JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

時代を先読む日経グループの広告会社

日本経済社

<ゲスト>代表取締役社長 冨田 賢さん

※2020年 収録

日本経済新聞社専属広告会社として誕生。
グループの理念「中正公平」を徹底しながらも枠に囚われず時流に応えるサービスを展開しています。

知花 日本経済社は日経グループ唯一の総合広告会社であり、日経グループのネットワークを活用して広告、マーケティング、情報提供などなどさまざまなビジネスサービスを展開していらっしゃる企業です。テレビ番組『日経スペシャル ガイアの夜明け』の企画運営などにも携わっているそうです。日経と聞くと私たちは日本経済新聞をすぐに思い浮かべますよね。まずは日本経済社の成り立ちから教えていただけますか?

冨田 創立は1942(昭和17)年と古く、もうすぐ80年になります。当時、太平洋戦争中にたくさんあった全国紙と日刊紙を55社に整理統合せよという指示が政府から出まして、東京地区で経済紙は一紙ということになりました。その時に日本経済新聞のルーツとなる「中外商業新報」を中心に、ほかの経済紙や業界紙を吸収したり買収したりして一紙に統合しました。統合した経済紙の専属広告会社として誕生した「工業社」が日本経済社の前身です。

武田 今の言葉で言うと中外商業新報のメディアエージェンシーですね。

冨田 そうです。新聞の広告営業をする会社として、設立されました。

中正公平を保つグループのDNA

知花 「中外商業新報」というのはどのようにスタートしたんですか?

冨田 中外商業新報の中核である「中外物価新報」の創刊は1876年、明治9年です。中心的な役割を果たしたのが三井物産の初代社長益田孝氏。三井財閥の礎を築き、三井の三番頭の一人とされる益田さんは、商業取引における情報の重要性を感じていました。当時国内外の物価、あるいは経済情報は内務省や政府が全部管理していて、民間には公開されていなかったんです。それで益田さんが内務省の役人の方に相談をして、役人の方からも商業上の知識を普及する新聞をつくるよう強く背中を押され、創刊したと聞いています。

知花 発行は週に一回日曜日、購読料が一年前払いで2円40銭、一部売りは5銭。

冨田 今だとだいたい100円くらいかと思います。創刊にあたって、大蔵省に勤めていた時の先輩である渋沢栄一氏にも相談を持ちかけて、渋沢さんからも同意を得て、さらに協力の約束も取り付けて、この新聞をスタートさせました。

武田 日本の経済の礎ですね。

冨田 そうですね、経済界の大物たちが日本経済の将来について議論した上で、やっぱり経済専門のジャーナリズムが必要だろうということでつくっていったものなんですね。

知花 創刊当時はどんなことが記事として取り上げられていたんですか?

冨田 基本は経済情報なので、当時の商品の物価を取り上げていました。例えばアズキ相場とか米の相場とかです。そういう物価や商売の状況のみを報じる経済専門紙ということで注目されました。しかも三井物産の現職社長が新聞の発行に乗り出して、かつ自らも筆を執ったということで、当時の新聞界にとっては大変特異なことだったんです。

知花 どんな思いで経済情報を提供し続けていたんでしょうか?

冨田 当時も今も基本理念は変わっていないと思うのですけども、日本経済新聞には社是というのがありまして、簡単に言うと、「中正公平」「わが国の経済の発展に貢献する」というものです。この社是が日本経済新聞だけじゃなくて日経グループ全体の一種のDNAのベースになっているんですね。一番大事なのは中正公平ということで、フェアであることの大切さは、入社研修の時からたたき込まれます。

知花 創業当時から理念が変わっていない企業は、多くはないと思いますが。

冨田 明治の実業家には、「欧米に追いつき追い越すためには、自由で健全な市場経済をつくらなければならない、かつそれを発展させていくためには、フェアなジャーナリズムが必要だ」という思いがあって、それが結実した媒体だったんだろうと思います。実は、言論報道の自由を守るということで、日本経済新聞の株主は100%社員なんですね。

武田 そうなんですか!徹底していますね。

冨田 日本経済社も、親会社の日本経済新聞社が48%強、残りの五割強は私を含め社員が持っていて、外部の株主はいません。フェアな事業をするために、株主からいろいろ言われないような体制になっているわけです。

武田 中正公平で自由な企業活動が行える環境を堅持していらっしゃるんですね。

俊敏に時代のニーズに応え成長

知花 日本経済社の成長につながった出来事にはどんなことがありましたか?

