温かい M & A で日本一の「混ぜ屋」に
前田工繊
<ゲスト>代表取締役社長 前田尚宏さん
※2021年収録
福井で始まった小さな工業繊維会社は、土木資材を中心に、環境、災害対策と、さまざまな分野で事業を展開しています。
そこには、技術や会社を「混ぜる力」がありました。
知花 前田工繊(こうせん)さんは、日本のインフラを支える土木資材メーカーです。
武田 前田工繊の「工繊」とは、どういう意味ですか?
前田 衣服などをつくるための細い繊維ではなく、テントなどに使われる非常に太い繊維を総称して、工業繊維といいます。それを短縮して「工繊」ですね。
知花 「ジオシンセティックス」の総合企業とも伺っていますが、これは?
前田 ジオは大地で、シンセティックスは化学合成。つまり化学製品を用いた土木用の材料の ことです。ジオシンセティックスの発祥はヨーロッパ。例えばオランダは、海抜〇メートル以下の土地が非常に多い。それを有効利用するために、繊維技術を使ったジオシンセティックスで、埋め立てをしたわけです。
軽くてしなやか。建材に適した繊維
知花 土木というと、なんか大規模で硬いイメージがあるじゃないですか。鉄とかコンクリートとか。でもこのジオシンセティックスは繊維なんですよね。
前田 そうです。繊維には、しなやかで、軽くて、しかも錆びないという、優れた特徴がありますのでね。
知花 それって、土木資材として重要なことなんですか?
前田 ええ、「しなやか」であるということは、耐震性に優れるということです。「錆びない」ということは、一度施工すれば半永久的に使え、ライフサイクルコストを低減できるということです。しかも「軽い」ので施工しやすく、施工する人の負担も少ないんです。今や繊維は、鉄やコンクリートに代わる素材として、広く認められているんですよ。
知花 わあ、いいことだらけなんですね。
米問屋から一大資材メーカーへ
知花 前田工繊の設立はいつですか?
前田 前田工繊という社名になったのは一九七二年です。創業はそれより半世紀以上前の一九一八年。今から一〇三年前で、私は四代目にあたります。
知花 老舗ですねえ。
前田 前田家はもともと、福井で米問屋をやっていたんですよ。
知花 元はお米屋さんだったんですか?
前田 ええ。ところが一九一八年に、富山で米騒動が起きましてね。福井にも、それが飛び火して、米の商いが非常に難しくなったものですから、当時トレンドになりつつあった化学繊維に目を付けたんです。さっそく、はた織り機を買い入れて、前田機業場として創業しました。
知花 米騒動を機に創業されたんですね。
前田 一代目と二代目がやっていたのは、大手の繊維会社から支給される糸で布を織り、それを買い戻してもらうという、いわゆる賃加工でした。賃加工は定期的に仕事はもらえるので、リスクがないんです。
武田 加工だけ引き受けてお金をもらうから、賃加工なんですね。
前田 ただ、請負ですから、自分でモノをつくり、値段や利益を決めるという、商売の基本は成り立たない。仕事としては、面白くないですよね。
知花 たしかにそうですね。
前田 それで三代目を継いだ私の父は、何か新しいことをやりたいと考えたんです。中国が台頭し始めていた頃でもあり、日本の繊維加工産業はこれから厳しくなりそうだという予感もあったのでしょう。このままでは、明るい未来はないと思ったようです。それで注目したのが、土木資材でした。
武田 前田工繊にとっては大きなシフトチェンジですね。
知花 それに繊維加工から土木資材へって、唐突な気もします。何かきっかけがあったんですか?
前田 父の友人に、東京のゼネコンに勤めている人がいたんです。ある時、父がその人の会社に遊びに行くと、机の上に妙なものが置いてありました。モジャモジャとした繊維の、ヘチマみたいな塊です。
知花 ヘチマタオルのようなものでしょうか?
前田 そうです。友人にたずねると、「排水材」だと答えました。土というのは、水分を含み過ぎると安定しません。だから盛り土をするときなど、地中の水をどう逃がすかが、非常に大事になってきます。そこで、そのモジャモジャした繊維を、土壌の排水材として使えないかと、ゼネコンさんは考えておられたようです。「これならうちでやれる!」と思った父は、ぜひ製造を任せてほしいとお願いして、このヘチマみたいな排水材の生産を福井で始めたのです。そこから社名を前田工繊として、新たにスタートしました。
知花 偶然というか、必然というか。お父さまがもし、そのヘチマのような繊維と出会わなかったら、今の前田工繊さんはなかったかも。
前田 創業時からの繊維加工で培った技術が、土木資材に応用できました。
事業の多角化に向け舵を切る
知花 前田尚宏社長は、新卒で繊維会社の帝人に入られた後、二〇〇二年に前田工繊に入社されました。当時の様子を聞かせていただけますか?
