JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

  1. HOME
  2. 企業の遺伝子
  3. ピップ株式会社
  4. ポップでピップなウェルネス商品

企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

ポップでピップなウェルネス商品

ピップ

<ゲスト>代表取締役社長 松浦由治さん

※2018年収録

商いの地・大阪で医療衛生雑貨卸としてスタート。
シャンプーハット、エレキバン……数々のヒット商品を振り返ると
人を想い、常に先を見据えた創業者のDNAが浮かび上がります。

知花    ピップ株式会社は二〇一八年で創業一一〇周年ですが、その成り立ちを教えてください。

松浦    一九〇八年に大阪で創業した「藤本真次商店」がルーツです。創業者の藤本真次は当時一七歳。生まれは和歌山県の高野口ですが、お父さんの藤本辰次郎が「藤本松栄堂」という薬種商を営んでいました。本来であればそこを継ぐはずだったんでしょうが、非常に独立心旺盛で、商いの地・大阪で商売をしたいと思っていたそうです。辰次郎も息子の願いを叶えてやろうと、一七歳で大阪に出しました。しかし、当時は大阪に薬屋がたくさんありましたので、薬そのものではなく薬周辺の商品、医療衛生雑貨を扱う卸問屋として、大阪・新町にお店を構えました。表通りから少し中に入ったところで商売を始めたと聞いています。

大阪の裏通りから、九州まで営業に!

武田    大阪は道修町通りが有名ですよね。

松浦    はい。今も名だたる医薬品メーカーさんが道修町にいらっしゃいますけど、当時なかなかそこには出店できなかったようです。

知花    薬周辺の商品というと、どんな商品を扱っていたのでしょうか?

松浦    お薬を入れる瓶や薬包紙、あとは包帯とか脱脂綿、水枕、氷嚢。体温計なんかも舶来のものがありましたので、そういった医療雑貨みたいなものを扱っていました。

知花    創業当時、商売は順調でしたか?

松浦    この手の商品を扱う卸が既にたくさんあって、新規参入しても簡単にはいかなかったようです。当時は卸がお店を構えて、そこに薬局が商品を買いにきていたらしいんですよ。大手問屋もあるなかでお客さんを待っていてもなかなかうちに来てもらえないので、商品を担いで売り歩いたと聞いています。卸が自ら営業に出向くのは非常に珍しい販売形態でした。

武田    大手ががっちり守っている事業領域に、ベンチャーで突っ込んでいったということですよね。しかもメインストリートではないところから商品を背負って売りにいく。「商魂」がすごいですね。

松浦    逆にメインストリートにお店がなかったからよかったのかもしれませんよね。ちょっと離れていたから自分から出ていかなければいけなかったのかもしれません。

知花    そのスタイルは功を奏したんですか?

松浦    そうですね。大阪のみならず奈良県や兵庫県など近隣の県でも行商して商売を広げたと聞いています。そのうち弟の良三が家に帰ってきて一緒に仕事をすることになりました。良三は私の祖父にあたるのですが……

知花    え! おじいさま

松浦    はい。彼は今でいう営業マンで、京都から山陰地方、山陽地方まで売りに回って販路を拡大していったそうで、非常に積極的だったのかなと。当時の卸はエリアを絞って営業していて、販路を広げることはなかったと聞いています。そのなかで、近畿から中国地方を抑えて、九州、四国と広く展開している卸は珍しかったんじゃないかな。

武田    すごいですね。結果として、広域な販売網を持つようになったんですね。

先見の明で取り扱った「国産体温計」

知花    ほかにも、問屋さんがやらないことでトライしたことはありますか。

松浦    そうですね、大正時代、関東大震災で関東地方はダメージを受けて、物資がなかなか入りづらくなっていました。そんな時に、森下仁丹さんが舶来ものではない国産の体温計をつくろうとなさっていまして。なんとかこの国産体温計を自分たちで扱いたいと、森下仁丹さんに日参してお願いしたようです。当時まだうちはそんなに大きな卸問屋ではなったので、最初は相手にしてもらえなかったようなんですが、とにかくもう、毎日のようにお邪魔して。その熱意に先方もついに折れて一年後には「藤本さん、やってください」と言っていただき、総代理店になったと聞いています。

武田    災害があると国民の健康意識が上がると思いますが、当時、体温計は一般家庭にあったものなんですか?

松浦    ちょうど「一家に一本」と言われはじめた時代なんじゃないでしょうか。ただ、国産の体温計は舶来品よりも高額で、新聞広告も出したようなんですが、販売にはけっこう苦戦したと聞いています。そこで、新聞で社員の募集をして、おそらく数十名を採用して「計量器部」という特殊部隊をつくりました。鞄に体温計を詰め込んで、全国を歩き回ったと聞いています。この時に入った社員に、のちにエレキバンのCMに出演して有名になる横矢勲がいました。CMに出た当時は会長でした。この体温計を扱わなければ、新聞広告を出さなかったから横矢はうちに入らなかった。そうするとあのCMも誕生しなかったし、エレキバンも売れていなかった、とつながっていきます。

知花    ピップさんが国産の体温計に目を付けられたのは「先見の明」ですよね。さまざまなことにチャレンジされた創業当時の商売スタイルで、今に通じるところはありますか?

