100年後も食で人々を幸せに
キユーピー株式会社
<ゲスト>取締役上席執行役員 コーポレート担当兼経営推進本部長 山本信一郎さん
※2023年 収録
日本で初めてマヨネーズを製造・販売してからまもなく100年。
受け継がれてきたのは、同志と働く悦びを尊ぶ創始者の精神と正しく商品をつくり、正直に伝える姿勢でした。
知花 キユーピー株式会社は、いうまでもなく、マヨネーズで知られる会社です。まずは、会社の成り立ちから教えていただけますか。
山本 創始者は中島董一郎(なかしまとういちろう)といいます。1883年に愛知県で生まれ、10歳で上京、泳ぐことや船を漕ぐことが好きで今の東京海洋大学である水産講習所に入り、卒業後の26歳の頃に「缶詰卸商」という会社に入りました。在職中の29歳の時、農商務省の海外実業練習生に選ばれて海外に勉強に行き、イギリスでオレンジママレード、アメリカでポテトサラダに使われているマヨネーズに出合って、そのおいしさや栄養価の高さに魅了されたそうです。
知花 海外にはどれくらい行かれていたのでしょう。
山本 4年ほどのようですね。帰国後、しばらく同じ会社で仕事をしますが、1918年に、缶詰の仲次業、海外でいうブローカーのような仕事で独立し、さらに1年後の1919年に、キユーピーの前身となる食品工業株式会社を友人と一緒に立ち上げました。社名がキユーピー株式会社となったのは1957年です。
食の洋風化を感知してマヨネーズ販売を開始
知花 マヨネーズとの出合いは海外だったんですね。
山本 はい、1915年11月と聞いていますから、帰国するくらいの年でしょう。アメリカのシアトルの近くにある工場で、大正天皇の御即位の大典を仲間たちと祝う会があり、そこで食べたごちそうの1つが、缶詰のサケをほぐしたものと刻んだタマネギをマヨネーズであえた料理だったそうです。
武田 それ、絶対おいしいですよ。
山本 そう思いますね(笑)。そこでまずマヨネーズに興味を持ったそうですが、同じ時期に、サンフランシスコで行われたパナマ運河開通記念博覧会の食堂で、今度はポテトサラダを食べ、ますますマヨネーズへの興味を深めたようです。マヨネーズは卵と酢と油を混ぜたものですが、もともと日本の料理には卵と酢からつくる黄身酢がありますから、日本人の口にも合うと思ったのだと思います。
知花 日本初のマヨネーズ「キユーピー マヨネーズ」を発売されたのが、創業から6年後の1925年。その2年前の1923年には関東大震災がありましたよね。日本の社会や風景が大きく変わっていくタイミングだったのではないでしょうか。
山本 そうですね。震災の被害から復興していく東京の変化を見ていて、董一郎はいよいよマヨネーズをつくってもいいのではないかと思ったようです。女学生がはかま姿から洋装に変わり、ビルが建ち始め、人が住む場所が郊外に移っていく。こうした変化とともに、食も洋風化していくだろうと感じ、マヨネーズの販売を決心したのでしょう。
同志と悦びをともにすることが仕事のやりがい
知花 創始者の中島董一郎さんは、どのような思いを持っていらした方だったんですか?
