JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
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美と健康とサステナブルの体現者

ニールズヤード レメディーズ

<ゲスト>代表取締役 梶原建二さん

※2021年収録

イギリスで創業四〇年。大量につくるよりも、大切につくること。
創業者のポリシーは植物の力とともにブルーボトルに詰め込まれ、私たちの心身を癒やし、環境への気付きを与えてくれます。

知花 ニールズヤード レメディーズはオーガニックコスメのパイオニア。名前を聞いて思い浮かべるのは「ブルーボトル」ですよね。会社の成り立ちから教えていただけますか?
梶原 イギリスでニールズヤード レメディーズが創設されたのが一九八一年。創業の地はロンドンのコヴェントガーデンという、昔は花屋や市場のあった場所です。映画『マイ・フェア・レディ』のロケ地としても知られています。そこにニールズヤードという小さな庭のような一角があるのですが、素晴らしい環境や健康に配慮したものを次世代に残したいと考える人々が集まってきて「ニールズヤード アポセカリー」ができました。ニールズヤード レメディーズの始まりです。

創業時からこだわりぬいた「ブルーボトル」

武田 小さなお店というと、どのくらいの大きさだったんですか。
梶原 僕が初めて行ったのが三七年前なんですが、当時はほんの二坪でした。創業者のロミー・フレイザーが、自らエッセンシャルオイルを瓶に詰め、ハーブを量って、一生懸命お客さまに合わせて製品をつくっていました。彼女はもともと学校の先生だったこともあり「教育で世の中は変わる」と信じていて。子どもだけでなく大人にも学びの場を提供しながら製品をつくりだして、健康と環境についてみんなで考えていけるようなブランドをつくりたいという思いから一号店を立ち上げました。彼女の製品で他のブランドと違っていたことの一つがブルーボトルです。
武田 創業時からブルーボトルだったんですか?
梶原 ええ。でも実は最初は茶色の瓶にしようと思っていたそうです。なにせ、イギリスでは同じような製品のほとんどに茶色の瓶が使われていましたから。フランスの薬局ではよくブルーの瓶が置かれているのですが、そこには通常、劇薬が入っているんです。そんなわけでイギリスでもブルーは劇薬のイメージがありました。
武田 どうしてニールズヤード レメディーズ(以下ニールズヤード)は劇薬に使われるブルーボトルを採用したんですか?
梶原 資金的に魅力的だったんでしょうね。また、ボトルの種類を選んでいくといろんな形があって面白いものができそうだと感じたようです。そこで、ラベルもきちんとデザインして、世界で初めて全製品を青一色で統一して販売しました。今では一色展開しているブランドってよく見かけますが、あの頃はありませんでした。ニールズヤードがこのときに考案したデザインは、現在までほとんど変わっていません。
武田 デザインにおいても非常にサステナブルなブランドなんですね。

大量につくるよりも、大切につくること

知花 デザインがずっと変わらないニールズヤードですが、考え方も創業当時から変わらないのでしょうか?
梶原 ええ、一貫しています。例えば一番のビジネス・エシックスは、「大量につくることよりも、大切につくること」。その姿勢は店舗を拡大する際も同じで、一気に展開するのではなくて徐々に増やしています。イギリスには今、お店が五〇店舗ぐらいあるんですが、そのうち二〇店舗くらいはフランチャイズ。そのオーナーのほとんどが元ニールズヤードの社員なんです。会社が高品質の製品をつくって、社員が独立してフランチャイジーになり、ブランドを地方に広げていくという流れができています。大きな資本を持つ企業にフランチャイズ契約をしてもらえば一気に広がるのですが、少しずつでもニールズヤードを理解してくれている人にお店を任せたい。そういうスタイルを良しとするところが、創業時からのポリシーをよく反映していますよね。
武田 初めから量を狙うことはしないということですね。
梶原 あと、「生産者を大切にする」という姿勢もずっと守っています。ひと昔前はコスメ用の原料をオーガニックでつくる農家って、すごく少なかったんですよね。
武田 当時は、そもそもオーガニックの市場が存在しないし、ニーズもなかったんでしょうね。
梶原 そうなんです。ニールズヤードでは「企業の成長は生産者の成長あってこそ」と考えますから、その意味でもたくさんつくって大量に売るのではなく、ブランドと生産者が歩みを合わせて少しずつ一緒に成長していきたいと思っています。
武田 ステークホルダーともオーガニックな関係なんですね。
梶原 イギリス人に「信頼できるブランドは?」と聞くと多くの人がニールズヤードと言ってくれます。大切につくられてケアも行き届いている印象があるんじゃないでしょうか。

