JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

モビリティの未来に羽ばたくプライド

日本交通

<ゲスト>日本交通代表取締役会長/Mobility Technologies代表取締役会長 川鍋 一朗さん

※2020年 収録

業界の「初めて」を推し進めてきた先取の気風はIT化が進む現在のタクシー業界においても健在。
進化するモビリティ社会を颯爽と牽引しています。

知花 日本交通は千代田区紀尾井町に本社を置く日本最大のハイヤー、タクシー会社です。桜にNのマークを掲げたタクシー、武田さんも利用されたことがありますよね?

武田 私、ヘビーユーザーです(笑)。

知花 2014年からは大阪、京都、神戸など西日本エリアにも事業所を構えられて、そのグループ売上高は日本一。運行車両数はおよそ8,000台。日本交通の都内のタクシーは、一日でなんと地球と月の間を一往復する距離を走っているそうです。

得意先回りの秘策は「かき氷」

武田 創業は1928(昭和2)年。100周年も近いですね。

川鍋 創業者の川鍋秋蔵は私の祖父です。埼玉県の農家に生まれ、九人兄弟の四男。四男で本家を継ぐことができないので、自分で何かやりたいと思って勤めたのが鉄道省の大宮工場でした。そこで整備士として働いていたのですが、独立心が強く、一九歳で上京したそうです。そこで、外車の輸入商社、現在のヤナセさんの前を通りかかり、当時はまだ珍しかった自動車を目にして、整備ならできるかもしれないと会社に掛け合ったそうです。

知花 行動力がありますね。

川鍋 口下手なタイプでしたから、必死だったんでしょうね。祖父はその会社で働いている時に運転免許を取り、ある時「川崎造船所に車が売れたから、運転手としてついていかないか」と声をかけてもらったそうです。当時、自動車はまだ一般の人には手が届かない存在で、大金持ちが運転手付きで買うものだったんですね。そんないきさつから、川崎造船所の社長、松方幸次郎さんの運転手として、祖父の車人生がスタートしたんです。

知花 いきなり社長付きの運転手に。

川鍋 ええ。当時はチップの文化があって、月給よりも多いチップをもらうこともあったと聞きます。祖父はいつか独立したいという夢があったので、そのチップを使わずにコツコツ貯めていたそうです。そういった時代を経て、念願かなって29歳の時に、川鍋自動車商会という会社をつくりました。

武田 どういった商売を始めたのですか?

川鍋 ハイヤーです。乗務員や事務員を雇い、車2台から始めたそうです。自ら運転手を務めつつ、夜は得意先回り。社長が行くような店を知っているので、そこに営業をかけていたそうです。でも、お土産を持って行っても、女将さんは「ありがとう」と言ってすぐ奥に入っちゃう。これじゃいかんと、祖父はある時、かき氷を持って行ったそうです。

武田 かき氷は溶けちゃうから、その場で食べざるを得ない、ということですか?

川鍋 そうなんです。それで話ができるようになって、「川鍋君っていうの、ああそう。じゃあ今度、試しに一台呼んでみるわ」というようなところから、広げていったようです。

知花 すごい戦略です。川鍋さんにとって、お祖父さまはどのような方だったんですか?

川鍋 私が中学2年生の時に亡くなったんですが、威厳のある怖い祖父というイメージですね。業界のトップの立場で、どこに行っても「三代目です」と私を紹介するんですよ。

武田 帝王学を意識されていたのかもしれませんね。

川鍋 三代目だと言われ続けて、もう洗脳に近いですね(笑)。

車1,000台を集めて危機を乗り切る

知花 日本交通の長い歴史には、ピンチもあったとお聞きします。

川鍋 存亡の危機は祖父の時代にありました。一九四四年に四社統合命令というのが出されたんです。

武田 戦時中のことですね。

川鍋 当時都内には4,500台ほどのタクシーが走っていたのですが、第二次世 界大戦中の統制で、この4,500台を4社に統合するよう通達が出されたんです。1,000台集めたところから免許をやるぞ、というわけです。そこで祖父は、その一社になろうと奔走しました。まさに命がけだったん じゃないかな。必死に車を集めて、なんとか700台まで確保したんです。

知花 あと300台。

川鍋 もう知り合いも尽きて困っていたところ、東急電鉄系のタクシー会社が300台の車両をどうするか決めていない、ということを知ったんですね。それで、東急電鉄の礎を築いた五島慶太さんに会いに行った。面識はまったくなくて、いきなり会いに行ったらしいんです。

知花 すごい! 大胆ですね。

川鍋 五島慶太翁は、どこの誰かわからない若造が来たというのに、話を聞いてくれた。ご自身も裸一貫で茨の道をくぐり抜けてきたからかもしれません。「僕はこれに人生を賭けています」という祖父に協力してくれたんです。その結果、1945年に11社一個人による日本自動車交通株式会社が誕生し、その後すぐに現在の日本交通株式会社へ商号を変更しました。今もタクシー業界には大手4社というのがあるんですよ。

武田 4社統合の名残が?

