JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

一〇〇年かけてコーヒー文化を根付かせる

キーコーヒー

<ゲスト>代表取締役社長 柴田 裕さん

※2021年収録

大正時代、一九歳で創業した柴田文次の情熱は今も健在。
コーヒーと生活者の距離を近づけ、不確実な現代においても変わらぬおいしさと豊かな暮らしを提案し続けています。

知花 武田さんは日頃、どんなふうにコーヒーを楽しまれていますか?
武田 私は毎朝コーヒーを飲まないと仕事に向かえないです。
知花 コーヒー派なんですね! 私は今、妊娠中で飲むのを控えていますが、どうしても飲みたいときはカフェインレスのコーヒーをいただくこともあります。香りがよくて豊かな気持ちになるので大好きです。そんな私たちの暮らしに欠かせないコーヒーの文化を、日本でなんと一〇〇年にわたり支え続けているのがキーコーヒーさんです。

コーヒーは時代の扉を開く「鍵」

武田 一〇〇年も前から日本にコーヒーがあったんですね。
知花 本当に驚きです。キーコーヒーの成り立ちから教えていただけますか?
柴田 一九二〇年、大正九年に、私の祖父である柴田文次が横浜でコーヒー商「木村商店」として創立しました。祖父はさまざまなところに奉公する中でコーヒーに出会ったそうです。横浜には当時、欧米人がたくさんいて、パンやケーキなどの西洋文化が集まっていたんですね。その中にコーヒーもあって、ぜひ商売にしたいと思った、と聞いています。
知花 横浜という土地柄、西洋のものに触れる機会が多かったんですね。
柴田 横浜にはハイカラなものに憧れる日本人もたくさん集まっていた。祖父も一九歳の若者でしたから、西洋の文化に憧れがあったんだと思いますね。
武田 流行に敏感な方だったんでしょうね。
柴田 そういう面もあったかもしれませんが、当時はまだ一〇代で、家が貧しかったので必死だったんじゃないでしょうか。
武田 商売の種を必死で探していたということですね。キーコーヒーさんといえば鍵のマークのイメージがありますが、あのブランドマークは当時からですか?
柴田 はい。西洋文化が日本に入ってきた時でしたから、日本の食文化の扉を開く「鍵」という意味が込められています。
知花 おじいさまの文次さんはどんな方でいらしたんですか?
柴田 私が小学生の時に亡くなってしまったので、直接話した経験があまりなくて。周りの人から話を聞く限りでは、不屈の精神がある人だと思います。創業三年後に起きた関東大震災ではせっかく立ち上げたコーヒーの商店が全焼してしまって。そこからなんとか復活させましたが、その後の第二次世界大戦時に、貿易品が手に入らなくなってしまいました。でも祖父は戦時中を耐え抜き、戦後、東京からキーコーヒーを全国に展開しました。
知花 普通だったらくじけちゃいそう。創業当時から情熱家でいらしたんですね。コーヒー文化を日本に築こうと思い続けられたことに大きなストーリーを感じます。だって、創業当時はまったく根付いていなかったものじゃないですか。
武田 初代が挑んだのは、すでにあるジャンルでシェアを争う戦いではなくて、まだ市場が存在しないコーヒーという新しいジャンルを日本に根付かせるという戦いですもんね。
柴田 そうですね。ゼロからの勝負でした。私たちは今も創業者の情熱を受け継いでいるのですが、中でも一〇〇年間ずっと貫いているのは「品質第一主義」と「誰でも簡単においしく」ということです。私たちは喫茶店のオーナーやバリスタといったコーヒーのプロを尊敬していますが、一方でやはり一般の人たちにも生活の中でおいしいコーヒーを淹れてほしいという思いがあります。コーヒーは遠い存在じゃないということを広める活動を一〇〇年間ずっとしてきました。
知花 コーヒーを日常の景色の一つに、ということですね。

