の方から暇を出したりして、ほとんどの従業員が去っていきました。これは本当に痛恨なできごとでございまして、私たちの中に深い反省として今もあるんですよ。今でいうところの「ビジネスモデルのチェンジ」がうまくできていたら、あの時、雇用は守れたかもしれません。例えば製鉄を行う大鍛冶、いわゆる町の鍛冶屋といった小鍛冶、あるいは鋳物と、いろんな方向に事業を振り分けていれば、今も仕事として残っていた可能性は、大いにあったと思います。

グループの基礎を築いた朋之翁

知花 田部家としては、その後どんなお仕事をされていたんですか?
田部 林業、木材業、製炭業などです。二一代目と二二代目は、家業を続けながら貴族院議員もやっていました。二一代目の長秋さんは入り婿ですが筋金入りの武士で、槍を手に白馬にまたがり婿入りしてきたそうです。その孫が私の祖父、二三代目にあたる朋之です。
知花 だいぶ時代が近づいてきましたよ。
田部 この朋之おじいさんがすごい人で、長秋からは武士道をたたき込まれ、本人も柔道七段。大学時代には京都で伝統文化に触れ、書画、骨董、陶芸、彫刻などを嗜んで、松露亭の号から松露亭芸術などと言われました。衆議院議員も務めれば、現在の田部グループの実質的な創始者でもあります。
武田 かなりマルチな方だったんですね。
田部 はい。合板製造の日新グループ、地元新聞の山陰中央新報社グループ、山陰中央テレビグループ、そして本家の田部グループ、すべて祖父の朋之が創始者です。私が生まれてすぐ亡くなったので、直接会ったことはありませんが、田部家の中興の祖として、すごく尊敬しています。
知花 ケンタッキー・フライド・チキンのFC事業も、おじいさまが?
田部 事業として始めたのは私の父です。祖父は一九七〇年の大阪万博で、父も別の機会にケンタッキー・フライド・チキンを食べて、「こりゃうまい、地元のみんなにも食べさせたい」って、たまたま二人とも思ったようです。
知花 おじいさまとお父さま、目のつけどころも似てますね。
田部 実は父と祖父は、互いにそうとは知らず、KFCのフランチャイズをやりたいと別々に問い合わせていたんです。「地元の重鎮からのお申し出があるので」と、父は言われたそうですが、あとでその重鎮が祖父だとわかり、「なんだ親父か」って。それで最終的に、父がフランチャイズ事業に乗り出したんです。

二五代目、赤字を乗り越え改革に着手

知花 二五代目は三〇歳で経営に携わるようになられたそうですね。どんなことから始めたのですか?
田部 大学卒業後、私はフジテレビに八年間勤務して、最後は経理部に所属していました。それで地元に帰ることになった時、先輩たちからいろいろとアドバイスをいただきました。「グループ企業の総勘定元帳を、過去五年分よく読んで、お金の流れを把握しなさい」と言われました。そのとおりにしたら、本当にいろんなことがわかってきたんです。
知花 その総勘定元帳というのを見て、どんなことがわかったんですか?
田部 当時、株式会社田部には六部門あったんですけど、外食フランチャイズ事業以外、全部が赤字だったんです。会社が東京に持っているマンションも、入居率が四〇%くらいしかなく債務超過で。不安に駆られて経営者の方々に相談すると、皆さん「売れるものは売れ」って言うんです。「赤坂の六〇〇坪のマンションを売れば、きみの代は楽しく暮らせるよ」って。だけど僕は負けず嫌いなんで、そう言われると、売りたくなくなるんですよね。そんな時ある方が、「シェアオフィスという事業があるよ」と教えてくれまして。マンションがあるのは赤坂ですから、都心の一等地にオフィスを構えたい人にピッタリです。それで住居用に貸していたマンションを、全部オフィスに変えました。
知花 結果はどうでしたか。
田部 ありがたいことに、ずっと一〇〇%稼働です。赤字だった管理会社も、ちゃんと利益が出るようになりました。そうしたらうちの古参の番頭さんたちが、初めて「おっ!」となったんです(笑)。「なかなかやりますね、若」みたいな感じになったんですよ。そこですかさず、ほかの会社も全部黒字化するぞと、号令を出しました。
知花 改革を進めるうえで、気を付けたことってありますか。
田部 先代の事業を引き継ぐだけじゃなく、自分も新しい事業を起さなくてはと思っていました。それぞれの代で新しい事業をつくれというのが、祖父の教えですから。
知花 おじいさまの。
田部 ええ、時代に合わなくなったらすべて変えろ。だが人は守れ、リストラはするな。それが祖父の教えです。だから経営改革は進めましたが、うちは一人もリストラしていません。昔、たたら製鉄から撤退した時、何千人もの従業員に暇を出した苦い経験があるからです。
知花 雇用を守ることは、代々の田部家当主にとって、本当に大事な責任なのですね。

事業の多角化を進めた中興の祖、23代 田部長右衛門(朋之)。明治十六年旧記 田部家の鉄山業についてまとめられた書物。日本古来の製鉄法。2018年におよそ100年ぶりに復活した田部家のたたら吹き。エッジ部に「玉鋼」を使用した、鐵泉玉鋼ペティナイフ。林業体験などを通して、山と親しむ機会を提供している。2021年、株式会社たなべたたらの里設立。島根県雲南市吉田町で、食料自給率100パーセント、一気通貫の循環型コミュニティを目指す。

