「報道の使命」で荒野を耕す
株式会社 産業経済新聞社(産経新聞社)
<ゲスト>産経新聞東京本社編集局編集長 近藤豊和さん
※2013年収録
まだ通信手段の少ない戦前から重要な役割を果たしてきた新聞。
インターネットの出現で情報環境が変化してもなお、
変わらない「社会に対する責任」があります。
武田 そもそも新聞とはどういったものなのでしょうか。「新しく聞く」と書きますよね。
近藤 まさにその「新しく聞く」というのが新聞の始まりです。明治時代に「ニュース」なる言葉が入ってきたときに、ニュースの「ニュー」が「新しい」という意味で、新しく起こった事象や事実を聞くということで新聞って訳されたんでしょうね、恐らく。
大村 新聞がなければ世の中の状況を知ることができなかったという時代が長くあったわけですね。
近藤 従来から、新聞は社会の鏡であると言われています。そこに現在起きている社会情勢や風俗、流行などの様相が現れているというのが新聞の持つ特性でしょうね。
入社した頃、公衆電話から記事を送っていた
大村 2013年が創刊80周年ということですが、創業は戦前ということですね。
近藤 産経新聞社のあゆみとしては、1933(昭和8)年6月に日本工業新聞という新聞が大阪で発行されました。創業者は前田久吉さんという方で、当時東京タワーを中心になって建てた人です。その後、戦争となり、紙の原料の問題もあったと思うんですが、日本工業新聞がいくつかの産業紙を統合して産業経済新聞社として成り立ったのがスタートです。
大村 ちなみに、近藤さんはどのようなきっかけで新聞社に入社されたんですか?
近藤 僕は子どものころから新聞記者に憧れていたのです。当時「いろはの〝い〞」という事件記者ドラマが放映されていたのですが、そのドラマの中では、今のように携帯もない時代ですので新聞記者は公衆電話で記事を送っていたんですよ。私は入社して30年になりますが、最初のころは火事の現場なんかに行くと公衆電話をまず見つけるのが仕事で、テレホンカードもなかったので、十円玉を次から次に入れたりしていました。あるいは公衆電話もない場合は民家の方にお願いして電話をお借りしたり。それが最初の仕事でした。原稿を送るときには、「10日午後7時半ごろ東京都港区赤坂5丁目」と口頭で伝えながら頭の中の記事を全部相手に書き取ってもらうんです。
大村 口頭で伝えていたなんて驚きです。でも携帯やメールがない時代はそれが一番早かったんでしょうね。
近藤 かなり原始的なやり方ですけどね。そのときに、音で言うから時々聞き取りづらいことがあるでしょう。だから「いろはの”い”」と伝えたりするんです。それがドラマのタイトルになっていました。そのころは警察の管轄ごとに方面記者というのが最前線で配置されていた時代で、実際に町に出て行って、足でネタを稼いでいくような、本当に社会のアンテナのような役割をしていた人たちがいました。そういう記者たちを描いたドラマを見て、子供心にかっこいいなと思って、それから勉強して新聞社に入ることになりました。
合言葉は「人並みに」の時代
武田 「産経信条」という産経新聞社の行動指針の一つに「産経は民主主義と自由のために戦う」という一文がありますよね。あれはどういったことですか?
近藤 「新聞は皆同じではありません」というのが、産経新聞社が打ち出したキャッチフレーズです。歴史的な話になりますが、戦後の新聞ジャーナリズムというのは、いわゆる政府批判や大企業批判というものが主流だったんです。そこにただ批判をするだけではなくて、「日本はいい国ですよ」とか、「みんな自信を持ってやっていきましょう」というような、日本応援団的な視座を加えたのが産経新聞です。「日本に産経新聞があってよかった」と言ってもらえるようなものを目指しました。他の新聞とはちょっと違う視座で、歴史の真実に虚心坦懐で、本質的な部分を十分に捉えてさまざまな批判や論調を唱えることが、産経新聞の特徴だと思うんですよね。
武田 歴史を振り返ってみると、戦前と戦後で新聞の役割は変わったのでしょうか?