川鍋 そうなんです。大和自動車交通、日本交通、帝都自動車交通、そして国際自動車。これ、頭文字をつなげて大日本帝国と言われていまして。

知花 ええ! 偶然ですか?

川鍋 さあ、真相は藪の中です。いずれにしても、4社統合は日本交通にとって最大のピンチでしたし、4社のうちの一社になれたことは最大の戦略的な動きだったと思います。

祖父は稀代のアイデアマン

知花 お祖父さまはアイデアマンだったそうですね。

川鍋 そうですね。タクシーに無線を取り入れたり、車の上に行灯を付けたり、それから、車体の色をすべて統一したのも、祖父のアイデアです。

知花 そうだったんですか!タクシーの常識をつくったんですね。

川鍋 当時は、車が急激に増えたこともあって、乱暴な運転をするタクシーが少なくなかったようですが、祖父は「誠実とサービス」を経営方針に掲げ、「人間ができる一番いいサービスをするのが日本交通だ」と言い続けてきました。「それが桜にNのマークに託した日本交通ブランドの約束なんだ」と。そのため、乗務員教育を行う「日交学校」を設立したり、パトロール部隊までつくってサービスの向上に努めたんです。

知花 パトロール部隊ですか?

川鍋 一過性の教育だけではサービスの質が落ちてくるだろうと考えて、街中に社員を送り出して、態度の悪い乗務員がいたら注意するんです。タクシー業には車と乗務員が必要ですが、車は買えばいい。心血を注ぐべきは乗務員の方で、時間はかかるけれど、誠実に取り組んでいけば必ず他社との差が出る。サービスは一朝一夕にはできないと、いつも言っていました。

知花 サービスや品格が大事だという思いに至ったのはなぜなのでしょうか?

川鍋 悔しかったんだと思うんですよね。自分がハイヤーを運転していた頃は花形の商売だったのが、だんだん一般的になってきて、サービスのレベルが下がってしまって。いっとき、都内どこでも一円で行ける「円タク」というのがあったんです。運転手からすれば早く目的地に着いた方が得なので、ビュンビュン飛ばすから運転がものすごく荒い。祖父にとっては、自分が力を注いできた自動車サービスの質が低下することに、忸怩たる思いがあったんじゃないかと。

武田 車を運転することを商売にしたファーストエイジですからね。

川鍋 東京のハイヤー・タクシー協会の設立などにも尽力しましたし、自分がこの業界をつくってきたというプライドがあったんだと思います。
1945 年、四社統合命令を受けて車1000台を集め、日本自動車交通株式会社を設立。創業者の川鍋秋蔵氏。

左/1945 年、四社統合命令を受けて車1000台を集め、日本自動車交通株式会社を設立。
右/車2 台で、川鍋自動車商会を創業。写真中央は創業者の川鍋秋蔵氏。

自社のタクシーの車体色を統一し、看板灯を取り入れたのは、日本交通が業界初。

自社のタクシーの車体色を統一し、看板灯を取り入れたのは、日本交通が業界初。

新人乗務員のための教育機関「日交学校」を開設。画期的な移動サービスとして注目されるタクシー配車アプリ「GO」。

左/乗務員のサービス向上を追求し、新人乗務員のための教育機関「日交学校」を開設。
右/画期的な移動サービスとして注目されるタクシー配車アプリ「GO」。

入社してから知った借金は1,900億円

知花 川鍋さんは大学を卒業後、すぐには日本交通に入社されず、まずアメリカでMBAを取得されたのですね。

川鍋 祖父が二九歳で独立したので、20代のうちはいろいろやろうと思っていました。小学校からずっと慶應で受験勉強をせずに育ち、体育会スキー部に没頭するという学生生活を送って、右脳はしっかり鍛え上げてきた。ならば今度は、左脳の訓練をしなければと思ったわけです。そのためにはMBAを取るしかないだろうと。体育会テニス部の憧れの先輩がMBAを取るというのを聞いて、かっこいいと思ったのも理由の一つです。

知花 モチベーションがシンプルで親近感が沸きますね。

武田 その後、世界最強のコンサル、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入られました。

川鍋 コンサルティングは経営者としてのトレーニングに最適だろうなと思ったんです。MBAを修了したのが27歳だったので、祖父が独立した年齢になるまで働こうと思いました。面接では「家業があるので、5年もいないと思います」と伝えたのが、面白がられたのかもしれませんね。それも作戦です。

武田 高度な作戦ですね。

川鍋 29歳で日本交通に入社しましたが……その時に思いました。「これまでの人生というのは、まだ本当の人生ではなかったんだな」と。

知花 どういうことでしょう?

川鍋 なんと、会社に借金が1,900億円あったんですよ。

知花 1,900億!?想像を絶する額です。

武田 どんな戦略で乗り越えられたんですか?

川鍋 まずは社内に本業回帰というメッセージを打ち出しました。これまで不動産業にも乗り出していたのですが、自分たちはハイヤー・タクシー企業であると。だから、本業以外はすべて売ることにしたんです。そして祖父が築いた輝かしい時代に戻るために、桜にNの誇りを取り戻そうと強く打ち出したんですね。自分たちはナンバーワンなんだ、人間にできる最高のサービスをするんだと。

武田 本業回帰のスローガンを出しつつ、不動産の売却にも奮闘したそうですね。

川鍋 ええ。ほぼすべての不動産や事業の売却が終わり、日本交通の売上利益もある程度上がり始め、再建の目処が立ったのは2004年です。

知花 入社が2000年なので、たったの4年で目処を立てたのですか?

