JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

女川の町づくりを担うかまぼこ店

高政

<ゲスト>代表取締役社長 高橋正樹さん

※2020年 収録

宮城県の女川町で名産のかまぼこをつくり続けて八〇年。
「企業は地域に生かされている」という経営理念のもと東日本大震災で被害を受けた女川の復興を牽引してきました。

知花 高政は、かまぼこの製造販売で知られる水産加工品メーカー。宮城県の女川町にある会
社です。高橋社長は四代目でいらっしゃいますね。

高橋 ええ。創業は一九三七(昭和一二)年、創業者は私の曽祖父、高橋政助です。高政商店という屋号で魚の行商からスタートしました。

知花 高橋政助さんだったので、高政商店。

高橋 はい。二代目は祖父の高橋政一、三代目は父の高橋正典で、四代目が私、高橋正樹です。

知花 みんなタカマサさん!

高橋 私の子どもの名前を考える時は、ネタ切れ感で困りました(笑)。

武田 徳川家の心境ですね(笑)。

魚の行商から水産加工品メーカーへ

知花 魚の行商から始まった高政は、どのようにして現在の業態になったのでしょうか?

高橋 三陸沖は世界三大漁場の一つと言われていて、女川港にはバラエティ豊かな魚が揚がります。ただ、漁獲量が多い一方で魚が余ってしまう。それを何かに加工できないかと考えたんです。圧縮機で魚を絞り肥料をつくったのを機に、加工品製造へとシフトしました。初めは鰹節、その後、すり身を製造するようになって、一九七三年に株式会社高政を設立しました。

知花 お祖父さまの代ですね。

高橋 加工品製造を始めた当初は、従業員は五、六人の女性だけで、手づくりで鰹節や干物を製造していたそうです。父である三代目の正典が地元の工業高校の機械科を卒業していたこともあって、「これからの加工業には機械化が必須」と一九七二年に機械を導入し、魚肉すり身の本格的な製造が始まりました。

知花 そして正樹社長が四代目の社長に就任されたのは二〇一八年。高政を引き継ぐにあたっ
て、大切にしたいと思ったのはどんなことですか?

高橋 高政が誰のために存在するのか、経営を通して誰を幸せにするのか、ということを考えました。田舎ならではの幸せを、うちの会社はどうやってつくっていくか。こうした考え方は、父の影響が非常に大きいと思います。父は「愛の人」なんですよ。

知花 愛の人……お父さま、どんな方なんですか?

高橋 私にはすごく厳しいけれど、会社、社員を愛し、地域を愛する人ですね。経営者としての手腕も素晴らしく、身近にそういう先生がいて非常にありがたく思っています。

知花 お父さまについて、印象に残っているエピソードはありますか?

高橋 東日本大震災の時、父は六〇歳で、女川町商工会の会長だったんですね。震災直後の集まりで、六〇歳以上の人たちが主要メンバーとなっているなか、「女川の町づくりは、復興計画が終わり町が評価される時代に生きる息子世代に任せよう。我々還暦以上の人間は口を出さないようにしようと思うが、どうだろう」と呼びかけたんです。地元への愛情ゆえに後進たちに任せる、という決断に、みんなが賛成しました。

武田 かっこいい。なかなかできませんね。

高橋 父の言葉が復興への追い風になったのではないかと思っています。

避難所へかまぼこ一二万枚を届ける

知花 高政の企業理念を教えてください。

高橋 「企業は地域に生かされている」ということを、父は口癖のように言っていました。祖父も「地元に恩返ししろよ。みんなに生かされてんだど。許 されてるんだからな」と。地元の水産資源、女川で暮らす人、高政で働い ている人、みんなに生かされて、ここに存在することを許されている。そ の方々にどう恩返しをしていくのか、それが高政の命題なのだと思います。

知花 東日本大震災で発生した津波により、女川も大きな被害を受けました。当時のことを教えていただけますか?

高橋 地震発生の日、社長である父は出張でミャンマーにいて不在だったんです。そこで、「社長がいたらどうするだろう」とみんなで話し合い、工場に残っていた出荷前のかまぼこ七万枚を無料で配布しました。数日後に電源車両が到着して、製造ラインが一本だけ動いたので、揚げかまぼこを一二万枚つくって避難所に届けました。嬉しかったのは、「これ売りましょう」という社員が一人もいなかったことですね。むしろ「恩返しをするタイミングがきた」と、みんな気合いが入っていました。

女川町の人口流出を食い止める

知花 復興に向けては、どのような取り組みをされたのですか?

