JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

薬剤師ヒーローたちのバトンリレー

大賀薬局

<ゲスト>代表取締役 大賀崇浩さん

※2020年収録

福岡で一〇〇年、地元で愛される調剤薬局&ドラッグストア。
明治期に弱冠一四歳で起業した初代の経営哲学は、次々にたすきがつながれ、希代の薬剤師ヒーローを生み出しました。

知花 福岡県とその近郊で調剤薬局とドラッグストアを展開している大賀薬局さん。「福岡で知らない人はいない」というくらい、地域に根ざし、愛されている会社です。
武田 創業は明治三五年ですか。一九〇二年だから、今年で一一九年にもなるんですね。
大賀 はい。私の曾祖父、ひいおじいちゃんの大賀可壮(かそう)が創業しました。生まれた年から計算すると、どうも一四歳で創業したことになるのですよね。
知花 うそ! そんな歳で?
大賀 私もビックリしました。薬局ではなく商店だったようですが、薬のほかに、化粧品、たばこ、食品に衣料まで揃え、スーパーマーケットのような業態だったと聞いています。福岡県の南の方にある筑紫野市の二日市で開業して、社員も三人いたそうです。相当なチャレンジャーですよね。

天神エリアに進出・撤退・返り咲き

知花 薬品を専門に扱うようになったのはいつ頃ですか?
大賀 創業から七年後の一九〇九年。薬種商に認定され、卸業の免許を取ってからだと思います。薬の店頭販売に加えて問屋みたいな仕事もするようになって、一九二七年には薬品卸問屋として福岡市の天神町に進出しました。
武田 天神に移られたのは、何か狙いがあったのですか?
大賀 九州鉄道が開通して、現在の西鉄福岡(天神)駅ができた頃ですね。可壮には「将来、商売の中心地は天神町になる」という確信があったようです。その頃には社員は二〇人ほどに増え、天神だけでも一〇店舗あったとか。
知花 ものすごい急成長。そのままグググッと大きくなったんですか?
大賀 いや、そうはうまくいきません。八年ぐらいして取引先の製薬会社が倒産してしまい、連鎖的にうちも問屋業を閉めざるを得なくなったんです。それでやむなく天神から引き上げて、福岡市東区に移りました。卸問屋ではなく、小売業として。ここでいよいよ薬局事業のスタートとなります。
武田 ピンチをチャンスに変え、今度は消費者の方、生活者向けの事業に寄ったわけですね。
知花 もともと創業当時はそういうお店だったんですものね。
大賀 せっかく念願の天神に出てきたのに、相当悔しかったとは思いますけど、ここはいったん引いて祖業に戻ろうという作戦だったのかもしれません。
武田 いずれふたたび天神へというお気持ちもあったのでしょうね。
大賀 そうだったと思います。祖母から聞いた話によると、曾祖父にはやはり天神に強い思い入れがあったようで、商売の中心はここだとずっと思い続けていたそうです。それで、しばらくして終戦後、可壮の息子である栄一、つまり私の祖父が奇跡的に戦地から生還したため、商売の基礎固めをもう一度やり直そうと、親子して二人三脚で奔走する日々が始まったと。二年後には売り上げを五倍に伸ばし、わずか四年で悲願の西鉄街、今の天神コアへの返り咲きを果たしたということです。

