JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

あらゆる住まいの「いいな」を求めて

三菱地所レジデンス株式会社

<ゲスト>取締役専務執行役員兼株式会社メックecoライフ取締役社長 唐澤眞二さん

※2023年 収録

明治の世に創業者が目指したのは、東京の街に、世界が目を見張るほどのオフィス街をつくり出すこと。
その進取の精神は、次世代の住まいづくりに受け継がれています。

知花 三菱地所レジデンスは、三菱地所グループの住宅総合デベロッパーです。三菱地所レジデンスと言えば、ザ・パークハウス!

武田 人気の有名住宅ブランドですね。

知花 まずは、会社の成り立ちから教えていただけますか。

唐澤 現在、丸の内のオフィスビル事業などを手がけている三菱地所が母体です。海運業を営んでいた明治の実業家・岩崎彌太郎が東京に進出し、その後を弟の彌之助が継ぎました。

知花 どうして丸の内だったのでしょうか?

唐澤 江戸城の前面、今の丸の内地区にはもともと大名屋敷がありましたが、廃藩置県の後は明治政府の陸軍練兵場になりました。当時、日本が欧米諸国と肩を並べるには莫大な国費が必要。そこで、政府はその土地を売りに出し、岩崎彌之助が128万円で買い取りました。これがスタートです。

日本のオフィス街の始まり

武田 当時の価値はどのくらいだったのでしょうか?

唐澤 東京市の1年間の予算は、40万円くらいでした。

武田 東京市の予算の3倍!その土地をどう活用するつもりだったのですか。

唐澤 ロンドンとかニューヨークに並ぶような、すてきな事務所街をつくりたいという思いがあったようです。でも、当時は「三菱ケ原」と呼ばれる、ただの原野です。周囲から「あんな土地、どうするのですか」と聞かれた彌之助は、「タケでも植えてトラでも飼うさ」ってうそぶいていたそうです。

武田 彌之助には、まだそこにはない未来が見えていたのかもしれませんね。

唐澤 思いをグッと胸に秘め、その10年後、実現させたのはすごいと思います。1894年、彌之助は丸の内に三菱一号館という赤れんがビルを建てました。その後、さらに十数棟のオフィスビルがつくられ、1900年代に入ると、東京駅ができて、大発展につながりました。

武田 丸の内は、日本のオフィス街の始まりだったのですね。

唐澤 オフィス街という概念もなかったでしょう。事務所ビルすらあまりなかった時代です。

武田 彌之助は、時代に先駆けて新しい概念を打ち立て、実際に体現したのですね。

唐澤 その後、アメリカ・ニューヨークでは、エンパイア・ステート・ビルなど高層建築物が盛んに建てられるようになりました。日本でも、9階建ての建物「丸の内ビル(旧丸ビル)」の設計に至りました。これが、日本の近代的ビルの第一号みたいなものです。

苦難の末、旧丸ビルが完成

唐澤 旧丸ビルができたのは、1923年。当時、アメリカで高層ビルの建築が盛んだったことから、ニューヨークのフラー社という設計会社に建築を依頼しました。その近代的な設計手法、工法、ものすごいスピードで立ち上がっていく様子に、日本の技術屋さんは皆、驚いたそうです。1922年の4月の頃です。翌年の1923年と言えば……。

知花 関東大震災ですね。

唐澤 実は、その前年には「東京地震」という関東大震災の前兆と言われるような地震がありました。マグニチュードは6.8。割と大きな地震でした。

知花 ちょうど旧丸ビルの建築が進んでいた頃ですよね。影響はありましたか?

唐澤 8割方でき上がっていたのですが、ものすごい損傷を受けました。なぜ最新式のビルがこんなに損傷を受けたのか、いろいろ調べてみるうちに、ニューヨークとの岩盤の違いが浮かび上がりました。

武田 ニューヨークのあるマンハッタン島は、岩でできた島ですね。

唐澤 固い岩ですから、あそこでは地震はほとんど起きません。ですから、ニューヨークの建築は、地震対策ではなく風対策が意識されていました。今で言う「超柔構造」など、風に耐えることに主眼が置かれたわけです。

知花 ニューヨーク式の工法や設計を地震の多い日本に持ち込むのは危険ですね。

唐澤 そうです。「これはまずい」ということになり、慌てて建築途中のビルに鉄骨の「筋交(すじかい)」を入れて、柱やはりを補強しました。そのおかげで、翌年の関東大震災でもほぼ無傷で残ったのです。

知花 「筋交」は木造の建物にも使われていますよね。

唐澤 鉄筋コンクリートの建物は、ニューヨークの風には耐えられても、マグニチュード6.8の地震には到底耐えられなかった。そこには、日本の住宅に昔から使われてきた「筋交」による補強がどうしても必要だったのだと思います。