山本 創始者の思いは、キユーピーが経営理念として大切にしている社是社訓に受け継がれています。その1つが、「志を同じくする人と仕事を楽しんで悦びをともにする。そこに仕事のやりがいがある」という意味の「楽業偕悦(らくぎょうかいえつ)」です。
知花 どうしてそうした思いを持つに至ったのでしょうか。
山本 創業から長い間、同じ仲間たちと仕事をし、マヨネーズの販売も少しずつ軌道に乗っていたようですが、1941年に太平洋戦争があり、1943年から5年間、マヨネーズも製造中止を余儀なくされました。
武田 5年は長いですね。
山本 戦後、製造再開に向けて努力はしたようですが、当然のことながら物資不足で原料が足りません。原料を仕入れるには闇取引もやむなしという時代でしたが、董一郎には「良い商品は良い原料からしか生まれない」という強い信念とともに、法に背くことはしたくないという思いがあった。ただ、社員には当然生活があります。どんな原料でもつくりたい人もいたわけで、辞める社員も結構いたようです。
武田 葛藤があったでしょうね。
山本 何十年も一緒に仕事をしてきた仲間の気持ちもわかるけれど、自分の思いがなかなか理解されないことに寂しさも感じていたのでしょう。「会社というものは大きいだけが貴いのではない」「本当の仕事の楽しみは、志を同じくする人が共通の目的を持って、心を合わせて協力する時に初めて味わえる」という言葉が当時のものとして残っています。そうした思いが「楽業偕悦」という言葉に凝縮されているのだと思いますね。
マヨネーズの歴史は酸素との戦い
知花 キユーピーさんは、2025年に、マヨネーズ発売から100年を迎えられます。この長い歴史の中で転機になる出来事といえば、どのようなことが挙げられますか。
山本 ポリボトルの開発ですね。今も瓶タイプは残っていますが、マヨネーズが普及する最大のきっかけになったのが、チューブ入りのものでした。スプーンですくってつける瓶から、そのままかけられるチューブになって、使い勝手がすごく良くなりました。量産が進めば値段は下がりますから、それでさらに普及したと聞いています。
武田 デザインはどうですか?
山本 現在のパッケージにも赤い網目が施されていますが、このデザインになったのが、チューブタイプに切り替わった時です。当時、銀座にできたおしゃれな洋食店のテーブルクロスが赤と白の格子の網目で、それを見たデザイナーが、これから食は洋風化していくからこれがいいと言って。それで1958年からずっとこのパッケージです。
知花 シンプルだけど、まさに「これぞキユーピー!」という感じですよね。でも、商品の開発にはご苦労もあったでしょうね。
山本 マヨネーズは卵と油と酢を組み合わせたシンプルなもので、非常に酸素に弱い。つまり酸化しやすいということです。酢が入っているので腐ったりはしませんが、酸化すると味が落ちる。瓶に比べてチューブは空気を通しやすいので、製造過程では酸素をいかに抜くかが課題になります。
知花 容器の口部にシールが付いていますよね。
山本 このアルミシールも酸素を遮断する工夫です。容器ギリギリまでマヨネーズを詰めることはできないので口の部分のスペースの空気を窒素置換したり、ボトルを多層構造にしたり、ほかにもさまざまな工夫でできるだけ空気を通さないようにしています。
武田 マヨネーズの歴史は酸素との戦いですね。
山本 効果が大きかったのは、2002年に開発した「おいしさロングラン製法」ですね。油の中には水の5倍ほどの酸素が溶け込んでいますが、油の中に窒素を吹き込むことでこの酸素を飛ばすのです。この製法により、それまで7ヵ月だった賞味期間が10ヵ月に延びました。さらに製造工程で酸素を減らす取り組みを進め、今はボトルでも賞味期間は12ヵ月になっています。ただ開封すると酸素が入ってしまうので、メーカーとしては1ヵ月くらいのおいしい間に召し上がっていただきたいなと思っています。
食文化の変化とともに味はマイルドに
知花 マヨネーズの味自体も進化しているのでしょうか。
山本 マヨネーズの味の決め手は、やはりお酢。発売当初は、米酢とか穀物酢などの和酢を使っていたのですが、マヨネーズは洋風の調味料なのでモルトやリンゴを使った洋風酢でマヨネーズをつくりたいという思いがあり、1962年、自分たちでお酢をつくる会社をつくりました。現在のキユーピー醸造です。お酢を変えたのが、味における1つの大きな転機になっていると思います。
知花 会社までつくられた! お酢の酸っぱさは個人差や体調による違いが大きいですよね。
山本 味の調整はずっと続けています。食シーンの変化とともにマイルドになっていますね。
武田 最初は酢が強めだったということですか?