戦後、喫茶店開業のためのコーヒー教室を開講

知花 キーコーヒーさんは、日本にコーヒー文化を根付かせるためにどんな取り組みをされてきたんでしょうか?
柴田 戦後に喫茶店を開きたいという人が増えてきて、一九五五年にコーヒー教室を開催しました。開業時に揃えるべき道具や抽出の方法を教えるのはもちろんですが、今でいうPOPとかメニューの書き方なんかも含めて、開店指導をしながら店舗運営のノウハウをキーコーヒーが教えたり一緒に考えたりする教室です。これまで延べ三七万人の方に受講いただきました。
武田 そんなに! だから日本の多くの喫茶店にキーコーヒーの看板が掲げてあるんですね。
柴田 はい。キーコーヒーの看板を見て、「ここはコーヒーがおいしいお店だ」と認識してくださる方も多いですね。アニメや漫画などのワンシーンに喫茶店が出てくるときにはキーコーヒーの看板を描いてくださる作家さんもいらっしゃいます。
知花 さらに、キーコーヒーさんは、コーヒーの栽培もされています。戦前からのストーリーがあると伺いました。
柴田 昭和の初めに、創業者が台湾でコーヒー農園の経営に挑戦したのですが、台風などの気候環境や、戦争の影響で断念していました。それでもずっとコーヒーを栽培したいという気持ちがあったんです。
武田 それまでは豆を仕入れる側だったけど、自身でもつくってみようと思われたんですね。
柴田 コーヒーを「つくる人」「買う人」という構図にするのではなくて、産地で一緒においしいコーヒーをつくって、それを広めていくことを、やりたかったんです。

産地の経済発展にもつながった幻のコーヒー復活劇

知花 戦後の再チャレンジでは、市場から一度姿を消した幻の豆、トラジャコーヒーを復活させたそうですね。どういう経緯があったのですか?
柴田 昔、インドネシアのスラウェシ島でコーヒーの木が植えられていた記録があったのですが、そのわずかに残っていた生豆がキーコーヒーに持ち込まれました。社内には農業系の大学を出た人もいたので、「栽培してみよう」ということで始めました。
武田 それが幻のコーヒーと呼ばれるトアルコ トラジャなんですね。
柴田 はい。スラウェシ島は土壌も素晴らしいし、気候もコーヒー栽培に適した場所です。ただ、大変だったのが、産地から貿易港までのルートが整備されていなかったこと。コーヒーの産地は標高一〇〇〇から一五〇〇メートルくらいの場所にあるんです。そこから港まで豆を運搬するわけですが、特に山の中は道路が通っていなかったので、最初は道をつくるところから始めて……。
武田 大変だ。それに、現地では「企業」とか「働く」といった概念もなかったんじゃないですか?
柴田 おっしゃる通りで、現地の人に会社で働いてもらうためのマニュアルのようなものもつくって、ようやく一九七八年にトアルコ トラジャを売り出すことができました。
知花 大変な苦労のあった幻のコーヒー、今、ここで淹れていただいております。
武田 これがトアルコ トラジャなんですね。
知花 いい香りですねえ。スタジオ中が芳醇な香りに包まれています。
柴田 ありがとうございます。キーコーヒー全体の豆の特徴としては「良質な酸味」が挙げられますが、トアルコ トラジャは「アーシー」という大地のような香りと、「グラス」という草のような香りがすると思いますね。
武田 いやあ、おいしいです。これが日本人に評価されたわけですね。
柴田 「幻」という謳い文句もインパクトがありますし、トアルコ トラジャという名前自体が不思議な響きですよね。それから、トアルコ トラジャのマークにはトンコナンハウスという現地の高床式の家を採用しているのですが、コーヒー農園の周りにはこのトンコナンハウスが並んでいるものですから、農園とセットで見に来る観光客が次第に増えました。秘境ツアーといった感じでしょうか。道も整備されましたし、今ではあのあたりにホテルがずいぶん建ちましたね。当時の私たちには地域貢献という崇高な意識はありませんでしたが、結果、今でいうSDGsのような活動になりました。
武田 地域が活性化して、人々に「職」を提供したわけですね。
知花 私も発展途上の国に行くことがありますけど、現地で職をつくって、人を教育して、需要を生んで根付かせることって、本当に労力のいる活動だと感じてきました。トアルコトラジャの商品化はすごく意義のあることだなと思います。
柴田 ありがとうございます。何よりインドネシアの人たちが真面目で、子どもも農業の学校に行って、大きくなったら農園で働いてくれる。そういったサイクルが生まれたことが、事業を成功に導いたと思いますね。