川鍋 そうですね。マッキンゼーの同期に瀧本哲史さんという、ある意味、天才的な男がいましてね。2019年に亡くなってしまいましたが。武田さんもよくご存知ですよね。

武田 ええ。伝説のエンジェル投資家で、辛辣なコンサルタントと言った方がいいかな。ずっとクオンの社外取締役を務めていました。今でも永久名誉アドバイザーです。

川鍋 彼はマッキンゼー時代に数々のプロジェクトを一緒に手がけた仲間ですが、私が日本交通で多額の負債に直面した時に、日本交通に入社して、ともに 戦ってくれたんです。再建には彼の存在が大きかったですね。

知花 今や日本交通は日本一の売り上げを誇り、業界のリーディングカンパニーとして画期的なサービスを次々と発案しています。なかでも注目は、配車アプリです。

川鍋 それこそ今話に出た瀧本さんと二人でよく、携帯電話でタクシーの配車ができないだろうか、などということを話していましたね。

武田 それが、現在の配車アプリにつながったんですね。

川鍋 瀧本さんと話をしてから実現するまで、18年かかりました。

武田 タクシー業界にとどまらず、スマートフォンのアプリを観察してきたなかでも、とりわけ革新的なアプリだと思います。

川鍋 もともとは「日本交通タクシー配車」というアプリを、日本交通の一部門からスタートしたグループ会社、日交データサービスから出したのが始まりです。現在は、ライバル会社と合併して「Mobility Technologies」という会社名になり、アプリも「GO(ゴー)」に変わりました。

武田 私も「GO」を入れています。

川鍋 このアプリによって、タクシー業界も次の時代に突入できたと思っています。お客さまも乗務員もスマートフォンを持ち、それぞれの位置情報が正確にわかるようになったので、マッチングできるようになったんですね。

知花 お客さまにとってもタクシー側にとっても、無駄がないですね。

川鍋 マッチングの履歴はすべて残るので、過去の統計データを紐解けば、この時間帯はこのあたりが忙しいということがわかるようになります。そのあたりの勘所については、まだまだ日本交通のベテランドライバーの方が上だとは思いますが、実際にタクシー業界は半分IT業界になったんだと思いますね。日本交通も売り上げの半分はアプリによるものです。

世界最高の移動体験を届けたい

武田 最初に配車アプリをローンチする時の、アプリに懸けた思いというのはどのようなものだったのですか?

川鍋 世界最高の移動UX(ユーザーエクスペリエンス)をつくるというのが、私の目標です。これはアプリに限った話ではありません。お客さまはアプリを使っているのではなく、移動サービスを使っています。アプリの利便性とともに、車や乗務員のサービスの質、これらの合算が移動UXだと捉えています。

知花 それでは最後の質問です。日本交通の100年後は、どうなっていると思いますか?

川鍋 そうですね、「昔、日本交通ってタクシーやっていたらしいよ」「え、タクシーって何だっけ?」というような会社になっているはずです。モビリティに関するテクノロジーが、さらに進化することは間違いありません。人口は減少してきているので、電車やバスはコミュニティバスのようなものに移行していくのではないかと思います。地域に一台、大きなワゴン型のタクシーが走っていて、人の移動だけでなく、荷物を運んだり、小さなコンビニエンスストアのような役割を果たすことも考えられます。

知花 おもしろい!

川鍋 そこにはいろいろなセンサーが搭載されていて、子どもの見守りや防犯カメラの機能を果たし、ひとたび自然災害が起これば防災拠点にもなる。そこに逃げ込めば、数日間生き延びられる非常食があり、EV(電気自動車)なので電気も取れる。移動パトロールカー兼移動するオンデマンドタクシーとでも言えばいいでしょうか。自動運転になっていると思いますが、サービスマインド溢れる愛想のいいおじさんかおばさんが乗務員として乗っていて、地域の見守りをする。自動運転だけど無人ではない、ここがポイントになると思います。

知花 そんな時代に、日本交通の遺伝子はどのようなかたちで現れるのでしょうか。

川鍋 世界最高の移動体験、もはや生活体験かもしれませんが、そういったものを提供できればいいですね。桜にNが付いたオンデマンドモビリティに乗ると、一番ハッピーになれる。そんな会社であってほしいです。

会社情報
日本交通株式会社

ゲスト

川鍋一朗(かわなべ・いちろう)

1970年東京都生まれ。1993年慶應義塾大学経済学部卒業。1997年ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院MBA取得。同年マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク・ジャパン入社。2000年日本交通入社。専務、副社長を経て、2005年代表取締役社長に就任。2015年より会長。株式会社Mobility Technologies代表取締役会長を兼務。2014年東京ハイヤー・タクシー協会会長、2017年全国ハイヤー・タクシー連合会会長就任。