冨田 まさに日本の高度成長に乗って日本経済新聞の売り上げがグンと伸び、それとともに日本経済社も成長していったのですが、1968(昭和43)年に新しい事業として、住宅展示場の企画運営を始めました。当時は高度成長期でハウジングの時代と言われていまして、首都圏に住宅がどんどん増えていきました。最初の住宅展示場は大手町にオープンしたのですが、この運営事務局の受託を皮切りに、今でも東京、埼玉、千葉、新潟などでそれぞれの地域に根差した総合住宅展示場の企画運営を手がけています。

知花 住宅展示場ですか! 広告商材を売るのとは全然違うように感じますけど。

冨田 高度成長期のマイホームブームで、昭和30年に26万戸くらいだった住宅の新規着工件数が、45年には148万戸と、どんどん膨れ上がり、新聞広告も住宅や不動産関連のものが増えた。そんな中で、新聞広告で紹介されたいろんなハウスメーカーさんの家を実際に見たいというニーズが出てきたんですね。それに応える場として住宅展示場をつくりました。新聞広告とともに、我々が成長するきっかけになった歴史ですね。

知花 新聞広告以外の展開としては、ほかにはどんなものがありますか?

冨田 日本経済社の財産といえるものに、冒頭ご紹介いただいたテレビ東京の報道番組『日経スペシャル ガイアの夜明け』があります。創立60周年を迎えた2002年に、もっとテレビ広告を売ろうよということで、テレビ広告再開発元年と位置づけた戦略を始めました。その中で、日本経済新聞社とテレビ東京のグループ間の協力関係を生かして、日本経済社ならではの独自の手法による新しい番組をつくろうじゃないか、と三社で議論してつくりました。

知花 『ガイアの夜明け』、大好きです。ワクワクするし、元気をもらえます。

冨田 ゴールデンタイム60分のレギュラー番組です。テレビってちょっと複雑なんですが、『ガイアの夜明け』に出す広告全部を私ども日本経済社が売るということで、テレビ局に売り上げを保証しなきゃいけないんですね。

武田 番組の広告枠を買い取るわけですね。御社単独で全部販売するんですか?

冨田 そうです。買い取った価格以下でしか広告が売れなければ赤字になるので、大変な思いでスタートさせたと聞いています。おかげさまで今では18年続く価値ある長寿報道番組という評価をいただいていまして、2015年には東日本大震災の発生後すぐからスタートさせたシリーズ企画「復興への道」で日本民間放送連盟の青少年向け番組部門の優秀賞を受賞しました。

人の縁に助けられたアメリカ時代

知花 冨田社長は1981年に日本経済新聞社に入社され、11年間日本国内で新聞広告の営業に携わられました。91年に日経アメリカ社に出向。96年に日本経済新聞社に戻られて、電子メディア局マルチメディア営業部長、執行役員クロスメディア営業局長などを経て、2014年、日本経済社の社長に就任なさいました。

冨田 二つ大きな転機があって、一つは四年半アメリカに駐在したこと。もう一つがアメリカ から戻った後、黎明期のインターネットビジネスに携わったことです。まずアメリカ時代なんですが、最初ロサンゼルスに赴任して、日本に進出している企業や進出予定の企業に、日本での販売促進に日本経済新聞の広告を使ってくださいという営業をしました。

武田 日本の日本経済新聞の広告枠を、アメリカ企業に売るということですね。

冨田 そうです。一番の問題は英語が苦手だったことです。みんな現地に行きゃなんとかなるって、無責任に言うんですよ。でもならないですよ、絶対ならない。

知花 おもしろい(笑)。営業ってセールストークというくらいで、言葉を使ってコミュニケーションを図るお仕事ですよね。語学にご苦労される中でどう営業されたんですか?