松浦    一一〇周年を迎えた今、もう一回創業時の考えを認識しようとしています。それが当社のDNAだよねと。つまり「他社のやらないことをやる」「他社に先駆けてやる」「お客様や得意先を大事にする」、創業時から言われてきたこの三つを反芻して、今の自分たちを見つめ直して、次の時代に向けて進んでいきましょうと誓い合いました。

知花    熱い想いですね。

松浦    そうですね。熱い思いがなければ創業者は弱冠一七歳でお店を構えることはなかったでしょうし、親と弟と三人でやっていくことは難しかったでしょうから。

問屋が製造も。シャンプーハット発明!

知花    長い歴史の中でひとつ転機をあげるとしたら何でしょう。

松浦    一九六二年、東京大学教授の林周二先生が書かれた『流通革命』(中公新書)という本がヒットしたんです。その中で「問屋無用論」という表現が出てきました。林先生は、問屋なりの知恵を加えて卸していかないと生き残れない、という意味で書かれたんだと思うんです。でも、当時のマスコミが「問屋無用論」という言葉にフォーカスしすぎましてね。問屋はいらない、メーカーが直に小売店と取引すれば流通の段階が減って楽になるという論調を強めてしまった。われわれは卸なので困ってしまい、役員が集まって今後の経営について検討したようです。それで、メーカー部門や小売部門をつくって、製・配・販揃えた企業になるためにいろいろと取り組んだと聞いています。一九六七年には、企画室という部署ができました。

武田    問屋がメーカー機能も持つことに決めたとはチャレンジですね。しかも卸としては、取引のあるメーカーさんと似た商品はつくれないですよね。

知花    その企画室から誕生した商品にはどんなものが?

松浦    最初に誕生したのがシャンプーハットです。

知花    シャンプーハットって、ピップさんが生み出したんですか

松浦    そうなんです。お子さんが頭を洗うときに、水や石けんが目に入るのを何とかしてあげたくて、帽子のツバのようなものをかぶせれば良いんじゃないかという意見から始まったようですが、形状に悩み、最終的に柔らかく水が垂れるように、トタン屋根をヒントにしてギザギザにしたと聞いています。ただ、発売しても売れないんですね。シャンプーハットと言われてもどんなものかわからないですよね。

知花    そこからどうやってヒット商品に育てたんですか?

松浦    社員がお風呂屋さんに行って自分の子どもに被せて使わせてみるといった工夫をしたらしいんですけど、なかなかうまくいかず、なけなしのお金を使ってTVコマーシャルをつくりました。確か週に一回だけ流したのかな。お母さんがちょうどTVを見る夕方に流したら非常に反応が良くて、そこから飛ぶように売れました。

知花    そうだったんですか。ピップさんといえば、ピップエレキバンもありますよね。磁気の力でコリをほぐす絆創膏。この開発はどのように始まったのですか?

松浦    昭和四〇年代の初めくらいに磁気のブレスレッドが肩こりに良いという触れ込みで発売されました。うちも扱っていてけっこう売れていたんです。そこで、手首につけて首や肩に効くんだったら、直接肩に貼ったものを自社でつくろうということになりまして。磁石の種類とか、絆創膏のかたちや肌への影響とか、メーカーと相談しながらいろんなことを研究して開発しました。例えば、絆創膏を剥がれにくくするためには丸くて五円玉硬貨と同じくらいの大きさにするのが良いらしいんです。磁石は五円玉の穴と同じ大きさ。まぁ「ご縁があるように」と考えたかどうかはわかりませんが。

0000年頃(※要確認)の藤本真次商店。オリンパス体温計の営業にでかけようとしている。

昭和42年(※要確認)にシャンプーハットを発売。商品開発センター内では従業員が手作業で包装していた。

ピップエレキバンのパッケージ。発売当初は「恵麗㐂効」という漢字をあてていた。

明るくポップだから「ピップ」と命名

武田    市場の動きをいち早くキャッチして商品開発できるのは、問屋とメーカー、どちらの機能も持っているからこそですね。それに、お客さんと同じものはつくれないからこそ、ユニークなものが生まれる。そしてなんといってもネーミングが印象的ですよね。「エレキ」と「バン」がセットになっているんですか?

松浦    はい、当時、NHKで平賀源内さんが主人公のドラマ「天下御免」が放送されていまして。彼が復元した摩擦起電機「エレキテル」から名付けたみたいですね。あとは絆創膏の「バン」。それと、五文字で最後に「ン」が付く商品はヒットするといわれていたそうです。他社の商品ですが「アリナミン」とか「オロナイン」とか。

武田    五文字で最後に「ン」。エレキバン……音が面白いです(笑)。

知花    社名についても伺いたいです。ピップ株式会社は創業時の「藤本真次商店」から数回社名を変えて、創業一〇〇周年の二〇〇八年にピップ株式会社となったそうですね。ピップってどういう意味なんですか?