武田 世界最先端の建築技術に、日本伝統の技を入れて工夫を施すとは、興味深いですね。

引き継がれる自然災害に対する思い

知花 企業の遺伝子と言うべき、現在まで脈々と引き継がれていると感じる点は何ですか。

唐澤 三菱地所グループでは、まず建築物の耐震性に対する思いが強いと思います。また、自然災害が起こった時のソフト面での備えも、受け継がれています。

知花 自然災害のソフト面での備えというと、備蓄食料とか水とか……。

唐澤 関東大震災では、旧丸ビルを拠点にして、震災に遭われた方の救護活動に邁進したという歴史があります。あの時、救護所をつくる、備蓄している食料や貯水槽にためた水を配るなど、ソフト面にも力を入れるDNAができたのでしょう。それは、住宅会社の三菱地所レジデンスに今も息づいている根本的な思想のようなものです。

知花 オフィス街をつくる一方で、三菱地所グループは、住まいづくりもリードする存在です。その住まいづくりにおいて、今も受け継がれていることはありますか。

唐澤 ビルであれ、マンションであれ、一戸建てであれ、つくる建物に対する耐震性は常に重要視していると思います。僕は技術屋ではありませんが、お客さんに向けて、そこを一番説明しなきゃいけないところだと考えています。

武田 100年前から、地震の多い国で地震とともに、そして地震をバネに人々に寄り添う街づくり、住まいづくりに寄与されている企業なのですね。

東日本大震災が大きな転機に

知花 2011年に藤和不動産と三菱地所、三菱地所リアルエステートサービスの住宅分譲事業部門が統合されて、三菱地所レジデンスが誕生しました。

唐澤 はい。2011年1月です。分譲マンション事業で日本一の大きな会社になろうと決意し、頑張っていこうって思っていたら、2ヵ月後に……。

知花 2011年3月といえば、東日本大震災ですね。

唐澤 つくづく地震とは切っても切れない関係があるのかもしれませんね。実際、東日本大震災は、三菱地所レジデンスの大きな転機となる出来事でした。

武田 不動産業界に限らず、さまざまな業界に暗雲をもたらす重大な災害でした。でも、不動産業界は、数年先までプロジェクトは進行していますよね。

唐澤 不動産事業は息の長い仕事なので、2年先くらいまでは目途がついていました。が、問題はそこから先、2014年以降です。2013年には目標だった6000戸の分譲を達成できましたが、それ以降の土地の仕入れや建築費の高騰に対処できなくなり、供給戸数が5000戸、4000戸、3000戸……と減っていったのです。

武田 起死回生には、何か別の視点が必要ですね。

唐澤 分譲マンション以外の事業を始めるしかないと思いました。簡単に言うと多角化です。私が経営企画部長に就任した2015年から、新規事業をいくつも立ち上げました。

知花 具体的にはどんな事業だったんでしょう。

唐澤 まず、賃貸住宅に着手しました。また、古いビルを買い取ってリノベーション(改築)してお客さんに貸し出す/売るという、「買い取りReビル事業」も始めました。さらに、老人ホームにも目を向けました。学生マンションや、既存の建物を買ってリノベして売る再販事業も始めました。

新規プロジェクト遂行の手腕

武田 海外には目を向けましたか?

唐澤 はい、日本だけでは立ち行かないということで、海外三事業部を立ち上げ、 2015年から2017年の3年間で、一気に進めました。

知花 急激な変化ですね。社員やスタッフの皆さんは、戸惑われたのではないでしょうか。

唐澤 分譲マンション事業しかなかった会社なので、そうした新規事業に対するスキルやノウハウはないし、そもそも「自分はそのためにこの会社入ったわけじゃない」と感じる社員もたくさんいたと思います。ただ、管理部門にいたスタッフやそれまで分譲マンション以外のことをやっていたスタッフが新規事業に携わってくれました。

知花 会社がガラッと変わったと言われましたが、どんな感じだったのでしょうか。

唐澤 そう簡単に変わると思わなかったのですが、あっという間に変わりまして(笑)。たくさんの事業がある会社になっちゃったんです。もともと一本足打法ではもう立ち行かないことはわかっていたので、あの転機に多角化して良かったなと思っています。

知花 新事業は続けるのが難しいと思います。続けるための原動力は何ですか。

唐澤 一度始めたら、成功するまでやめないこと。活路を開くには誰かの協力が必要ですが、本当に熱意を持って一生懸命やっていると、誰かがどこかで手を差し伸べてくれます。

知花 今、新築マンションの値段が上がっていますね。

唐澤 都心で1億円のマンションも多くあります。おまけに、完成在庫がほぼないんです。ですから、もし今、買ってすぐに住みたいなら、中古マンションしかないですよね。

武田 オフィスの需要はいかがでしょうか。コロナ禍以降、リモートワークが増え、オフィスが要らなくなるという見方もありますが。

唐澤 むしろ、オフィス需要は増床傾向ですね。やはり完全なリモートは難しく、対面でのコミュニケーションは必要みたいですね。かといって、昔みたいなぎゅうぎゅう詰めは嫌われるので、1人当たりスペースが大きくなっているのでしょう。個人住宅でも、家は今までは寝るところというイメージでしたが、そこに「働く場所の位置付け」も付加されました。マンションでも共用部分としてワークスペースが求められています。

