JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

食べればニッコリ、丸いおせんべい

金吾堂製菓

<ゲスト>代表取締役 碓田剛士さん

※2021年収録

「おせんべいで人々を笑顔に」。そう願って店裏で焼き続けた大きくて丸い「厚焼」は五〇年以上愛されるロングセラーに。ひと口食べれば心温まる日本の米菓を、次は世界へ届けます。

知花 金吾堂製菓は、おせんべいの製造販売を手がける東京都中野区の会社です。一九七二年に誕生した「厚焼」は多くの方に親しまれ、五〇年以上経った今でも金吾堂さんの代表作です。会社は今年で創業七二年とのこと。
碓田 はい。創業者の碓田敬は一九一三年、長野県千曲市の生まれで、私の祖父にあたります。早くに父親が亡くなり、母親と一緒にいろいろなことをしながらなんとか食いつないでいたようです。東京に移ってきたのは戦後だったかな。一九五〇年、三七才で母親と二人でおせんべい屋さんを始めました。つくったのは丸いオーソドックスな、いわゆる「草加せんべい」ですね。醤油、ごま、ざらめなど、複数種類をお店の裏でつくって、店頭で売っていました。

社名の由来は一世を風靡した落語家

知花 金吾堂製菓は東京の会社だったんですね。
碓田 東京都中野区で創業して、今もそこが本社です。
知花 おじいさまはどうしておせんべい屋さんを始めたんですか?
碓田 過去にあられ屋さんで働いていたみたいで、そこでの経験を生かしたんだと思います。創業から六年後の一九五六年に有限会社金吾堂という社名になっています。
武田 社名の由来は何なのですか?
碓田 当時、落語家で喜劇俳優の柳家金語楼さんという方がいらっしゃって、革新的な芸風で一世を風靡していました。戦後五〜一〇年の頃で、日本がまだ貧しかった時代ですね。祖父は自分のおせんべいを通して、柳家金語楼さんみたいにみんなを笑顔にしたいと願い、「金吾堂」と名付けたと聞いています。

一念発起して創業から続く「厚焼」を改良

知花 創業当時から商いは順調だったんでしょうか?
碓田 どちらかというと私の祖父は職人気質で、商いの方はあまり芳しくなかったんです。そこで、二代目となる父の幸夫が大阪にあるおせんべい屋さんで修業し、二年後の二四歳の頃、金吾堂に戻って一生懸命営業したようです。
武田 お父さまが経営の立て直しを図られたんですね。
碓田 父から聞いたところによると、当時金吾堂はあまりいいおせんべいをつくれていなかったそうです。焼き方にムラがあって、ところどころ焦げちゃったり、逆に色づきが悪くて白かったり。ちょうど、時代はスーパーマーケットの黎明期。商店街が少しずつ衰退していく中で、商品のクオリティを上げてスーパーの要求に応えられなければ、会社は続いていかない。そこで父は「もっとおいしいものをつくろう」と決断しました。
知花 一念発起ですね。どんな風に取り組んだんですか?
碓田 まず、おせんべいの原料には安いお米を使うのが一般的だったのですが、倍以上の値段をかけていいお米を仕入れました。でも、スーパーで扱ってもらうには、商品価格はあまり上げられません。原料にお金をかけた分、全体的なコストはなるべく抑えた上で、噛むほどに味わいが広がること、外は硬くて中はほろっとほぐれること、一枚で満腹感が得られることなど品質にこだわって、「厚焼」に改良を重ねていったと聞いています。
武田 そうしたこだわりがあってロングセラーが生まれたんですね。
碓田 父が金吾堂に戻って一年後、二五歳の時に新しい「厚焼大丸」が完成し、これが今ある「厚焼」の原型になっています。
知花 会社に入って一年で新商品を開発されたとは、すごいですね。
碓田 私の知っている父はどちらかというと営業に出ているイメージで、工場にいる姿はあまり想像できないんですけどね。改良する時も、実際に手を動かしたのは職人で、父はアイデアを出す立場だったようです。たくさん喧嘩もしたようですが、お客さま目線で「商品価値とは何なのか」を突き詰めたのが「厚焼大丸」でした。
知花 職人さんと喧嘩されたということですが、きっと、いろいろなご苦労があったんでしょうね。
碓田 そうですね。父も若かったですし、創業者の祖父にはなるべく頼らず自分で原価計算して、昔からの職人たちと「ああでもない」「こうでもない」と言い合いながら、いいものをつくったようです。そのおかげで、今がありますね。