近藤 そうですね。明治維新を境に日本では政治的な言説というのがすごく重要になっていきました。自由民権運動とか大正デモクラシーで日本の新聞の位置づけが変わってきていたのです。さらにその後、戦争に向かうにつれて、新聞は大きな役割を担うようになります。日清日露戦争で日本の戦況を伝える、というものです。今どうなっているのか、勝っているのか、負けているのか、を伝えていました。日清日露の時は日本が優勢だったので、その戦況を伝えるだけで部数が飛躍的に増えたんですよ。その頃は戦争が起きるたびに部数は伸びていったんです。今では考えられないことですよね。
武田 戦争の情報確認ツールとしての役割を担っていた時代があったんですね。戦時中の新聞を取り寄せて読んだことがあるのですが、とても興味深かったです。これをリアルタイムで読んでいたら、興味関心が戦争に向くだろうなと想像してしまいます。
近藤 戦後、まさに高度経済成長に入っていくと、新聞はみんなで情報や価値観を共有する共通の掲示板的な存在になっていきました。みんなが汎用的に持っていた情報収集ツールとして果たした役割は非常に大きかったと思いますね。
大村 国民を同じ方向に向かせるためには非常に大きな存在ですよね。今では色々な情報がありますけど、当時は情報源が少ないから新聞によってみんなが同じ方向を向いて頑張ろうという気持ちになっていたんですね。
近藤 そうですね。そして戦争が終わり、高度経済成長が始まるとフィールドが経済になっていきます。高度成長期、みんなが欲しいものは3C(カラーテレビ・クーラー・カー)で、共通でした。その頃の合言葉は「人並みに」だったんですよ。「我が家も人並みになれる」というのが輝きを帯びていた時代です。人並みが憧れの対象だったんです。
武田 その頃は、みんなが頑張ったらこんな輝いた未来が得られるんだって思えた。みんなでより豊かな生活を実現しようと一致団結していた時代だったんですね。
近藤 その変化の度合いは、とても強烈だったんですよ。冷蔵庫が出てくると食中毒がなくなる。洗濯機が出てくれば主婦のあかぎれがなくなる。今の薄型テレビが5ミリ薄くなるっていうこともすごい企業努力なんだけれど、それとは比べものにならない。そういった強烈な社会の変化を逐一報告してくれたのが、新聞だったのです。今よりもっと情報ニーズと情報環境がマッチしていて、企業の躍進や経済成長、生活の充実など、当時の人々にはすごく実感のあるものが載っていたのだと思います。
新聞は「情報健康度」を上げる
武田 つまり、みんなが新聞に未来を見て、心を一つにしていたんですね。一方で、今の時代はどういうかたちの新聞社や新聞が求められているのでしょうか。
近藤 新聞というのは自分の欲しい情報ではなく、今これを知っておいた方がいいという情報を整理してくれているので、思いがけない出会いは起こりやすいと思います。例えばポテトフライとハンバーガーが好きな子はそればっかり食べたいですよね。けれどそればっかり食べていると健康によくない面もあります。一方でビタミンとかミネラルが豊富な魚や肉や野菜がワンプレートになっているものを毎日食べていると健康になりますよね。そのワンプレート・ディッシュが新聞だと思うんです。
大村 なるほど。紙面によってきちんと経済、政治、社会のように栄養を摂るのですね。
近藤 好きなものばかりインターネットで検索しているというのは、毎日フライドポテトばっかり食べているようなものです(笑)。それより、色々な食材が入った幕の内弁当的なものの方が、情報健康度的にはいい食べ物ではないかなと思うのです。新聞というのはインターネットと違い、誌面のスペースが限られている。その分、セレクトされた情報をパッケージで届けることになります。もちろん直接的に何か知りたいと思った時はインターネットがいいと思いますし、単語一つで色々なものが見られますからね。そのパワーやダイナミズムは認めざるをえないけれども、個人の嗜好性だけの情報ばかりを取得した場合、情報健康度的に見ると、あまり長生きできないかなって思ってしまうんです。
インターネットvs新聞なのか?
