JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

証券界をリードする独立独歩の革命家

野村證券

<ゲスト>野村ホールディングス株式会社執行役員・未来共創カンパニー長兼ブランド戦略共管野村證券株式会社常務・未来共創カンパニー長兼ブランド戦略共管 池田 肇さん

※2020年 収録

大正時代、投資における調査の重要性に着目し株取引の理想形を追求した野村證券。創業時から受け継がれる独立独歩の精神で、今もなお金融業界に新風を吹き込みます。

知花 野村證券は世界30を超える国と地域でグローバルに展開する野村グループの中核を担う証券会社です。私、実は証券業界にはまったく明るくないんですけれども。

池田 株を買ったことはないですか?

知花 ないんです。大人としてお勉強しないと、と思っているところで、今日お話を伺うのをとても楽しみにしていました。まずは会社の成り立ちを教えていただけますか?

池田 野村證券の設立は1925(大正14)年です。もともと初代野村徳七という人が明治五年から両替商「野村商店」を営んでいたのですが、その息子である二代目野村徳七が大阪で「大阪野村銀行」を創立しました。その銀行内に証券部を立ち上げ、その部を独立させてつくったのが野村證券の始まりです。

明治に始まった日本の株式市場

知花 株式という概念が日本に入ってきたのはいつ頃ですか?

池田 明治初期です。創業者である二代目野村徳七が生まれたのが1878(明治11)年で、その年に大阪に証券取引所ができたそうです。

武田 野村證券の設立当時は、株式市場が日本で誕生してまだ数十年しか経っていないということですね。評価付けも難しかったんじゃないでしょうか?

池田 両替商をしていた頃からずっと価値が明確に定義されないものを見定めて きていましたから、その経験が株式の世界でも生かされたと思います。当 時は資本主義という考えすら未成熟でしたので、株の世界はかなり荒々し かったようですね。そんな中で、創業者は専門の調査部をつくって株式の 売買や資産運用の理想形を模索したと聞いています。そこから現在まで、約100年という時間をかけて、株式市場は少しずつ洗練されてきました。

武田 調査部は、具体的には何を行う部署なんですか?

池田 お客さまが株式の価値を的確に評価できるよう、情報を発信する部署です。情報があればあるほど、投資の精度は上がりますから、情報発信はとても重要なんです。調査部を立ち上げた時には、新聞記者など、知識のある人たちを調査員として迎え入れました。これによってお客さまは、野村と取引をすれば十分に情報を得られて、精度の高い運用ができる、ということになりました。

ウォール街に衝撃を受け世界を志す

知花 創業者の二代目野村徳七さんはどんな方だったのですか?

池田 彼は1908(明治41)年、31歳の時に朝日新聞社主催の世界視察に参加してニューヨークのウォール街に行き、アメリカの株式市場の洗練された姿に大きな衝撃を受けたそうです。日本の株式市場はまだ立ち上がったばかりでしたが、まだまだ成長できると感じて、帰国後に野村證券の立ち上げに尽力しました。一方で晩年は、能や茶といった伝統の世界にも入りこみました。ビジネスへのチャレンジ精神と芸術を愛する心をあわせ持つ、魅力的な人だったのだと思います。

知花 明治時代にすでに世界を意識するというのは、かなり進んだ考え方だったんじゃないでしょうか。株式売買に興味を持ったきっかけはなんだったのでしょう?

池田 はっきりとはわかりませんが……もともと野村家が営んでいた両替商は古くから日本で続く、いわばトラディショナルな業種でした。けれど明治に入って株式市場ができて、今でいうベンチャービジネスのような勢いがあった。それを見て、いてもたってもいられなくなったのではないでしょうか。

知花 当時のマーケットはエネルギーがあって魅力的だったんでしょうね。

池田 二代目には弟がいて一緒に会社を経営していたのですが、兄弟のバランスがとても良かったそうです。兄はやんちゃでイケイケ、弟は堅実。

武田 アグレッシブとコンサバティブですね。

池田 二人は、当時から社員に女性を登用するなどして、個々の能力を尊重することで会社をうまく軌道に乗せたと聞いています。

知花 創業95年の歴史の中では、浮き沈みがあったのではないでしょうか。

池田 この業界は淘汰再編が頻繁にあって、社名が変わることがよくあります。野村證券もこれまでに何回か合併などの話はありましたが、創業者が持っていた独立独歩への強いこだわりがDNAとして受け継がれているので、これまで一度も合併再編をせず、いまだに創業時の名前が残っている珍しい会社です。初代野村徳七は両替商をスタートして以来、家族的な経営を行いました。例えば、従業員に自身のことを「家長」と呼ばせて、大家族の長として彼らをものすごく大事にした。家族を守るために独立独歩でいたいという思いだったのではないでしょうか。

知花 すごい。これぞ企業の遺伝子!