左/ 1920年、横浜市でコーヒー商「木村商店」を創立した柴田文次氏。
右/ 戦後、コーヒー文化を普及するため、百貨店や学校などでコーヒー教室をスタート。この活動は現在も続いており、リアルセミナーだけでなくオンラインでも開催。

左/ 幻のコーヒー「トアルコ トラジャ」を復活させるため、スラウェシ島の山中に道を切り拓いて農園と港をつないだ。
右/ 「コーヒーの 2050 年問題」を解決すべく、World Coffee Research とともに、直営パダマラン農園で持続可能なコーヒー生産を行うための国際品種栽培試験を開始。

1978年、「トアルコ トラジャ」を発売。商品のマークには現地の高床式住居「トンコナンハウス」を使用。試飲会も行った。

父と二人三脚で東証一部上場を実現

知花 柴田さんは大学をご卒業されてすぐ、キーコーヒーに入社されたそうですね。ご自身のキャリアの中で、特に印象に残っているエピソードはありますか?
柴田 二代目社長だった私の父から「キーコーヒーを全国展開するにあたって上場させたいから手伝ってほしい」と言われて入社したんです。父とタッグを組んで上場を実現できたということは何物にも代えがたい経験ですね。
武田 キーコーヒーさんは一九九七年に東証一部に上場されていますね。
柴田 はい。それから、イタリアのilly社と業務提携をしたことで二〇一五年のミラノ万博に招待された時のことも印象に残っています。さまざまなパビリオンを回ったのですが、その中の一つ、「食の未来」をテーマにした展示に、国連WFP(世界食糧計画)が食糧難の地域で給食を配るために使っている「赤いカップ」が置いてあったんです。知花さん、以前、この活動に関わっていらっしゃいましたよね。
知花 そうです。「レッドカップキャンペーン」という活動なんですけれど。
柴田 知花さんがその活動をされていることを覚えていたので、パビリオンに立ち寄って解説を一生懸命読んだんです。そこで、やっぱり食の尊さ、大切さを改めて考えていかないといけないと感じました。今日、知花さんのおかげで、その時の感覚を思い出せました。
知花 そんな……光栄です。すごく嬉しいです。
武田 キーコーヒーの社内の雰囲気も、ぜひ教えてください。
柴田 今はコロナ禍で中止していますが、朝のカップテストという習慣があります。本社の全社員が集まって、コーヒーを口に含ませて、香りや味を確認するという作業をやっているんです。違う部署の人の業務を知ったり、仕事の相談をしたり、雑談したりする機会にもなっています。
知花 素敵ですね。キーコーヒーさんは、二〇二〇年八月でちょうど一〇〇周年なんですね。現在、ある動画を公開されているそうです。
柴田 一〇〇周年を記念して「2世紀企業スタートアップ」をテーマに、未来への決意を込めたムービー「Coffee named Passion※」をつくりました。動画が一回視聴されるたびに一〇円が、日本赤十字社を通じて国内の被災地の方々へ寄付されます。

※「Coffee named Passion」は現在もキーコーヒー公式 YouTube で公開中。寄付期間は終了しました。

知花 曲は社長がつくられたとか。サビが頭の中でリフレインしています(笑)。
柴田 ありがとうございます。昨年、ピアノの練習を始めたのですが、ピアノの後にジョギングしているとメロディと歌詞が浮かんできたんです。コロナ禍が長引く中で会社が一〇〇周年を迎えることになり、私自身悩んでいたこともあって、応援歌のような曲をつくりました。社員と私と、コーラスの方にも入っていただいて歌っています。