おせんべいと違う道に。海外を飛び回る商社時代

知花 三代目となる剛士社長は、金吾堂製菓に入社する前は伊藤忠商事で働かれていたそうですね。なぜ大手商社を選ばれたんですか?
碓田 幼少期は会社の二階に住んでいたので、働く父の姿をいつも見ていました。早朝から汗だくでトラックに荷物を積み、夜はよく家の前で酔っ払っていて、そんな姿が正直あまりかっこよく見えなくて、父とは違う道に進みたいと思っていました。都内の大学に通っている時、将来を決めるまでの時間稼ぎのつもりで「留学をしたい」と相談すると、「それなら四年間行け」と返事が返ってきて、カナダのヴィクトリア大学に入学しました。
知花 お父さまが「四年間」とおっしゃったんですね。
碓田 はい、驚きましたね。カナダでの生活はとても新鮮で、英語を使って仕事がしたいという思いが強くなって、商社に興味がわきました。スーツを着て、革のバッグを持って、飛行機に飛び乗る、みたいなイメージに憧れて。就職活動も商社一本にしぼって、ご縁のあった伊藤忠商事に入社しました。
武田 伊藤忠商事ではどんな部署にいらっしゃったのですか?
碓田 食糧部門の飲料原料部、飲料原料課におりました。ジュースの原料を輸入して国内の飲料メーカーや乳業メーカーに販売する部署です。
知花 憧れていたお仕事はいかがでしたか?
碓田 最高でしたね。世界中を月に一度のペースで飛び回り、原料を調達して、飲料メーカーを通じて日本の消費者に届けるということをしていました。担当者と現地まで原料を見に行くことも多かったですね。一週間くらい一緒に行動して、メーカーの裏話を聞くこともできました。調達した原料が製品化され、小売店で売られているのを見るとすごく嬉しくて。
知花 そんな最高のお仕事を離れ、なぜ金吾堂製菓へ入社されたのでしょうか?
碓田 幼少期から父は、社員を大切にしろとか、メーカーは商品が大事だとか、酔っ払いながらいろいろな考えを話していました。大人になって、ふと子どもの頃から仕事の話を聞かされてきたのは、私に一緒に働いてほしいという気持ちがあるのかなと思ったんです。悩みましたが、一度きりの人生、父が元気なうちに一緒に仕事をしたいという気持ちが大きくなり、金吾堂製菓に入ることにしました。
知花 入社後はどんなお仕事をされたんですか?
碓田 栃木の工場でおせんべいづくりのお手伝いをしてから営業へ。父が「これからは売るのが難しい時代になる、営業ができるようになった方がいい」と言うので。
知花 営業で苦労されたことはありましたか?
碓田 アポイントを取るのが難しかったですね。メーカーが小売店に商品を置いてもらうには、間に情報収集に長けた問屋を介するのが一般的です。米菓メーカーってたくさんあるので、商品に特徴がないと問屋に見向きもしてもらえません。だからなんとか商品をアピールしようとしても、相手はとても忙しいので、話を聞く時間をつくってもらうのが難しくて。そんな洗礼を受けましたが、足繁く通ったり、興味ありそうな情報を持って行ったり、倉庫作業をお手伝いしたり、できることはやって関係を築いていきました。