高橋 その話には三日三晩かかりそうですが(笑)、本質的なお話をすると、復興の施策は行政主体で語られる場面が多いですよね。でも、民間企業が復興事業を行うことで、フットワークの軽い活動が可能になりますし、収益を上げることもできる。公共の立場ではできないことを実現することで、継続的な取り組みになると考えました。

武田 利益が上がればサステナブルに活動ができるようになりますからね。

高橋 はい。まず行ったのが就労支援です。女川町は八〇%の建物がなくなり、多くの人が働く場所を失いました。そのままでは女川から人口流出が止まらないのは明らかでした。そこで、高政は適正人員を超えてでも雇用の受け入れを行い、女川の定住人口を確保しようと考えました。

知花 それはすごいことですね。

高橋 一人雇用したら家族三人が女川に住む、と考えました。当時、一〇〇人いた社員に対しても、希望者は全員正社員にしました。より安定した社会的立場で安心して働いてほしかったんです。内定者三〇人も取り消しせずに採用しました。現在の社員数は二二〇人。協力工場の社員やその家族なども含めると、高政一社で女 川町の人口の六分の一に当たる定住人口を確保している計算になるんです。

武田 雇用形態を正社員化すると社会保険の対象になって、会社の負担も上がってきますよね。変動費だったものが固定費になるということは、将来の成長を約束しないといけない。なかなかリスキーですよね。

高橋 経営者としてやっちゃいけないことを、やるって決断したんです。震災当時は新工場の建設を進めていて、固定費を圧縮して商品の利益確保を目指していたのに、一方では雇用を増やすという二律背反。でも、これを両立させないと町がなくなると思ったんです。「高政はこの地で復活します」という宣言をしないと、ほかの会社に影響するだろうとも考えました。

武田 一民間企業がリスクテイクをして飛び込むことで、町の勇気のもとになれるということですね。

知花 二〇二一年には震災から一〇年の節目を迎えますが、何か思われることはありますか?

高橋 毎年三月一一日が近づくと、メディアで震災特集が組まれ、悲しいストーリーを語ってくれる被災者を探しに取材陣がやって来ます。「皆さんが遊んでいるこの場所は、あの日、八七二人の人が亡くなった場所です」、とか言われるのは本当に嫌ですね。私たちは明るい町づくりを目指しているのに、一年に一回、足を引っ張られるような気持ちになるんです。一〇年という区切りを自分たちでつけて、これまでがホップ・ステップであれば、今度は一〇年先の明るい未来に向けてジャンプする時だと思っています。

知花 いよいよ、ジャンプの時なんですね。

高橋 そうですね。ありがたいことに多くの方から復興を支援していただいていますが、お金を渡すのは生々しいと思うのか、服や文房具がたくさん届きます。四〇〇人しか子どもがいないのに一〇万本くらい鉛筆がある状況で(笑)。でもやっぱり、一番復興が進むのはお金なんですよね。私たちはお酒を飲む時に「乾杯!」の代わりに「ジヌ(銭)稼ぐど!」って言うんです。ここで生きていくぞ、という決意を込めた乾杯なんです。
東日本大震災では、揚 げかまぼこを12万枚つくり、女川の避難所に届けた。

東日本大震災では、揚げかまぼこを12万枚つくり、女川の避難所に届けた。

工場の生産ラインでは1日に7万枚ほどのかまぼこが生産される。

工場の生産ラインでは1日に7万枚ほどのかまぼこが生産される。

TABLE FOR TWOに参画している詰合せ商品。農林水産祭天皇杯を受賞「御膳蒲鉾かき」。

左/TABLE FOR TWOに参画している詰合せ商品。1箱につき60 円がミャンマーの学校給食に寄付される。
右/かまぼこを通じて地元の魅力を発信しようとつくった「御膳蒲鉾かき」が、農林水産祭天皇杯を受賞。

地元愛を託したかまぼこで天皇杯受賞

知花 日頃、高政のDNAを感じることはありますか?

高橋 高政に代々受け継がれているDNAがあるとすれば、底が見えないほどの郷土愛と、創業から八〇年以上磨き続けてきた技術ですね。これまで何度か業態を変えつつも一貫して技術の研鑽を重ねてきました。高政はかまぼこ屋ですが、自分としては技術屋という自負があるんです。郷土愛を大切に企業の根を張って実践してきたことで、平成二九年度の農林水産祭天皇杯受賞にもつながったと思っています。

知花 こちらに、その天皇杯を受賞した「御膳蒲鉾かき」をお持ちいただきました。かまぼこの上に牡蠣が乗っていてお寿司みたい!

高橋 地元の桃浦(もものうら)という場所で獲れた牡蠣を使っています。

知花 さっそくいただきます。わぁ、牡蠣の香りがふわっと鼻に抜けました。

武田 これはおいしい。かまぼこと牡蠣ってこんなに調和するものなんですね。

高橋 この商品は、創業八〇周年で企画した事業の一つです。地元の魅力を発信しようということで、主役となる牡蠣のおいしい食べ方をかまぼこで実現する、という〝助演男優賞〞みたいなかまぼこです。調和、ハーモニーを重視した商品なんです。

知花 これも地元愛から生まれたんですね。

高橋 そうですね。八〇年の技術を突き詰めていった時、かまぼこではなく地元の良さを伝えようという思いに至って、それが形になったのがこの商品です。

アイドルで女川を元気づける

知花 正樹社長はももいろクローバーZなどアイドルの活動にも興味がおありだとか。

高橋 アイドル、好きですね(笑)。アイドルとファンが同じ目線で未来を見つめる熱量って、本当に素晴らしいんですよ。

知花 ももクロは女川に来てくれたのですよね?