前田 当時、会社の売り上げは七〇億円ぐらいで、その九割がたは公共事業関係の売り上げでした。さらにそのうちの半分強は、道路をつくるための資材の売り上げだったのです。この資材は、製品名を「アデム」といいます。知花さん、ちょっと頭の中で、アルファベットで「前田」と書いてみてください。
知花 MAEDA
前田 それを逆から読むと?
知花 ADEAM……、アデム。なるほど!(笑)
前田 このアデムが、売り上げの半分ぐらいを占めていたんです。私が入社したのは、公共事業が最大の稼ぎ頭だった時代の最後ですが、社内会議といえば、道路建設とアデムの話ばかり。アデムは優れた材料ですが、新規事業の話がまったく出てこないところに、私は大きな危機感を持ちました。
知花 なんだか嵐の前の静けさという感じ。
前田 実際に、間もなく逆風が吹き始めました。政府が構造改革に乗り出し、公共事業を大幅に減らしたのです。取引先のゼネコンはどんどん業績が悪化し、私たちも将来の見通しの厳しさを痛感し始めていました。
知花 新規道路をがんがんつくって、ノリノリだぜっていう時に、そのお仕事が突然ガクンと減っちゃった。これは大変なことですよ。
前田 そこで、事業の多角化を徹底的にやろうという流れになりました。私は環境と災害の問題に関心があったので、ベトナムで環境関連の事業を興し、木とプラスチックを混ぜて、新しい建築材料をつくり始めたんです。
知花 木片にプラスチックを混ぜるんですか?
前田 そうです。ベトナムは家具製造で有名ですが、家具生産が盛んな地域では、木のごみがいっぱい出るんですよ。その木のごみと、プラスチックのごみをよく混ぜ合わせ、押し出して板材にするのです。いわゆるデッキ材といわれるものですね。
知花 なるほど。もう一つの関心分野、災害関係でも何か開発されたのですか?
前田 布袋に土砂を詰めた土嚢(どのう)というのがありますでしょ。大雨で河川が氾濫したときなど、
堤防が崩れたところに、大きな茶色い土嚢が仮設されていますが、あれって耐候性がないんですよ。日光に弱いんです。
武田 それを耐候性っていうんですね。
前田 ええ、日光にさらされると、二〜三ヶ月でぼろぼろになってしまうんです。それで、耐候性があって長くもつ土嚢用の材料開発を、国や県から要請され、官民共同研究で新しく黒い土嚢を開発しました。東日本大震災後は、福島などで除染土を入れるためにも、数多く使われています。
武田 じゃあ今はその黒い土嚢が、被災地でも大いに活躍しているんですね。
前田 機能と安心の両面で、被災地の役に立っていると自負しています。土嚢って、ベルトの部分を吊り上げて、積んだり移動したりするんですけど、以前の茶色い土嚢では、そのベルトが切れちゃうことがよくありました。その点、このツートンバッグという黒い土嚢は、太陽の光にも強くて劣化しにくく、しかも絶対にベルトが切れたりしない強度設計なので、安心感を持って受け入れていただいています。
武田 アデム頼りだった頃と比べて、事業を広げたことで売り上げは伸びましたか?
前田 おかげさまで、今は四二〇億ぐらいの予算を抱えて頑張っております。
武田 七〇億から四二〇億! 二〇年で六倍だ。
知花 すごいですね。躍進の要因は何だと思いますか?
前田 やはり事業の多角化でしょうね。ただ、多角化といっても、自社で新しい材料を開発する以外に、もう一つ注力したのがM&Aでした。買収と合併ですね。二〇〇二年から始めて、これまでに一四社を買収しています。
左/エンドレンマット®。ヘチマ状の構造体を透水フィルター等でくるんだ排水マット。
右/ツートンバッグ ®。紫外線劣化に対する耐久性に優れた土嚢。
左/盛土・地盤補強用ジオテキスタイル アデム ®が、道路やのり面管理などに広く利用される。
右/不織布三層マスク極 KIWAM I ®。医療にも不織布技術・製品が利用されている。
鉄とコンクリートが中心だった土木資材に繊維を広めたパイオニアとして、第 16 回ポーター賞を受賞(2016 年度)。
地方の企業を元気にするM&A
知花 どんな会社を買うんですか?
前田 私自身が福井の出身なので、M&Aについても、「地方の会社が、地方の別の会社を元気にするんだ」という思いがあります。ですから買収の対象は、モノづくりを行う地方の小さな企業ばかりです。
知花 やはり建設とか、土木関係の会社が多いのですか?
前田 二〇一〇年ぐらいまでは、土木関係の会社さんが中心でした。二〇一一年以降は、農業、漁業、あるいは車のホイール関係など、さまざまな分野に対象を広げています。
知花 M&Aって聞くと、どこかドライで冷たい印象を持ってしまうのですが。
前田 私たちは、温かいM&Aをやっていきたいと思っていまして。
知花 温かいM&A?