冨田 まずショックだったのは、日本だと日本経済新聞と言えばだいたい会っていただけたんですが、アメリカで日本経済新聞と言っても誰もわからない。これではアポイントを取るのが大変だなと思ったので、作戦を変更したんですね。ロサンゼルスの日本企業のトップの方に近づいて、そういう人たちにアポイントを取るのを手伝ってもらおうと。

知花 すごい! 大胆な作戦変更。人脈作戦ですね。

冨田 そこで、ロサンゼルス地域で働く日本人ビジネスマンのため月に一回日経ビジネスカレンダーという別冊を発行し、その仕事で日本企業のトップに会いに行きました。取材名目で行って、実はこういう会社の人に会いたいんだけど……と話をしたら、結構いろんなアメリカ企業のトップの方をご紹介いただいて。異国にいる日本人同士の助け合いっていうのがあるんですね。それでなんとか2年半のロサンゼルス生活を乗り切りました。
日経朝刊に全10段で掲載された広告(1968年)。創立60周年を迎えた2002年にテレビ東京の報道番組『日経スペシャル ガイアの夜明け』を開始。オフィスの「まるごと抗菌サービス」の販売を開始した(2020年5月)。

左/1968年、東京・大手町にオープンした住宅展示場の企画運営を受託。画像は日経朝刊に全10 段で掲載された広告。
中/創立60周年を迎えた2002年にテレビ東京の報道番組『日経スペシャル ガイアの夜明け』の企画運営を開始。
右/コロナ禍のクライアントニーズに応え、2020年5月、オフィスの「まるごと抗菌サービス」の販売を開始した。

いち早くウェブ広告配信事業に乗り出す

知花 その後、ニューヨークに移られて2年。日本に帰ってこられたのが1996年ですね。

冨田 ちょうど日本経済新聞がインターネットビジネスに乗り出そうとしていた時で、いろんなセクションから人を集めて「マルチメディア局」という新たな部署を立ち上げていたのですが、そこに私も呼ばれました。そこで稼ぐようにと言われて。

武田 マルチメディアという言葉がまたインターネット黎明期の響きですね。しかし、そのタイミングでネットビジネスに取り組んだのは極めて早かったはずです。営業といっても、ウェブ広告もまだ世の中にほとんどないわけですよね?

冨田 そうです。だから広告業界の皆さんとインターネット広告推進協議会を立ち上げて、まずは広告のサイズを統一して。バナー広告の事業にもずっと取り組んでいましたね。

知花 日本経済新聞社は日本の新聞社で初めて、コンピューターを使ったウェブサイト広告の配信サービスを導入されたそうで、このために冨田社長が奔走されたと伺っています。

冨田 ニューヨーク時代にかわいがっていただいたある広告会社のCEOから 突然手紙が来たんです。突然。「私のグループの中に広告配信のテクノロジーを持ったダブルクリックという会社がある。ミスター・トミタ、日本でこのビジネスを展開しないか?」というような、お誘いのお手紙だったんです。アメリカでは当時から「ターゲティング」という言葉があって、すでに広告配信のサービスをやっていたんですね。

武田 アメリカは数年先をいっていたわけですね。

冨田 紆余曲折あって、日本で実際にダブルクリックと手を組んだのはトランスコスモスさんだったのですが、日本のダブルクリックへの資本参加の打診もいただきました。資本参加は見送りましたが、コンピューターを使った広告配信サービスを導入したいと話を持ちかけました。当時は何千万もお金をかけて大丈夫なのかとずいぶん言われましたが、私のドタ勘で、絶対に必要だと思ったので、上司に懇願していち早く入れさせてもらいました。

武田 素晴らしい勘ですね。今、日経新聞は電子版でも成功されていますが、最初のネットビジネスへの対応の早さが今につながっている気がします。

ミッションは「人減らしをしないこと」

知花 いろんなご縁がつながってきた、というキャリアのお話を伺ってきましたが、日本経済社の社長になられるのが2014年。その時はどんな心境でいらしたんでしょうか?