池田 当社には、「清冽な地下水」という言葉も受け継がれています。清く澄んだ地下水のように、清廉潔白なビジネスを目指そうということです。野村證券が独立独歩を維持できているのは、「清冽な地下水」を合言葉に、創業者が大切にしていた社員教育や顧客第一主義、綿密な調査、海外に打って出る心意気などを、社員たちが今もしっかりと意識しているからだと思います。

知花 創業者の教えを受け継いで、目先の利益に囚われずに歩んで来られたんですね。何か転機となる出来事はありましたか?

池田 1965(昭和40)年頃の証券不況ですね。前年の東京オリンピックで国内景気が良くなった直後に当時一番大きかった証券会社が倒産の危機にあい、日銀の特別融資で立て直されました。もちろん当社も同様に不況の煽りを受けましたが、その中にあって野村総合研究所という調査会社を創設しています。この時に調査の重要性を信じて新会社を設立したことが、その後の野村グループを支えてきました。

武田 通称、野村総研の始まりですね。

リーマンショックの波は二度あった

知花 90年代のバブル崩壊時はどのような状況だったのでしょうか?

池田 ちょうど私、90年に入社しているんです。

知花 バブルが崩壊する直前ですね!

池田 入社してすぐに、日本の株価がどんどん下落していきました。それが10年という長いスパンで起こって、金融機関もいくつか破綻しました。当社 も危機的状況でしたが、最後はお客さまに支えられてピンチを脱しました。このような危機はその後も訪れましたが、特に大変だったのは、2008年にリーマンショックが起こった時でした。この時、我々は二回ショック を受けました。一回目のショックは、まさにリーマン・ブラザーズという 大きな投資銀行が破綻した時。二回目のショックは、リーマン・ブラザー ズ自体のアジア・ヨーロッパ事業を当社が引き継いだ時です。

知花 事業を引き継ぐというのは、リーマン・ブラザーズの社員さんを受け入れたということですか?

池田 そうです。一万人単位の従業員を受け入れたので、いきなり異文化が入ってきて、ショックがとても大きかった。ただでさえ経営が大変な状況下で、それまでライバルだった海外の金融機関、それも破綻した張本人であるリーマン・ブラザーズの事業を承継するんですから、本当に大変でしたね。

武田 非常に短期間で事業を買収したということで、話題になりましたよね。

池田 破綻から二週間ほどで買収をまとめました。日本国内マーケットに加えて、今後さらに海外でのプレゼンスを向上するために、大きなチャンスと考えての決断でした。

知花 証券不況にバブル崩壊、リーマンショックという危機にあっても、常にリスクをとって攻めていくスピリットが素晴らしいですね。

武田 二代目野村徳七さんは創業時から世界を意識されていたそうですが、野村證券には世界にチャレンジするDNAが流れているんでしょうね。引き継いだ後はどうでしたか?

池田 黒字化するまでに10年ほどかかりましたが、結果的にはリーマン・ブラザーズの優秀な人材と事業基盤を生かしてソリューション・サービスをさらに拡大し、国際競争力を強化することができました。

野村證券創業の二代目野村徳七。初代野村徳七(創業者の父)が開業した両替商「野村商店」の看板。

左/創業者の二代目野村徳七。欧米に外遊し、海外の洗練された証券取引市場から大きな刺激を受けた。右/1872(明治5)年に初代野村徳七(創業者の父)が開業した両替商「野村商店」の看板。

野村證券中学校での出張授業「投資って何?」。野村證券創立当時の調査部。

右/中学校での出張授業「投資って何?」。ほかにも、自ら資産について考え行動できる人材を育てる多様なプログラムを提供。左/野村證券創立当時の調査部。

https://www.q-o-n.com/journal/wp-content/uploads/2021/06/img_nomura_03.jpg

LINE社と共同出資で立ち上げたLINE証券。スマホで簡単に投資ができる。

一株から取引できるLINE証券

知花 池田さんは現在、野村證券の「未来共創カンパニー長」でもいらっしゃいますが、こちらはどういった組織なのでしょうか?

池田 2019年四月にできた新しい組織で、デジタル技術を使ってお客さま目線でサービスを創り出していくことをミッションとしています。「お客さまとともにいい未来を創っていきたい」という思いでこの名前をつけました。

知花 具体的にどんなサービスを提供していらっしゃるんですか?

池田 2019年に、野村證券が49%、LINEさんが51%出資して、LINE証券をつくりました。

武田 LINE証券、ニュースになりましたよね。

池田 LINEユーザーは約9000万人とも言われていますし、毎日使うアクティブユーザーが多い。そのLINEさんが、証券や資産運用に非常にご関心があって、野村證券のノウハウとLINEさんのプラットホームをかけあわせて、投資サービスをつくろうということになりました。一株単位、数百円から取引できるので、投資経験のない人にも気軽にご利用いただきたいです。

知花 一株、数百円からできるんですか。私もやってみようという気になります。

池田 ありがとうございます。知花さんのように投資家の裾野が広がることは企業にとって重要なことです。一株だけの投資家が将来百株、千株の株主になってくださるかもしれないし、株主が多様化することでさまざまな可能性に期待できると思います。

知花 サービス開始から一年経って、いかがですか?