松浦    深い意味はないんです(笑)。三番目につくった商品が女性用の生理ショーツで。当時は昭和四〇年代半ばで、そういう話題は明るく話せませんでした。暗いイメージを変えるには、パピプペポの音がポップで躍動感があるから良いなと。辞書を見ると、ピップは「素晴らしい人・モノ」という意味があったので、ピップショーツという名前で発売したんです。

武田    もともとは商品名だったんですね。

松浦    はい。その次につくったのがピップエレキバンで、これも「良いモンだ!」という自信があったものですから、ピップを頭に付けました。CMのおかげで商品名は日本中で知られたんだけど社名は誰も知らないわけですよ。商品と社名が結びつかないと採用活動にもプラスにならないし、ほかにも支障があるからピップ株式会社にしました。

知花    合理的(笑)。社名変更したのは二〇〇八年と、けっこう最近ですね。

松浦    その前はピップフジモトという社名でした。

知花    かわいいというか、なんかちょっと言いたくなりますね(笑)。

第四の創業時代、いま一度消費者視点に

知花    松浦社長ご自身のキャリアの中で特に思い出深いことはありますか?

松浦    一九八八年、三〇歳でピップに入社し、その後アメリカに三年間勉強しに行かせてもらったんですが、その間に会社が業績不振になりました。当時社長をしていた父と相談して帰国後、会社を改革するためのプロジェクトに入りました。半年間、月に二回土曜日に各部署から二〇名くらい社員が集まって朝から晩まで会社の強みや弱みを分析したり、今後の方向性を討議したりして、会社に提案書を出しました。経営陣はその提案を非常に大事にしてくれて、なんとか立ち直れたんですね。

知花    この時にまた新しい商品が誕生したとか。

松浦    エレキバンに次ぐ第二、第三の柱として、一九九九年にスリムウォーク、二〇〇四年にマグネループを発売しました。スリムウォークは少しずつですけれども、マグネループは一気にヒットしたという感じでしたね。

知花    スリムウォーク、お世話になっています。

松浦    ありがとうございます。

知花    今、ピップ株式会社が掲げている理念を教えていただけますか。

松浦  「THE WELLNESS COMPANY」です。健康関連商品を扱っているので、当社の商品で消費者が心身ともに健康になることを企業理念としています。

知花    今、ピップさんは第四の創業時代を迎えていると伺いました。

武田    第一の創業は道修町からですね。

松浦    戦後に会社が分割されたときが二番目。社名にピップをつけたときが三番目、そして今が四番目。昨今は社内で、消費者を起点としたマーケティングカンパニーになりましょうと話しています。つまり、お客様視点で物事を考えたときにどういう商品が必要なのか、どういう風にお話しすればお客様にそれが伝わるのか、そもそもお客様はどこにいるのか、ということを考えて営業活動をしましょうということです。われわれは直接販売できませんが、小売店さんに対して、展開方法やデコレーションといった売り方も含めて商品をご提案していくことが大事だろうと考えています。

知花    これから必要になっていくことは何だとお考えですか?

松浦    社員一人ひとりがピップのマーケティングとは何かを明らかにして、全社に浸透させていくことが必要だと思うんですね。今年はチーフ・マーケティング・オフィサーという役職を設けて、人材を採用しました。

武田    アメリカの会社みたいですね。

社員が健やかだからこそ健康を提供できる

松浦    創業の精神、我が社のDNAを社員にもう一回認識してもらうための社員教育もやっていきたいと思っています。それから、われわれ自身が健康でないとお客様に対して健康 的なものが提供できないということで、今年「ピップウェルネス経営宣言」をしました。健康であるために普段の生活を見直して周りへ影響を与えていこうというものです。社 員が一週間の始まりに「また会社に行って頑張るぞ」と思えるような、元気な会社に なったらずいぶん変わるんじゃないかな。そしてワクワクできる商品を探す、つくる。そうすると売り場もワクワクを感じる。最終的にお客様がワクワクする。そんな会社に、商売環境に、していきたいです。

知花    社員さんも健康的に。良いですね!    最後に一〇〇年後の未来……そうすると二一〇周年を迎えることになりますが、ピップはどんな会社になっていると思われますか?

松浦    メーカー、卸、あるいは別の性格の企業になっているかもしれませんが、人々の健康維持のために必要不可欠な会社でありたいです。消費者に、ピップがいないと自分たちの健康のベースが成り立たないと思っていただけたら。そして世界中から親しみを込めて「ピップさん」と呼んでもらえる、そんな身近な存在でありたいと思いますね。

会社情報
ピップ株式会社