受け継がれる真摯なものづくりの姿勢

知花 剛士社長が代表を引き継いだのが二〇一六年です。先代たちの言葉で心に残っているものはありますか?
碓田 父から幼少期に食事の席で言われていたことと同じですが、まずは「社員を大切に」です。会社経営は外より中にかかっていると口酸っぱく言われました。それから、メーカーは何よりも商品づくりに力を入れなければいけないということ。「社屋より工場に投資しろ」という方針だったので、社屋はずっと掘っ立て小屋でいつ潰れてもおかしくない状態でしたね。私が代表になる直前に、必要に迫られて建て直しましたが。
武田 創業者が社名にも込めた「おいしいものを通じてみんなを笑顔にしたい」という思いも、大切にされているんでしょうね。
碓田 はい、その思いは当社のおせんべいづくりの真髄で、今も脈々と受け継がれています。金吾堂製菓の商品の裏にも「まじめに、おいしいもの作り」という企業理念がプリントされているんですよ。おせんべいを通して笑顔の輪を広げたいという思いを社員みんなが持っていて、経営会議をしていても「笑顔」という言葉が本当によく出てきます。
知花 社長に就任されて、最初にどんなことに取り組まれたんですか?
碓田 組織体制の改善でした。金吾堂製菓は中小企業で、ずっと社長と社員が近い距離で働いてきました。それはもちろんいい面もあるのですが、やはり社員がどこかやりづらそうだったり、トップダウンが強くてボトムアップとのバランスが悪かったり、課題も感じていましたので。社長になってその原因を考えてみた時、まず、使っていたシステムが古くて受注数や在庫数、販売数といった必要なデータに、社員がアクセスしにくいという状況がわかってきたのです。そこで、まずシステムを刷新しました。
武田 タイムリーな数字を全体に見える化したわけですね。
碓田 はい。それにより社員が自分の行動と結果を把握しやすくなりました。ほかには、管理職に予算管理を任せるなど権限を移譲して、報連相の流れといったルールや評価制度をつくりました。
知花 社員さんは働きやすくなったでしょうね。
碓田 どうでしょうか。考えようによっては、トップダウンってリーダーに決めてもらえば済むので楽ですよね。ところがある程度数字を任せると責任がともなう。自由はあるけれど大変になったと思いますね。でも、明らかに社員が自主的に考えてくれるようになったし、少しずつですが、今後いい変化が起こってくると思います。

昭和25年、戦後の貧しい時代に、あられ屋で修業した碓田敬が創業。店の裏で草加せんべいを焼き、店先で売っていた。1956年に有限会社金吾堂を設立。洗米、製粉、蒸練、焼成など、現在も伝統の製法を受け継いでおせんべいがつくられている。創業時からの続く金吾堂の代表作「厚焼」。職人によって日々品質が保たれ、根強いファンに愛されている。金吾堂本社には直営店を併設している。このほか栃木工場内にも直売所があり、店舗限定の商品目当てに訪れるお客さまも多い。

社長就任と同時に値上げの大改革

碓田 それから社長になるタイミングで、値上げをしました。
武田 値上げですか! 就任直後に難しい選択をされたのは、何か理由が?
碓田 お米の値段がぐっと上がって、製造原価が合わなくなってしまったんです。まずはメーカーとしてさまざま努力したのですが、それでも全然追いつかない。そこで、他社に先駆けて値上げしました。
武田 大手メーカーよりも先に値上げしたのですか?
碓田 はい。こういう時って通常、業界横を見て、大手の動きに合わせることが多いのですが、私は社長になりたてでそういう常識がなかったのもあって、思い切って。原価が合わないのに、苦しみながら一生懸命売るのは何かが違う気がしたのです。
知花 どれくらい値上げされたのですか?
碓田 「厚焼」は、ひと袋で一〇%ほど減量しました。
知花 値上げの影響はどうでしたか?
碓田 最初は売り上げが落ちてしまい、父からも嫌味を言われたんですけど(笑)、一年以内に元に戻ったのでなんとかご理解いただけたのかなと思っています。でも、取り戻すまでは本当に売り上げが厳しくて、工場の稼働日をお休みにしてメンテナンスの時間に充ててもらうこともありました。社員に申し訳ないな、という状況が続きましたね。
武田 工場が稼働しないのは、かなりお辛かったのではないでしょうか。
碓田 辛かったですねえ。代表作の「厚焼」の売り上げは会社全体に影響するので、「厚焼」が苦戦したのは大きかったですね。キャッシュがあと何年もつか、なんて計算もして。社員には家族がいるのに、僕が社長になったとたん会社を潰すかもしれない……と怖かったですね。いまだに値上げが正しかったかどうか考える時がありますが、この経験から学ぶことはたくさんありました。お客さまや社員にはご迷惑をおかけしてしまいましたが、原価を考えるとやはり必要だったと思っています。
武田 お客さまは、「厚焼」のおいしさと品質の良さをご存じだから、値上げしても戻ってきたのでしょうね。金吾堂さんがずっと「まじめに、おいしいもの作り」を続けてこられた賜物だと思います。