戦時下で米軍から情報収集という荒技

知花 素敵なお話。再進出された時はどんな形態のお店だったんですか?
大賀 薬局です。一階が店舗で、二階が事務所。三階は自宅にして、そこに住んでいたんですね。開店は朝七時半、店を閉めるのは夜中の一二時くらい。まるでコンビニみたいですね。
武田 昭和二〇年代の半ばですか。当時はそんな店はほかになかったでしょう。
大賀 一度倒産してますから、とにかく必死だったんだと思います。でも、最初の店舗、創業時の大賀商店も一二時頃まで開けていたそうですけど。
知花 すごい! ひいおじいさま、ちょっと働き過ぎ(笑)。でも、お薬って急に必要になることがあるから、お客さまはきっと助かりましたよね。
武田 息子さんが生きて帰ってきてくれたから、頑張れたのかもしれませんね。その二代目の栄一さんはどんな方だったのですか?
大賀 祖父は民間から出征し、戦地では陸軍少佐の大隊長として活躍したと聞いています。自分の部隊から一人も死者を出さなかった功績で、天皇陛下から勲四等に叙せられたこともあるという、非常に優秀な人だったそうです。
知花 かっこいい。
大賀 戦地ではアメリカ兵の捕虜に酒やたばこをあげて、敵の情報とか、アメリカの商売に関する最新事情なんかも手に入れたそうです。そういう知識を、日本に戻った時に生かそうと思ったんですね。西鉄街に店を出した時は、その情報をもとに店員教育にはかなり力を入れたということです。商品知識はもちろん、礼儀作法や、基本的な計数管理も徹底したと。しかも、大賀薬局だけでなく西鉄街のあらゆる店舗を対象にした「店員学校」のようなものをつくり、自分が校長になって教育したそうです。

医薬分業の先駆けへ、二代目のチャレンジ

知花 大賀薬局の長い歴史の中で、成長につながる転機を挙げるとしたら?
大賀 そうですね。祖父の栄一が、調剤薬局とドラッグストアの両輪でやる方向を明確にしたことでしょうか。一九五一年に薬事法が改正され、日本にも医薬分業が導入されました。それが一つのきっかけだったと思います。
武田 医薬分業というのは、医師による医療行為と、薬局業務を分けるということですね?
大賀 そうです。昔は病院や診療所で薬も出していたんです。日本ではなかなか医薬分業が進まず、今のように浸透するまでだいぶ時間がかかりました。理由はいろいろとありますが、お医者さんが薬剤業を手放したがらなかったこともあるようで。その頃は「薬九層倍」なんていわれたように、薬を売ると利益も大きかったんです。
武田 薬の売値は原価の九倍という意味ですか。
知花 なんだかちょっと生々しいですね(笑)。そんな守りの堅い分野にあえて入っていかれたわけですよね。二代目もすごいチャレンジャーです。
武田 分業はいずれ進むはずだという目算があったのでしょうか。
大賀 日本はアメリカの後を追っていくに違いないと考えたようです。祖父は早くから医薬分業には興味を持っていて、実態研究のために東京まで出向き、大学病院の前にできた調剤薬局を訪ねたりしました。それを参考に福岡に本格的な調剤室を備えた店舗を開き、医薬品のほかに、輸入物の雑貨やお菓子も販売して、化粧品コーナーまでつくった。当時まだ日本になかったドラッグストアの業態を目指したんですね。全部父から聞いた話ですが。
知花 おじいさまは早くに亡くなられたのですか?
大賀 私が生まれた時にはもう。がんを患って、五一歳で他界しています。ですから実際にその後の事業を切り盛りしたのは、祖母の昌子です。