池田 設立当初は、一株単位で買える銘柄は100種でしたが、これが一年足らずで300種に増えました。そのほかの株も含めると、全体では4000種近くの銘柄を扱うようになっています。

知花 あっという間に4000銘柄に。

革新的な株のセール

池田 信用取引や投資信託、FXといった新サービスもどんどん登場しています。投資初心者のご利用が多いだろうと予想していたのですが、調べてみると 投資経験者の方も多いことがわかりました。LINEさんはスピーディに ニーズに対応して新サービスを実現していく力があるので、とても勉強に なりますね。LINE証券の試みの中で私自身が驚いたのが、株のセール です。○日の○時から一人上限○株で○%ディスカウントします、というのをやるんです。

武田 証券市場の歴史から見ても、セールって革命的ですよね。

知花 セールと言われたら買いたくなります(笑)。

池田 そうですよね。株のセールというのは、我々金融の人間からは出てこない新しい発想でした。法的にも問題なく、実現できてしまいました。そして、実際にセールを行うと、口座を開く方がばっと増えました。

知花 ディスカウントですもん(笑)。やっぱり皆さん、お得な時に買いたいですよ。

池田 LINEさんにとって金融はサービスの一つであって、ほかの分野でうまくいっていることは同じように試してみるんです。金融だからやめよう、ということはあまりないんですね。一方で、金融には金融のディフェンスが必要な場面もあって、その部分を野村證券が担っています。まさに創業者の弟みたいな役割です。これからもLINEさんと協力して、アクセルとブレーキのバランスをうまく取っていきたいです。

資産運用をたしなみに

知花 今日こうしてお話させていただくまで、株は本当にハードルが高いものだと思っていました。

池田 そうおっしゃる方は多いです。野村證券では、20年以上前から「金融経済教育」というプログラムをつくって、いろんな学校に提供してきました。20年前は学校でお金の話なんてしてくれるな、という意見が多かったのですが、今は変わりましたね。生きていく上で、たしなみとしてお金の知識を持っておくことが大事なんだと、多くの方が気付き始めています。昔は年金が確実にもらえましたし、金利も高くて預金しているだけで五%ほどの利息がついていたので、資産運用の勉強は必要ありませんでした。ですが、これからは勉強している方とそうでない方の差がつく時代です。

知花 耳が痛いです。

池田 例えばフランス料理を考えてみてください。テーブルマナーを身につけて おけば、突然必要になっても、焦らずに心地いい食事の時間を過ごせます。お金のことも、たしなみと考えればいいんじゃないかなと思います。知識 があれば、金融詐欺に騙される前に気付くこともできるかもしれません。

知花 なるほど。投資の知識はテーブルマナーと同様のたしなみなんですね。

武田 ナイフを使うようにFXを(笑)。

池田 ちょっと響きが鋭いですね(笑)。今は証券会社に行かなくても、アプリを使えば少額から体験学習ができる時代ですから、投資はずいぶん身近になったと思います。昔は、一株数百円から買うなんてありえませんでした。

知花 ほかにも今後、未来共創カンパニーでやりたいことはありますか?

池田 健康にも寿命があるように、資産にも寿命があります。この両者をリンクさせて考えることができれば、豊かな人生が送れると思うんです。けれど資産についてご自身で判断できない方もいらっしゃるので、どう資産管理をするか、どのくらい運用が必要か、収入と支出のバランスはこれでいいのか、そういうことを自分で簡単に判断できるサービスを提供したいですね。いわゆる資産の人間ドックです。

知花 それは利用したいです!

池田 サービスご提供の方法についても、お客さまのニーズに合わせて、デジタルと対面の両方をシームレスに活用しながら展開していきたいと考えています。

武田 また新たな挑戦ですね。野村證券は株式市場でさまざまな会社の栄枯盛衰を見続けてきたからこそ、イノベーションの必要性をご存知なのでしょうね。チャレンジしない会社はダメになっていくことを知っていらっしゃる。

池田 これからも創業者の精神を受け継いで、チャレンジを続けていきたいです。

知花 最後になりますが、野村證券の100年後の未来はどうなっていると思いますか?

池田 お客さまにとって、なくてはならない存在でありたいです。当社は一〇〇年近い歴史がありますが、創業者は一〇〇年後の、現在の姿は想像できなかったと思うんです。時代の変化が大きいので、さらに100年後は、今のような金融のかたちではないかもしれない。ですが、そこには必ずマーケットがあって、お客さまがいます。お客さまに必要とされる存在であれば、かたちは変わっても野村證券という会社とDNAは残っていくのではないでしょうか。

会社情報
野村証券株式会社

ゲスト

池田 肇(いけだ・はじめ)

1990年、大学卒業後、野村證券株式会社に入社。支店勤務、人事部採用担当、大阪企業金融二部長、広報部長などを経て2015年、野村ホールディングス株式会社執行役員グループ広報担当、野村證券株式会社執行役員広報担当に就任。2021年4月より野村ホールディングス株式会社執行役員・未来共創カンパニー長、野村證券株式会社常務・未来共創カンパニー担当。