高橋 そうなんです。震災後、「何かできることはないですか?」と声をかけていただいて。初めて来てくれたのは二〇一三年五月、女川の三つの小学校 が廃校になって、新しく女川小学校という学校ができた翌月でした。生徒たちは新しい校歌に思い入れがないせいか、先生が一生懸命教えても歌ってくれない状況だったんです。ももクロさんにはサプライズでパフォーマ ンスをしていただいたんですが、三曲目が女川小学校の校歌だったんです。

知花 校歌ですか。

高橋 ええ。そうしたら、子どもたち歌ったんですよ。本当は歌えるのに歌う気になれなかった、その壁をももクロさんが壊してくれたんです。大人にできなかったことが、アイドルならできるんだと感動しましたね。

知花 すごい。

高橋 ありがたいことに、私はアーティストや文化人、落語家、アスリート、ノーベル平和賞受賞者など、いろいろな方と交流があります。女川がこうした方々に共鳴するファンとコンテンツの居場所として日本一の場所であれば、おもしろいことが起こり続けるんじゃないかと思うんです。

武田 コアなアーティストとコアなファンが女川にやって来て、同じ夢を見る時間や空間を共有できる、ということですね。

高橋 そうです。今、女川は、そういう化学反応の実験場みたいな場所になっているんです。やっぱり私は、アイドルというより、女川が大好きなんですね(笑)。

多様性を重視した商品開発チーム

知花 高政の強みは何だと思われますか?

高橋 当社の事業規模で、魚の買い付けからすり身の製造、最終製品の加工や販売まで手がけ る会社は、ほかにないのではないでしょうか。八〇年以上、魚と向き合い、地元の良さを伝えてきました。これは、都市部のメーカーではあまり成し得ないことかなと思います。

知花 地方ならではの大変さはありますか?

高橋 中小のローカル企業は大変な苦境に立たされています。日本の端っこに位置する高政も 同様で、物流やコスト面で不利な状況にあるのも事実です。でも、それを差し引いても、ローカル企業にしかできないことを実行し、地元の魅力を発信することで、女川と高政のブランディングをリンクして展開させることができると思うんです。ローカル企業が地元に愛情を注ぎ、地元のリソースに目を向け、自分たちの強みを生かしていけば、地方から日本全体が元気になる。そういう実感があります。

知花 いろいろな商品をつくられていますが、商品開発はどのように行っているんですか?

高橋 商品開発部のようなセクションはなくて、営業や店舗、加工食品部など各部門のメンバーが集まってチームをつくっています。二〇代から四〇代くらいの男女で、社長直轄で運営しています。

武田 若いチームですね。

高橋 これには理由があるんです。高政のメイン顧客は五〇代から七〇代の方が 多いのですが、なぜ若い人たちが食べてくれないのか考えてみたんですよ。そうしたら、高政の意思決定層がそのまま顧客層につながっていたことに気付いたんです。

知花 同じ年代だったということですか?

高橋 年代だけでなく、同じ性別、つまり男性で、同程度の収入で、同じような環境で育ってきた人たちがゴーを出していた。つまり、高政はモノカルチャー(単一の価値観)で意思決定をしていたわけです。これは恐ろしいことだと感じました。だから、私はマルチカルチャー(多様な価値観)へシフトしていきたいと思ったんです。

武田 そこで生まれたのが現在の商品開発チームなんですね。

高橋 はい。まずはチームのメンバーが内なる多様性を認め合い、そこから外の多様化に対す る対応力をつけていく。商品開発はそれを発露しやすいんです。社内でも商品開発チー ムは注目されていますし、メンバーにとっては自己実現の場にもなっていて、会社全体の雰囲気も明るくなりますね。商品開発のためにいろいろ勉強も必要になってくるので、人材育成にもつながっています。

知花 若い方にとってはチャンスを与えられて、ワクワクしますよね。さて、最後の質問になりますが、一〇〇年後の高政は、どんな会社になっていてほしいですか?

高橋 私は四代目として、創業以来の技術と思想を継承し、私なりの経営を果たしてこの世を去るでしょう。経営者の人格は経営全体に反映されますが、たとえ私個人の人格が継承されなくても、法人格である高政は生き続けます。法人の人格として、変わらず故郷を愛し、技術を追い求めて、誰かを幸せにしてほしいです。私の人生のテーマは、「生きている間にどれだけの最大幸福を実現できるか」なんです。高政にも、女川への恩返しの気持ちを忘れず、誰かを幸せにするような企業であり続けてほしいと願っています。

会社情報
株式会社高政

ゲスト

高橋正樹(たかはし・まさき)

1975年、株式会社高政の四代目として生まれる。1998年大学卒業後、食品関連の総合商社に入社した後、2001年高政に入社。2018年4月に代表取締役就任。東日本大震災以降、女川町をはじめ東北地域の復興に尽力。高政が魚肉すり身の製造・販売・技術指導を行うミャンマーでは開発途上国支援事業TABLE FOR TWOやフェアトレード活動、学校経営にも取り組む。ラジオ番組のパーソナリティや地元サッカークラブ「コバルトーレ女川」のスポンサーなど、その活動は多岐にわたっている。