現状維持は後退でしかない

武田 栄一さんの奥さまが三代目の社長になられたのですか。だから、現社長の崇浩さんは四代目ではなく五代目なんですね。家族の素晴らしいバトンリレーですね。
知花 栄一さんの遺志を継いで、昌子さんは何をなさったんですか?
大賀 祖母は薬剤師をしておりました。経営の知識はなかったので、病床の祖父から商売の基本を聞き取って、それをノートに書きつけて必死に覚えることから始めたそうです。
知花 うわあ、想像しただけで倒れそう。相当なプレッシャーがおありだったでしょうね。
武田 どんな経営をされていかれたのですか?
大賀 これがですね、祖母がまた非常にアグレッシブな人で、祖父が亡くなった後、世間では「大賀の経営はもう危ない」などとささやかれる中、大胆にも調剤薬局の開店拡大に乗り出すんです。ただ、そこはドクターの牙城ですから、一筋縄ではいきません。お医者さんのところを訪ね歩いて、患者さんが余分な薬をもらって飲み残したり、別の病院で出された薬と区別できなくなったりするよりも、患者さんのために処方箋を出してもらえませんか、医薬分業にしませんか? と説得して回ったといいます。
武田 ものすごい薬剤師さんですね。
大賀 もともとは水泳の選手なんです。一六歳で国内二位になって、オリンピックの出場候補にも選ばれたことのある人なんです。
知花 すごい! だから夢に向かって突き進むエネルギーがあるんですね。お医者さんの説得も成功させたんですよね?
大賀 はい。一緒にやってくださるというドクターが何人か見つかって。そこから徐々にチェーン展開が始まったと。なにしろ積極的です。「企業にとって現状維持は後退でしかない」って、祖父の言葉がノートにもしっかり書き留めてありました。

左/ 若くして「大賀商店」を開店した大賀可壮(現社長の曽祖父)。妻のヒデと。
右/ 戦後間もなく天神町に再進出。西鉄街(現・天神コア)に「西鉄街店」をオープン。

左/ 1962年、本格的な調剤施設を持つ「福岡ビルくすりセンター」を開設。
右/ 三代目社長・昌子さんが病床の夫・栄一さんから聞き取った経営のツボを書き留めたノート。

「薬育」を通じて残薬問題の解決に挑む「薬剤戦師オーガマン」。

原点回帰で、経営不振から脱却

知花 ここからは五代目、崇浩さんのお話を伺います。大学卒業後は総合商社にお勤めになったそうですが、家業を継ぐことは考えなかったのですか?
大賀 まったく考えませんでした。親からも特に何も言われませんでしたし。商社を選んだのは、商売のことにはやはり興味があったのと、なんとなくかっこいいというか、単純にモテたいというのもあったりして(笑)。
知花 あはは。どうですか武田さん、この五代目。
武田 商社マンは、ビジネス男子の花形のような存在でしたからね(笑)。モテる夢も果たせたし、大賀薬局に戻ってきたらとお声がかかったんですね?
大賀 はい。その頃は仙台にいたんですが、帰省した時に父と二人で飲む機会がありまして。ちょうど私に札幌営業所の立ち上げメンバーになる話があったので、それを父に伝えたところ、いきなり怒り出しまして。「おまえ、どこまで遠くに行くんや」と。どうやら父は、そのうち会社を継いでくれると思っていたようで、「大賀薬局に帰ってくるんやろ?」と初めて言われました。「そうだったの?」みたいな(笑)。
武田 急に怒られて、どういう反応をされたのですか?
大賀 経営者になりたい気持ちは以前からありましたので、チャンスをもらえるなら手伝ってもいいかなと。大学時代の先輩から、「将来事業を立ち上げたいなら、今から利用できるものは利用しておいた方がいい」という話も聞かされていましたので。
武田 なるほど。跡取り息子としての軸足ではなく、まずは経営者になるという点に立脚して大賀薬局五代目を活用しようと思われた。入社してみて、どんな風景が見えましたか?
大賀 経営環境としてはかなり厳しい状況でした。薬事法の改正でドラッグストアで扱える医薬品が増え、競合店が出店しやすくなったことが一つ。また、大店法(大規模小売店舗法)も変わり、制限されていた大型店舗の出店も緩和されました。すると、競合店が福岡にどんどん集まってきて、うちの売り上げは落ちていくといった時期でした。
知花 そんな大変な時期に入社されて、一年後には店長を任されたとか。ライバル企業がひしめき合う中で、他店と大賀薬局の違いについてはどのように思われましたか?
大賀 美容と健康。地域に根ざした店づくりをしてきた大賀薬局の原点ですね、ここを深掘りすれば差別化できると思いました。品揃えを増やして利便性を高める方向もありますが、そこは大資本に比べてうちは乗り遅れ気味でしたので、美容と健康に関する専門的な相談を徹底してやろうと。
知花 ただ売るだけでなくて、コミュニケーションを大切になさったんですね。
大賀 お客さま一人ひとりを大切に、丁寧にやっていこうと。それはかなり意識しました。高齢の方が多いエリアでしたので、しゃべりに来てもらえるだけでもいいという気持ちで。