日本の誇るおせんべいを世界中に届けたい

知花 金吾堂製菓には「厚焼」以外にも、ユニークな商品がたくさんおありです。
碓田 当社は「厚焼」が会社を引っ張ってくれている反面、新商品を出しても「厚焼」に勝てないという課題がありました。オードドックスなおせんべいを好まれるお客さまとそれ以外のお客さまの両方にリーチしたくて、「厚焼」の技術を使って違う味付け、食べ方が提案できないかなと試行錯誤してきました。
知花 例えばどんな味が人気ですか?
碓田 日本緑茶センターさんの「クレイジーソルト」や、かどやさんの「純正ごま油」とコラボした商品はとても人気ですね。幼少期に身近におせんべいがなかった人は、大人になってもおせんべいを買うことがなかなかないと思うんです。だから、他社のブランド力をお借りして、それを入り口にしておせんべいを知っていただければと考えました。
知花 私も子どもの頃は、沖縄という土地柄か、あまりおせんべいになじみがありませんでした。東京に出てきた時にすごく心が躍ったのが、レトロな店先で売られているおせんべいで。おせんべいを楽しめる場所がもっとあると嬉しいですよね。
碓田 おせんべいを食べながらお茶を飲める場所があるといいですよね。ほかには、農業体験を通じてお米を知ってもらったり、工場見学してもらったり。でも基本は、おいしくて高品質でお求めやすいおせんべいを安定して届けていきたいと思っています。高齢化による人手不足を解消するために、製造現場の無駄を省き、自動化も進めていく予定です。
知花 お客さまからおせんべいの感想をもらうことはあるんですか?
碓田 お手紙をくださる方がいるんですよ。例えば、障がいを抱えるお子さんを持つお母さんから、「厚焼」を渡すとお子さんが笑顔になってくれたとか。私たちの原動力になっていますね。普段はどうしても問屋との取り引きが中心になるので、今後はSNSにも力を入れて、お客さまと双方向のコミュニケーションを深めていきたいです。
知花 一〇〇年後の未来、金吾堂製菓はどんな会社になっていてほしいでしょうか?
碓田 今いる社員の子どもや孫が、次のリーダーとして活躍していると嬉しいですね。会社が違う場所に移転したとしても、変わらずたくさんの方に金吾堂製菓のおせんべいで笑顔になってほしい。日本だけでなく海を越えて世界中の人々の笑顔を生み出したいです。「SENBEI」が共通語になっていたらいいですね。日本が誇るお菓子ですから。

会社情報
株式会社金吾堂製菓

ゲスト

碓田剛士(うすだ・たけし)

1978年東京生まれ。カナダ・ヴィクトリア大学卒業後、2004年に伊藤忠商事に入社。食糧部門飲料原料部で世界中を飛び回る。2009年金吾堂製菓に入社。栃木の工場で製造を経験したのち、営業に従事。2016年代表取締役に就任。