前田 前田工繊が、福井という地方の会社だからこそ、地方の中小企業の気持ちが痛いほどわかります。M&Aの前提もそこなんです。我々がそうだったように、地方の企業は困っていると思うんですよ。製品をどこに売ればいいかわからないとか、そもそも技術がないとか、資金が足りないとか。
知花 なるほど。
前田 それに地方の製造業者は、単一商品を製造していることが多く、繁忙期と閑散期の差が大きい。例えばマスクの製造業者なら、需要は一月から三月に集中し、それ以外はずっと閑散期。なかなか安定的な生産ができないという悩みがあります。
武田 前田工繊グループに入ると、それが解決するんですか?
前田 いろんな会社が集まると、全体として多様な製品展開ができるようになり、結果的に、年間を通して工場の稼働がしやすくなります。勉強をして、本業以外の分野でも、つくれるものを増やしていけば、安定的に仕事ができる可能性が上がります。個々の地方企業に成長してもらい、利益を出してもらって、最終的には税金と雇用で地方に貢献する。そういうM&Aを目指しています。
武田 企業が混合し協力し合うと、メリットがたくさん生まれるんですね。なんだか買収という言葉自体、もはやそぐわない気がします。
知花 そこまでM&Aに熱心になるきっかけには、何かあったのですか?
前田 私が入社してすぐの二〇〇二年に、取引先の社長さんから、「うちは後継者がいないので、おたくで会社を買ってくれないか」と、持ちかけられたんです。海洋や港湾の工事現場で、ごみや汚れを外に出さないために使う、シルトフェンスという材料をつくっている会社でした。
知花 先方から、買ってほしいと言われていたんですか!
前田 我々は全国に営業部門があって、ゼネコン各社さんとも、良いお付き合いをさせていただいておりました。それで当社の営業に、このシルトフェンスを売らせてみたら、すごくよく売れたんです。これは素晴らしいシナジー(相乗効果)だなと思いました。
知花 シナジーというと?
前田 二つの会社が一緒になったことで、後継者がいない問題は解決し、当社の営業マンは新しい材料が増えて張り切って、営業成績も上がった。こういうM&Aなら、買収する側も、される側も、ハッピーじゃないですか。
知花 本当ですね。もう、工業繊維だけの話にとどまらなくなってきましたね。
前田 はい。医療用ガウンや避難所用の間仕切り、マスクなどの製造といった、ヘルスケア関連の不織布事業もあります。
武田 グループ企業が増えるごとにネットワークが広がって、次々とイノベーションを起こしていますね。一緒にやりたいと思う会社も多いでしょう。そうやって熱い思いの人たちと出会う確率が、上がっていくんでしょうね。
前田 何か面白いことをやっている会社だなと、世の中で少しずつ認知していただいている気はします。「新しいことをやりたいから、ちょっと前田工繊に相談してみよう」とか、そういうお問い合わせも増えています。
集めて混ぜて価値を生み出す
知花 その前田工繊さんは、一〇〇年後、どんな会社になっていると思いますか。または、どんな会社になっていてほしいですか?
前田 一〇〇年後も、「地方」をキーワードとする会社であり続けていると思います。そして四七都道府県すべてで、M&Aをやっていたいです。四七都道府県のそれぞれに、工場や拠点があって、みんなが混ざり合って成長していけるよう、私たちは日本一の「混ぜ屋」になりたいですね。
知花 面白いです、「混ぜ屋」さん。
前田 絵本の『スイミー』(レオ=レオニ)ってご存じですか? 小さな魚でも仲間が集まって、一匹の大きな魚のようにまとまれれば、怖いものはないというお話です。いろんな分野の中小製造業も、集まれば大きな力です。魚のスイミーと同じように、私たち前田工繊も、そういう仲間たちの「目」になりたいと思っています。
知花 みんなをまとめる「目」、行く先を見つめる「目」。
武田 前田さんがおっしゃる「混ぜ屋さん」というのは、そういう意味なんですねえ。いろいろ、集めて、混ぜて、新しい価値をどんどん生み出していく。
前田 これからも混ぜますよ、アイデアも、技術も、材料も、人も、企業も(笑)。
知花 とても感動しました。
前田 私たちは、世の中のインフラ的な存在でありたいと思うんです。道路は常に整備され、電車は時間通りに来て当たり前。でもインフラの「当たり前」の裏には、それを維持する人たちの血と汗と涙がある。我々も努力を惜しまず、「あって当たり前。でもなくなると困る会社だね」と、そう言っていただける企業を目指します。
会社情報
ゲスト
前田尚宏(まえだ・たかひろ)
1996年、大阪府立大学経済学部卒業後、帝人株式会社入社。2002年、前田工繊入社。2009年、取締役就任。2012年、上智大学大学院地球環境学研究科修士課程修了後、常務に。2015年からは取締役最高執行責任者(COO)兼専務執行役員を務める。2018年9月、同社代表取締役社長就任。