衰退したふるさとが教えてくれたこと

田部 私の経営理念は、「人、地域、想い」です。お客さま、従業員、地域の方々、すべて人が一番のプライオリティ。二番目は、我々を育んでくれた地域。三番目が自分の想いです。赤字だからと人を切るのは簡単ですけど、その前にできることはいくらでもありますよ。
知花 そういう強い想いを、経営理念に込めたんですね。
田部 うちには七代にもわたって勤めてくれている、地元の人もいますからね。人と地域は本当に大事なんです。
知花 今、力を入れてらっしゃることって、何かありますか。
田部 私どもの地元、島根県の雲南市吉田町は、昔は住民が一万人くらいいたんですが、今は一〇〇〇人ちょっとです。製鉄業の廃業で、そこまで衰退してしまった。で、あるとき地元の中学の校長先生から、生徒たちに夢や希望のある話をしてほしいと依頼があったんです。いわゆる「ふるさと授業」ですね。
知花 ええ。
田部 それで中学校に行ってみたら、生徒さんが三八人なんですよ。一年生から三年生まで、全校生徒が三八人。ものすごくショックでした。昔、うちがうまく事業を転換できなかったせいで、地元は今こんなことになっている。五五〇年以上もお世話になってきたゆかりの地を、何とかせにゃいけんと思いました。

現代に甦る「たたらの火」で地域復活を

知花 衰退した地元に、もう一度活気を取り戻すと?
田部 そう、だから三八人の中学生に向かって話したんです。「僕がこの土地に仕事をつくるから。たたら製鉄を復活させて、昔みたいにもう一度活気を取り戻すから。だから大人になったら、うちに働きに来てください」って。その場で心を決めて、約束したんです。
知花 それは約束を守らねば、ですね。
田部 さっそく社内に事業部を立ち上げて、「たたら製鉄を復活させるぞ!」って大号令したら、「当主ご乱心!」みたいになっちゃって(笑)。だけど廃業して一〇〇年くらい経っていますから、ノウハウも何も残ってないんです。それなら一からやろうと準備に二年ほどかけて、二〇一八年に、約束通りたたら製鉄を復活させました。
知花 本当に復活させちゃったんだ。すごい。
田部 次に考えたのは、産出する玉鋼で何をつくるかです。産業ですから、商品をつくって売らなきゃいけない。
武田 日本刀じゃないんですか。
田部 と、思うでしょ? だけど私、ゴルフが好きなんで。
武田 え、まさか。
田部 まさかのパターをつくったんです。三〇万円もするパターですよ。「そんな高いパター、誰も買いませんよ」って、役員みんな大反対。ところが結構売れたんです。たたら復活のストーリーを話すと、「それはいいね、買うよ」って。今では包丁や和くぎなど、いろいろな鉄製品をつくっています。
知花 ほかにはどんなことに取り組んでいらっしゃいますか。
田部 実はその後、たたら事業だけでは地域は復活しないと結論しまして、じゃあやっぱり「山」だなと。我々は長いこと、山の木を切って火を焚き、土を掘って砂鉄を採り、山の恵みで商売をしてきました。たたら製鉄のために山を買い広げ、うちは大阪市より広い面積の山を地元に持っています。その山を大事にし、山に富を還元するシステムをつくらなければ、地域復興はうまくいかない。それで、たたらの里構想が生まれました。
武田 たたらの里って?
田部 我々の本拠地の島根県雲南市吉田町を、食料自給率一〇〇パーセント、一気通貫の循環型コミュニティに育てる構想です。地元食材でお客さまをもてなす。空き家は買い取るか貸してもらって、宿泊施設や店舗などに改造して生かす。エネルギーは、山の木を使ったバイオマス発電で、その熱を利用してサウナも楽しめる。
武田 一族ゆかりの地で、その土地の人々と、新しい時代をつくっていく。「人、地域、想い」という経営理念そのままですね。
田部 それが二五代である私の責任です。ただ当主というのは、実は死んでからが勝負なんです。お墓の中には、初代から二四代目までの当主が全員ずらりと並んでる。自分がそこに入った時、歴代当主の皆さんに、「二五代目よ、ようやった!」と言ってもらいたい。今はまだ、生きて走っている僕を、先代や先々代と比べる時ではありません。二五代目当主の評価は、私が死んだあと、息子たちが話してくれるでしょう。
知花 では最後の質問です。田部グループの一〇〇年後は、どうなっているでしょうか。
田部 私が取り組んでいる事業は、いずれ息子たちが引き継いで、その責任で手直ししていけばいいと思っています。彼らが父祖の土地に新風を吹き込んで、吉田町が地方創成の成功例となり、「日本のすてきな田舎のお手本は吉田町だね」と、一〇〇年後の人たちに言ってもらえたら、こんな幸せなことはありません。

会社情報
田部グループ

ゲスト

田部長右衛門(たなべ・ちょうえもん)

株式会社田部 代表取締役社長。田部グループ代表。1979年島根県生まれ。2002年中央大学法学部卒業、株式会社フジテレビジョン入社。2010年に島根県へ帰郷し、株式会社田部をはじめとした家業を継承。2015年、第25代田部長右衛門を襲名。2016年に山陰中央テレビジョン放送株式会社の代表取締役社長に就任。