ニールズヤードに一目惚れし、直談判

知花 梶原さんが代表取締役を務めるニールズヤード レメディーズの日本法人は一九九四年に設立されていますが、梶原さんが製品を扱うようになったのはその九年前の一九八五年です。ニールズヤードとの出会いをお話しいただけますか?
梶原 当時、私は二九歳。海外各地を飛び回って、さまざまな製品を見つけて日本で販売していました。長年の友人から「建二が絶対に気に入る店がある」と紹介されて、コヴェントガーデンにあるニールズヤードを訪れたのが最初です。お店に入ってまず驚いたのが、ずらっと並ぶブルーボトル。とにかく綺麗で圧倒されましたね。私の経験上、美しいものって奥に哲学があるのですが、ニールズヤードもそうでした。アロマテラピーに関する知識はありませんでしたが、創業者のロミーから環境に対する想いを聞き、すごく共感しました。その考えを一緒に広めたいと思ったんです。それで、ロミーに一時間くらい「日本でやりたい」と直談判して、契約書も交わさずに了承を得ました。
武田 互いに共鳴するものを感じたんでしょうね。初めてお店に行ったその日のうちに日本で製品を取り扱うことが決まったとは驚きです。
知花 当時はバブル期でしたが、日本人には受け入れられたんでしょうか?
梶原 最初はほとんど受け入れられませんでした。難しいだろうなと予期していたんですが、「花柄じゃなくてかわいくない」と言われたとき、これが受け入れられない一番の理由だと気付きました。ブルーボトルはどっちかというとメンズライクでしたし、華やかさに欠ける、という理由で百貨店のバイヤーに断られることもありました。今の感覚とはちょっと違いますよね。
知花 そうかもしれませんね。
梶原 それから、外箱がないことに疑問を持たれる方もいました。ニールズヤードって創業時からずっと環境に配慮して外箱をつくっていないし、パッケージにはリサイクルできる素材や大豆インクなどを使っています。「中身がむき出しで、どうやって持って帰るんですか?」なんて言われてしまって、大きな壁でした。
知花 今では、そうした環境に配慮した取り組みがむしろ歓迎されるのに。
梶原 でも、実際に買ってくれるお客さまもいて、購買理由を聞くと「瓶が素敵だから」と言ってくれるんです。ですから希望もありました。
武田 バブル期の日本で、アロマテラピーに対する理解はあったんですか?
梶原 まったくなくて、臭いとさえ言われたこともあります(笑)。本物のエッセンシャルオイルは純度一〇〇%で、いわば植物の「血液」のようなもの。成分が凝縮されているので、自然に咲いている花より香りが強いんです。製品ではエッセンシャルオイルをブレンドすることがよくあるのですが、香りって人それぞれ好みがありますし、苦手だと感じる人もいます。海外で育った植物のエッセンシャルオイルには嗅いだことのないような香りや、動物的な香りもありますし。日本人には、柑橘系なんかわりと好まれますね。

ストレス社会が求めた「癒やし」

知花 その後、アロマテラピーはどのように日本で広がったんですか?
梶原 ストレス社会が問題視されるようになったことが大きいですね。ストレスを解消するには癒しが必要で、癒しのために香りを活用する海外の例なんかが雑誌などで紹介されるようになってから一気に広がりました。そのあたりからニールズヤードは、純度が高く厳選したエッセンシャルオイルを使っていること、イギリスの老舗だということもあって知名度が上がりましたね。ブルーボトルも次第に好まれるようになっていきました。