武田 一方で、インターネット擁護派のスタンスでいうと、自分で選ぶということが今までできなかったから、強制的に「あなたはこれを知るべきだ」ということ以外から知る術がなかったと言われています。それ以外の選択肢を取るのが許されなかった時代から比べて、取れるようになったという自由を喜ぼうじゃないかっていう言説もありますよね。
近藤 それはそうだと思いますよ。一種のイノベーションですしね。自分が好きな情報を能動的に取れて、他者を介さずに多くに発信できるというのは劇的な変化だと思います。スクリーニングされていない、何かの思惑を持っている情報ではない事実に、自分でたどり着けるというのは、革新的だったと思っています。
武田 ある権限を持っている機関のみが情報を発信していた時代から、ユーザーそれぞれが発信できるレベルにまで落ちてきたって喜ぶ声もあるのですが、私はそんなに単純な話ではないと思っています。インターネットにはインターネットで問題がありますし、新聞が担っていたことを全部カバーできるわけでもありません。両方の良いところを上手く合わせて掛け算していくような新しいメディアの誕生が望まれているのではないかと思うんです。「インターネットvs新聞」ってこの十年かなり語られてきたことだと思います。
近藤 実は、僕はあまり「vs」だと思っていないんです。情報の出し口が紙であろうが、タブレット上であろうが、スマートフォン上であろうが、伝えなければいけないことは変わりません。
武田 そうですね。インターネットが良くて新聞が悪いとも思わないし、これから情報はインターネット中心になってマスメディアは衰退していくのだという言説も怪しいと思います。
近藤 よく近未来の予測として「グーグルゾン」っていうグーグルとアマゾンがくっついた世界が描かれますよね。そこでは個人のニーズに合った情報だけをうまく取り入れていて、一方でニューヨーク・タイムズは一部の高齢者向けの新聞で細々と生き残っていくというフィクションの動画があるのですが、そういうグーグルゾン的な社会って本当に幸せなのかなって僕は思いますね。
武田 マーシャル・マクルーハンというメディア論の父と呼ばれる人が「新しいメディアが生まれた時には、まず昔の時代の役割を担わされる。ようやく新しいメディアが自分の特性に気づいた時、旧来のメディアも自分の特性をあらためて実感する」と言うんですよ。
近藤 それは、すごく実感しますね。インターネットの出現によって情報環境が大きく変容したのは確かです。さかのぼれば、テレビが出現した時ももう新聞なんかいらないじゃないかって議論があったのですけど、決してなくならなかった。そもそも、インターネットは双方向性とか情報を拡散するとか、誰でも情報発信できるなどという根源的な部分で新聞とは特性が全然違うんですよね。ただ、そこで新聞社が最後に軸として持っていないといけないのは、「報道の使命」みたいなものだと思うんですよね。
社会がギスギスするのは本末転倒
大村 100年後、産経新聞社はどうなっていると思いますか?
近藤 インターフェイスはもう間違いなく変わると思います。紙ではない様々なデバイスが出てくるでしょうし、たとえば空中に表示されるとかですね。ビッグデータの解析も進みますよね。もはや情報のダイナミズム自体が変わっていると思います。
武田 今のような誰でも情報発信できる状況はどう思いますか?
近藤 ネット上には有象無象の情報がはびこっているじゃないですか。昔はみんな新聞を読んでいたので、社会全体にどことなく共通認識のようなものがあったのです。例えば床屋さんに行っても新聞の一面のニュースが共通の話題になる。けれど今はみんな自分の好きなように情報を取っていて、口々に意見を言っている。そうすると、共通概念が崩れていって軋轢が多い社会になっていくような感じもします。
武田 ネットいじめなんかも増えていますよね。
近藤 情報発信の基本はより良い社会づくりということだと思うんですよね。みんなを悲しませたり、ギスギスした気持ちにさせたりするのは、本末転倒だと思っています。ちょっとしたことでバッシングや告発になるようなことじゃなくて本当にみんなが深く考えられるようなことや、深い洞察を加えられるようなものを、プロフェッショナルとして提供し続けないと、安定した社会にならないと思うのです。だから僕たちの使命は情報を整理することです。出来事の背景や経緯、そして関連性などを整理整頓して、かつその真偽を見極めながら伝えていかなければいけません。プロのジャーナリストとしてきちんと情報の裏付けをとるということですね。
武田 インターネットは匿名性による無責任さが問題ですからね。
近藤 職業としてのジャーナリストとか新聞社の存在というのは、やっぱりより良い社会づくりと社会の安定のためには必要だと信じたいんですよ。一方、震災で被災地に行っても、マスメディアはどういう視点から報道しているのだ、と言われたりして、従来のやり方ではみなさんから支援を得るのは難しいと思っています。我々ももう少し、今までの姿からバージョンアップさせて、必要な情報を送り続けないといけないと思っています。ジャーナリストというのはもともと「ジャーナル」、つまり記録するという意味ですし、その役割はやっぱり必要だと思うんですよ。どんな時代になっても、そう信じたいんです。みんなが勝手なことをワイワイ言っている社会の中で、きちんとした情報を安定して提供し続けていくのが使命だと思っています。
武田 責任、信憑性というところが新聞社は格段に違いますね。
近藤 「責任メディア」ですね。僕は新聞社に憧れて入った人間なので、新聞の社会に対する役割が100年後も続いていることを信じたい。荒野のように荒れ果てた情報空間じゃない、肥沃な大地を目指して耕す、カルティベイトしていくというような人がどこかで存在していてほしい。もしかしたら商売としては儲からないかもしれません。それでも、森林警備隊のように情報環境を守って、なおかつビジネスとして生活していけるような人たちが、100年後も存在していてほしいなと、心から思います。
会社情報
株式会社産業経済新聞社(産経新聞社)