直面する「コーヒーの二〇五〇年問題」

知花 キーコーヒーは一〇〇周年を機に「情熱を世界へ、感動を未来へ。」というスローガンを掲げていらっしゃるそうですね。
柴田 はい。「コーヒーという情熱」を世界へ伝えたいという気持ちです。喫茶店文化などもどんどん紹介していきたいですね。それから、最近の若年層はあまりコーヒーを飲みませんから、コーヒーによる感動を未来へつなげていきたいという思いもあります。
知花 今、力を注いでらっしゃることはありますか?
柴田 「コーヒーの二〇五〇年問題」という課題に向き合っています。コーヒーは、コーヒーベルトといわれる北緯・南緯二五度の範囲にある標高の高い場所で育つのですが、栽培条件に適した場所が温暖化によって二〇五〇年までに半減してしまうといわれています。私たちは国際的なコーヒー研究機関であるWorld Coffee Research と協業して、トアルコ トラジャの自社農園の一部で国際品種栽培試験を行い、気候変動に対応できるコーヒーの発掘や、品種改良、土壌改良の仕方などについて研究を進めています。なんとかコーヒーの未来を守りたいですね。
知花 気候変動に対応する品種を見つけるのはやっぱり難しいことなんですか?
柴田 難しいですね。一年草だったら早く種ができて改良が進めやすいのですが、コーヒーは多年草で、植えてから数年経たないと実がなりませんから時間がかかるんです。コーヒーベルトの外で栽培する試みもあるんですが、標高が低かったり、木が台風に負けてしまったりと、なかなかうまくいきません。ですから、品種改良をしたものをコーヒーベルトの中で根付かせる方が効率的だと考えています。
知花 日本国内で力を注いでいるプロジェクトはありますか。
柴田 コーヒーを通じた地域振興をしたいと考えています。例えば、全国でカフェを開きたいという人に向けて「キーズカフェ」というシンプルな開業・運営パッケージを提供しています。これを使ってオープンしたカフェが全国で七五カ所(二〇二一年五月時点)あります。キーコーヒーのツールを使って店舗運営していただくのですが、メニューに関する自由度も高く、土地の産物を使ったフードを出してもいい。いわゆるフランチャイズではありません。実際、キーズカフェを開業した後、周りにさまざまな店舗が出店して人が集まっている例もあり、地域振興のお手伝いになっていると思います。

コーヒー好きが集う場所を提供したい

知花 素晴らしいですね。一〇〇年後、キーコーヒーはどんな会社になっているでしょう。
柴田 もっと簡単にコーヒーを楽しむための商品やサービスを提供できていたらいいですね。例えば、朝起きた時に腕時計のようなものから操作すると「お気に入りのコーヒー」が自動的に淹れられるとか。一方で、手間暇を楽しみながら自分でじっくりとコーヒーを淹れる、そういう習慣も残していきたいです。キーコーヒーでは焙煎体験ができる店舗もあるんですが、淹れ方を教わるだけでなく、コーヒー好きの人が語り合ったり、産地とつながったりできる場所を提供していきたいです。
武田 長年コーヒー文化を牽引される存在で、創業者は喜んでいらっしゃるでしょうね。
柴田 そうだといいですね。もちろん、日本のコーヒー文化は私たちだけでなく、喫茶店、ファストフード、コンビニエンスストアなどさまざまな形態のビジネスが存在してここまで広がりました。それでもまだ日本人一人が飲む量は、平均で一日一杯あるかないか、という程度なんです。北欧だと一人一日四〜五杯は飲みますから。コーヒーの楽しみ方を提案しながら、消費量をもっと高めていきたいですね。

会社情報
キーコーヒー株式会社

ゲスト

柴田 裕(しばた・ゆたか)

1964年横浜生まれ。大学卒業後、キーコーヒー入社。購買、営業、経営企画などの部署を経て、上場プロジェクトに参加。東証一部上場を実現。その後、慶應義塾大学大学院経営管理研究科(MBA課程)修了。2002年、4代目社長に就任。老舗喫茶店の「アマンド」をグループにするなど、事業の拡大に貢献。