知花 受け入れられるまで辛抱の時が続いたんですね。
梶原 「癒やし」っていう言葉が流行ったのが一九九〇年代初めですからね。
武田 消費者はオーガニックなんていう言葉を知らないし、マッチするキーワードが一つもないところから始めたわけですね。
梶原 はい。病気になって初めて「健康」という言葉を使うような時代でしたから。
武田 「サステナブル」も最近ようやく通じるようになりましたね。ニールズヤードの製品が売れるようになってきたのは、「時代が追いついてきた」という感じでしょうか?
梶原 いえいえ、そういう気持ちは全然なくて。いつも「今、本当に必要とされているものを見極めて広めたい」という思いでやっています。

左/ 2 坪のお店からニールズヤード レメデ ィー ズ を 創 業 し た イ ギ リ ス 人 女 性、ロミー・フレイザー。
右/ニールズヤードの象徴とも言えるブルーボトルは紫外線を約 90%カット。ほぼすべての製品に使われており、使用済みボトルは自主回収してリサイクル。

左/「製品づくりにおいて、環境に対して責任が持てるか」も大切なテーマ。製品に使用する植物は絶滅の危険性を考慮するなどサステナブルなものにこだわるのはもちろん、
フレッシュで高品質のものを厳選するため、ガーデナーが手摘みで収穫している。
右/ニールズヤードレメディーズ表参道本店。食材にこだわったレストラン「ブラウンライス」やトリートメントサロン、オフィスも併設する。

カッシーナ、ラミー、ダイソンを日本に次々と紹介

知花 梶原さんは大学を卒業された後、電機メーカー、海外家具メーカーなどを経て、二四歳で独立。生活雑貨を輸入する会社を起こされて一九八五年、二九歳の時にニールズヤードの販売を日本で始めました。初めての就職は電機メーカーだったんですね!
梶原 はい、長髪を短く切って就職しました。当時は学生運動がまだ激しかった時代ですが、卒業時にはみんな気持ちを切り替えて就職するのが当たり前で、人生ってつまんないな、自分も大人になってお給料をもらう生活を送らないとな、と諦めていました。
武田 でも、すぐに退社されるんですよね(笑)。
梶原 入社三日で辞めようと思いました(笑)。結局、九ヶ月間勤務してから会社を辞めたのですが、人生の脱落者という烙印を押されましたね。当時は、大企業を辞める人なんていませんでしたから。でも、僕は自分にふさわしい場所を求めていて、家具メーカーに移ったんです。
知花 その家具メーカーというのが、イタリア高級家具ブランド「カッシーナ」。なんと営業成績でナンバーワンをお取りになったということなんです。
梶原 そうですね。その頃カッシーナは社員が数名で、知名度もなくて。でも僕は、カタログやデザインストーリーが完成していて美しくて、生活を豊かにしてくれるものだと感じていました。仕事は未経験でしたが飛び込みで面接を受けて入社したんです。
知花 美しいものにすごく敏感でいらっしゃるんですね。
梶原 「美しい」の定義は人それぞれだと思いますが、美しさにこだわるライフスタイルは人を文化的に高めてくれます。美しいものをチョイスするには感性だけでなく学びも必要で、そうした経験が人の豊かさに通じると思いますね。
武田 カッシーナでの経験はその後の起業につながっていくんですか?
梶原 はい。二つの会社を経て強く思ったのは、やっぱり自分でやりたいということ。今まで日本人が見たことがないデザインや機能を持つものを紹介したいし、可能性も感じて起業しました。独立後は「男性が欲しがるもの」「半径二メートルの中に置いて美しくて機能性のあるもの」にこだわって商品を厳選しました。日本の消費財のターゲットは女性中心で、男性が楽しんで買うものって車くらいしかなかったんですよね。
知花 具体的にはどういったものをご紹介されていたんですか。
梶原 例えば、今では有名ですが、「ラミー」というドイツのボールペンを日本に入れたのは私で、ラミージャパンの初代社長にもなりました。あとは、スイスの腕時計「ウブロ」、イギリスの手帳「ファイロファックス」、掃除機の「ダイソン」……。
武田 ダイソンもですか!?
梶原 ええ。ダイソンをイギリスの雑誌で見つけたとき、デザインや理論に惹かれ、創業者のジェームズ・ダイソンと会ってみたら、実はまだプロトタイプしかできていなかったんです。そこから製品完成まで一緒にやることになりました。彼はよくメディアで「日本人のおかげで掃除機ができた」と言ってくれています。
知花 ダイソンの誕生に日本人、しかも梶原さんが関わっていらっしゃったとは。
梶原 開発は大変でしたけどね。でも、ビジネスでは必ず壁にあたる時がある。その時に利益のためだけにやっていたらすべてを否定されることになってしんどいのですが、自分が面白いと思っていることならなんとか続けられるものです。