知花 自宅やマンションにワークスペースがあるのは、いいですね。

唐澤 戸建てでもマンションでも、今のニーズはもう1部屋あったら…ということ。最近はコワーキングスペースを設けているマンションが多いです。

武田 時代に応じて、さまざまなニーズに対応する機能を入れていくということですね。

関東大震災(大正12年)の際、救護活動をした三菱臨時診療所

防災マンホールトイレの設置訓練

お客様の様々な要望を形にする次世代型分譲マンション「スマートセレクト構想」第1号物件。スケルトンインフィル工法の活用により間取り選択が簡便・安価なかたちで可能となった。ザ・パークハウス 茅ヶ崎東海岸南(2012年度グッドデザイン賞受賞)。

太陽光発電と高圧一括受電システム「soleco(ソレッコ)」

豊かなマンションライフ

人生観を変えた地主のひと言

知花 入社35年の長い歴史の中で、特に印象に残っているエピソードはありますか。

唐澤 私の人生観を変えさせられたのは、今から30年くらい前ですかね、パートナー事業部という地主さんと共同事業を行う部署に配属されました。当時、バブル崩壊後の不動産が厳しい時期で、来る日も来る日も厳しい条件闘争ばかりでした。そんなある日、地主さんに言われました。「なんか三菱さんと会っていても、楽しくないんだよね」と。

知花 担当者として、それはショックですね。

唐澤 その時、会社に迷惑をかけるわけにはいかないけれど、この先、最大限、地主さんの希望に寄り添おうと心に決めました。

知花 成果を上げた秘訣がありますか?

唐澤 ひたすら、相手の話を聞くことです。実際、2時間でも3時間でも、いくらでも相手の話を聞くこと、その積み重ねが一番大きかったと思います。

後継者の素顔とこれから

知花 ところで、唐澤さんは、エコロジーに詳しいと伺っていますが?

唐澤 たしかに、社内きってのエコオタクですよ(笑)。昔、住宅の商品開発担当の部署の上司が、いろいろなことを教えてくれました。「これからは環境だよ」と。初めはピンときませんでしたが、当時、住宅の性能評価ができ、家の断熱性を上げることが一番だという話になり、いろいろ話を聞いているうちに、断熱性能を上げると冷暖房費が安くなることだけはわかりました。それで、一軒家からマンションに移り住んで調べてみたのです。

知花 その結果は?

唐澤 断熱性の高い住居の場合、エアコンは間欠運転より、連続運転の方が効率がいいのです。最近のエアコンは非常に優れていて、設定温度以上にならなかったら動きません。これ、自宅の電気代の推移表です。

知花 2023年の8月の電気代は6380円。そんなことってありえます?

唐澤 最大の理由は、エアコンをずっとつけっぱなしにすることです。絶対に消さない。「エアコンを消さない勇気、強い意志」って呼んでいますが、これを家族に説得するまで2年くらいかかりました。

武田 人間の体感温度と周囲の気温には違いがあるのでしょうか。

唐澤 人間が何を感じているかというと、実はその正体は輻射(ふくしゃ)です。理想の温熱環境は、脳が暑さも寒さも意識しない状態。僕はオフィスでも家でもいろいろ試しましたが、その建物内の物質温度が24度〜25度であれば、ほぼ暑さ寒さは感じないです。

武田 物質温度ですね。

唐澤 何が言いたいかというと、理想の温熱環境を保とうとするならば、家の中の物質温度変化を最小限にすればいいということです。家の断熱性能を上げて、とにかく外気温の影響を受けづらくする。さらに、空調で中の空気温度を一定にする。そうすれば、家の中の物質温度は変化しないので、理想の温熱環境に近い状態が実現できます。

知花 暑い夏は絶対にエアコンは消しちゃ駄目ということですね。

唐澤 消したら終わり。物質の温度が上がっちゃうから。机の板や絨毯は比熱が高いので、なかなか温度は上がらないんだけど、いったん上がったら下がりません。とにかく温度変化をさせないことが一番重要です。

武田 非常に科学的ですね。

知花 おもしろいですね。では、いつも皆さんにお伺いしている質問ですが、100年後の未来、三菱地所レジデンスはどんな会社になっていると思いますか。または、どんな会社になっていてほしいですか。

唐澤 100年後、どんな社会になっているのか、正直、わかりません。でも、人間が生きていくためには、着るものと食べものと住むところは必要です。だから、人類が生存していれば、100年後も住まいはなくならないはず。今と同じように、住んだ方が安心安全で、住んでいる人が「ああ、いいな、楽しいな」と思える、ベネフィットを感じられる住宅をつくり続けていてほしいなと思います。うちの会社も、きっと100年後もそういう住宅づくりをやっているだろうと思っています。

会社情報
三菱地所レジデンス株式会社

ゲスト

唐澤眞二(からさわ・しんじ)

1988年、三菱地所に入社。経理部を経て、1994年パートナー事業部へ異動。2011年、三菱地所レジデンス設立以降は、商品開発、経営企画を担当。現在、三菱地所レジデンス株式会社取締役専務執行役員 兼 株式会社メックecoライフ取締役社長。