「薬育」のヒーロー、薬剤戦師オーガマン

知花 実は崇浩さん、社長のほかに「薬剤戦師オーガマン」としての顔もお持ちだとか。決め台詞をお願いします。
大賀 では。「薬飲んで、寝ろ。」
知花 おお、かっこいい! 本物の声優さんみたいですね!
武田 戦隊もののキャラクターを演じられてるのですね。何の戦士ですか?
大賀 薬剤師のヒーロー、薬剤戦師。戦士の「士」は、薬剤師の「師」です。
知花 何と戦うヒーローなんですか?
大賀 薬剤師は日々何と戦っているのかということですが、祖母の時代もそうだったように「無駄な薬を減らす」ことです。残薬というのですが、患者さんが飲まずに捨てたり放置したりしている薬が、年間五〇〇億円くらいに上っています。これはもったいないし、薬は決められた通りに飲まないときちんと効果が現れません。適切に服薬すれば病気も早く治り、結果的に薬も減りますよね。そういうことを、子どもたちを通じておじいちゃんやおばあちゃんに伝えるために、このヒーローを主人公にした動画をつくってYouTube に載せました。いわば、薬育ショーです。
武田 真面目なお話だったのですね。失礼しました。人気はどうですか?
大賀 おかげさまで想像を超えていました。YouTube に上げたらいきなりバズりまして、二時間で再生一〇万回を超えるという。デビューして一年ちょっとですが、Twitterのフォロワーが三万七〇〇〇人を超えています。
知花 社長がこれだけ新しいことをなさったら、会社の空気も一変したんじゃないかと思いますが、ほかに進めている改革などはありますか?
大賀 三年前に「チャレンジ制度」というのを始めて、社員が役員に対して、新しい事業や商品のアイデアを提案できる仕組みをつくりました。言い出した本人がリーダーシップをとって事業を進め、会社も部署を設けて応援します。

受け継がれるチャレンジャーの系譜

武田 伝統を継いでいく看板の重みというのは確かにあると思います。その重たい分だけ自由な発想を形にするのは難しいと感じることはありませんか?
大賀 面白いアイデアを持っている人はたくさんいるんです。ただ、それを出す機会がなかったり、出しても認められなかったりしていただけで。特に経営陣が多数決で判断をすれば、斬新なアイデアであるほど通りにくくなります。リスクを考えれば、そうなりますよね。ですから、私は多数決はしません。もちろん議論は尽くしたうえで、最終判断は私に委ねる形にさせてもらっています。新規事業を開発する「未来投資部」は私の直轄なんです。うまくいかない可能性があるとしても、一歩踏み出してチャレンジする。それが大賀薬局のDNAだと思っています。
知花 では最後の質問です。一〇〇年後、大賀薬局はどんな会社になっているでしょう?
大賀 薬局としての祖業はあり続けると思いますが、商社のような事業であったり、コンテンツ事業であったり、今見えつつあるいろいろな展開を踏まえた一大総合企業のような存在。そんなふうに成長して、一兆円、二兆円規模の会社になっていると思います。

会社情報
株式会社大賀薬局

ゲスト

大賀崇浩(おおが・たかひろ)

1982 年、福岡県生まれ。東京理科大学卒業後、大手商社を経て、2008年に大賀薬局入社。調剤薬局事業本部長、ドラッグストア事業本部長などを歴任し、2016 年 4 月、代表取締役副社長、2017 年 9 月、代表取締役社長に就任。2019 年 10 月「薬剤戦師オーガマン」としてデビュー。