「生き様」に共感してもらえる存在に

知花 日本のニールズヤードが、今特に力を入れていることはありますか?
梶原 まず働く環境づくりですね。コロナ禍でコミュニケーションが取りにくくなっているので、これまで明治神宮外苑にあった広いオフィスを退去して、表参道にあるニールズヤード本店の上階と地下に新オフィスをつくりました。フリーアドレスのスタイルで、ホテルラウンジのような空間になっています。屋上には階段を取り付けて緑化し、そこもワークスペースとして使っていますし、菜園があるので、収穫した野菜は下階のレストラン「ブラウンライス」で料理してファームトゥテーブルを実践しています。希望する社員は菜園の管理にも携われるのでコミュニケーション促進にもなっていますね。それから、二〇一九年、映画『不都合な真実』の脚本・主演によってノーベル平和賞を受賞した元アメリカ副大統領のアル・ゴア氏が初来日しました。その時、彼が立ち上げた温暖化防止のための活動「クライメート・リアリティ・プロジェクト」のメンバーになってトレーニングを受けたんです。今、メンバーが世界で約五万人いるのですが、私は日本のプロジェクトリーダーとしてセミナーや広報活動を行っています。
武田 素晴らしい環境を次世代に残したいという気持ちは創業時からのDNAですね。
知花 ニールズヤードのDNAを守るために、課題になっていることはありますか。
梶原 社員に会社の考えをいかに理解してもらうかということは常に大切で、課題でもあります。社員が共感して主体的に変化することが一番の駆動力になるのではないでしょうか。すでに社会問題について自主的に取り組むプロジェクトが立ち上がっています。
知花 変化が激しい現代ですが、一〇〇年後もニールズヤードは変わらないでしょうか。
梶原 変わらないでしょうね。ブルーのまま、大量につくるよりも大切につくる。ただ、製品のバリエーションやチャネルは増えると思います。ナチュラルとメディカルの垣根がなくなり、医療者と生活者が共に健康管理に携われる時代も来るでしょう。それから、自然物は今よりもっと重要視されていくと思います。自然の力をより多様な切り口でたくさんの人に理解してもらうような取り組みができるといいです。一人でも多くの人に「ニールズヤードのようなライフスタイルっていいな」と思ってもらえるといいですね。

会社情報
株式会社ニールズヤード レメディーズ

ゲスト

梶原建二(かじわら・けんじ)

1956年生まれ。大学時代イギリスに留学し、英国カルチャーに触れる。大学卒業後は大手電機メーカー、輸入家具メーカーを経て、24歳で起業。世界中から美しくて機能性のある生活雑貨の輸入事業を開始。1985年、日本で「ニールズヤード レメディーズ」の取り扱いをスタート。1996年、恵比寿に直営店をオープン。2003年、表参道に本店を移し、2021年に同ビルの屋上を緑化したコミュニティーガーデンを開設。2019年、元米副大統領アル・ゴア氏が創設したクライメート・リアリティ・プロジェクトのリーダーに就任。