冨田 2014年に日本経済社と大阪が本社だった旧日経広告という二社を経営統合して、新生日本経済社をつくったのですが、その初代社長を拝命しました。当時の日本経済新聞社の社長から言われたのはたった一つ、「とにかく早期退職を含む人減らしをしない会社にしてほしい」と。「それ以外のことはお前に任せる」と。

知花 すごく信頼されていたんですね。

武田 ただ、リストラをするなっていうミッションは、重たいものがありますね。

冨田 日経グループはものすごく人を大切にする会社なので、リーマンショックの後に日本経済社が赤字になって早期退職者を出したということを相当悔やんでいたんですね。だからある意味では嬉しかったです。そういう、会社をもう一回スタートさせるという役割を担わせてもらえるっていうことが、非常にありがたいなと感じました。

知花 創業75周年を迎えた2017年に、新たなビジョンを掲げたそうですね。

冨田 「つなげる、ひろげる、つくりだす」というスローガンをつくりました。ヒト、モノ、企業、斬新なアイデアなどをまずはつないで、新しい柔軟な発想でユニークなビジネスを生み出す、つくり出す。要するに、お客さまと共に考えて、共に戦って、共に喜ぶという会社になれたら、日本経済社はもっと強くなるし、生まれ変われるだろうと考え、その思いをビジョンにしました。

知花 そんな日本経済社が今力を入れておられるのは、どんなことですか?

冨田 これだけ世の中が複雑になると、お客さま企業が求めるニーズもさまざまなので、それに対して柔軟に対応できる企業にならなきゃいけないし、お客さまのお役に立てそうなサービスがあれば、どんどん取り入れる会社になりたいと思っています。そこで、今のコロナウイルスとの戦いの中で、オフィスの「まるごと抗菌サービス」というサービスを販売し始めました。

知花 抗菌サービス。また全然違うことに!

冨田 「デルフィーノ」という接触感染を防止する抗菌加工を行う会社なんですが、当社が販売代理店として営業活動をしています。ほかにもいくつかチャレンジしていて、2020年は「リゾートビジネス研究会」をつくりました。

知花 楽しそうな研究会ですね。

冨田 地方創生にもつながる新しいリゾート活用の方法をみんなで研究、勉強しましょうと呼びかけて、36社の企業さまにご参加いただいています。まさにお客さま同士をつなげて、ひろげて、つくり出すという点で、楽しみな事業ですね。

働いて良かったと振り返れる会社に

知花 これは皆さんに伺っている質問なんですが、100年後の未来、日本経済社はどんな企業になっていると思いますか?またはどんな会社になっていてほしいですか?

冨田 これは何年後であっても私の思いは一つで、例えば日本経済社を定年退職して離職する時、あるいはもしかしたら途中で辞めるかもしれない。そういう時に、あ、でも自分は日本経済社で働いて良かったなと振り返って思ってもらえる会社にしたいと。これが私の理想なので、これは何年後であっても同じですね。やっぱり会社って人がつくっている組織なので、それぞれの人たちがそういう思いで働ける会社とそうでない会社って圧倒的に成長率に差が出ると思います。

武田 冨田さんは一貫して「人と人の間」ですね。

冨田 我々広告会社の仕事ってやっぱり人とのコミュニケーションが一番大事な職種なので。やはり人を大事にし、でも一方でドライなところはドライに、新しいものをちゃんと追求していくということをやらなきゃいけないというふうに思っていて、私もまだまだ毎日葛藤しています。

会社情報
株式会社日本経済社

ゲスト

冨田 賢(とみた・さとる)

成蹊大学工学部卒業後、1981年日本経済新聞社入社、広告局に配属。日経アメリカ社ロサンゼルス、日経アメリカ社ニューヨークを経て、マルチメディア局企画開発部次長として日経ネット立ち上げに参画。電子メディア局マルチメディア営業部長、広告局金融広告部長を歴任。2010年デジタル営業局長として電子版創刊に参画。執行役員クロスメディア営業局長を経て、2014年から日本経済社代表取締役社長。2021年3月に社長職を退任し、代表取締役会長に就任。