山本 当初は、缶詰のサケやカニに合う仕立てでしたが、1964年の東京オリンピックの頃から日本の食卓で生野菜が食べられるようになり、キャベツなどにも使われるようになりました。70年代になり、ちゃぶ台がダイニングテーブルに代わるなど、暮らしの洋風化に拍車がかかる中で、グリーンサラダの主役がキャベツからレタスに変わっていきます。レタスはキャベツに比べて味が薄く、サケ缶に合わせていたマヨネーズでは少し味が重たい。酸味を目立たせないよう試行錯誤しながら調整していったそうです。
創始者の中島董一郎。アメリカでマヨネーズと出合い、キユーピー株式会社の前身となる「食品工業」を立ち上げる。
発売初期の「キユーピー マヨネーズ」は瓶詰め。
マヨネーズ普及の転機になったのはポリボトル容器の使用だった。同時期に採用したのが、洋食レストランのクロスから発想した赤の格子柄のパッケージ。このデザインは今も継続されている。
マヨネーズづくりの歴史は、酸素との戦いでもあった。口部に貼られたアルミシールも酸化防止に重要な役割を果たす。
広告の考え方の核にあるのは「一貫性と継続」。マヨネーズではなく常に野菜を主役にしてきたブランド広告は消費者に強い印象を与えてきた。
上/ 2004年 あえるパスタソース たらこ「たらこキユーピー行進」篇。
下/ 2024年 キユーピー マヨネーズ「レタス」篇
マヨネーズの登場しないCM
知花 山本さんは、1985年にキユーピーに入社され、19年半、営業部門で活躍された後、18年間、広告宣伝を担われ、グループ会社のトウ・アドキユーピー代表取締役社長を経て現職になられました。長いキャリアの中で印象に残っていることはありますか?
山本 私が広告宣伝の部門に移った当時、担当は4人だったのですが、創始者の董一郎、2代目の雄一と、代々オーナーがしっかり広告宣伝を見ていました。僕も2代目の雄一から4年間、マンツーマンに近いかたちで指導を受けましたね。
武田 董一郎さんの息子さんから直接薫陶を受けたということですか?
山本 そうです。もともとマヨネーズは日本の食文化にないものでしたから、当然のことながら発売当初は知らない人が多い。だから、最初から広告にはだいぶ力を入れていたのです。売り上げと同じくらいの予算を広告にかけたこともあります。ほかの社員は心配したでしょうね。売れなかったらどうするんですかっていう話ですから。
卵を使わない調味料や大豆ベースの食品も
知花 キユーピーさんが今、力を入れているのはどのようなことですか?
山本 2030年にどうありたいかをまとめた「キユーピーグループ2030ビジョン」を2018年に策定し、3つの姿を目指した取り組みを進めています。それが、業界の発展、市場拡大を牽引する「サラダとタマゴのリーディングカンパニー」、食の多様化が進む中、お客様一人ひとりの食に向き合い、パーソナライズされた商品や情報やサービスを提供する「一人ひとりの食のパートナー」、子どもたちが元気に暮らせる明るい未来をつくる「子どもの笑顔のサポーター」です。
知花 SDGsやサステナビリティに関する取り組みもされているようですね。
山本 2023年3月に、健康志向の高まりや環境配慮のニーズに寄り添うため、プラントベースフードの新しいブランド「GREEN KEWPIE」を立ち上げました。第1弾として、国内向けにドレッシングを2品発売しています。
武田 プラントベースというと植物性ということですか?
山本 はい、動物性のものを一切使わない食品です。食料に関してはこれからさまざまな問題が起きるでしょう。こうした食料問題の解決に取り組むべく、立ち上げました。
武田 卵でマヨネーズをつくってこられた会社が植物性の食品をつくるわけですね。
山本 これまで、マヨネーズの大切な原料として卵に取り組んできましたが、未来の世界を考えれば変えていくべきこともあるし、卵はアレルギーの原因となることがあり、食べられない人もいます。卵アレルギーの人にもマヨネーズを味わっていただきたいという思いで、卵を使わない「エッグケア」というマヨネーズタイプの調味料や、大豆をベースにした「HOBOTAMA」という卵代替食品も販売しています。
知花 100年後の未来、キユーピーはどんな会社になっていると思いますか。または、どんな会社になっていてほしいですか。
山本 100年前、私たちの食卓にサラダはありませんでした。100年後を考えても、「今の延長線上」と言う人もいれば、「まったく現在とは続いていない」と言う人もいる。自分が想像できない世界になっているとは思いますが、よくわかりません。唯一はっきりしているのは、食の大切さだけは100年後も変わらないだろうということ。「食は人を幸せにできる」という考えを核に、一人ひとりの健康な食生活をしっかりデザインする。その思いを持って、心と体と未来に笑顔をお届けできるキユーピー、食卓を大切にするキユーピーであり続けたいと思っています。
会社情報
キユーピー株式会社
ゲスト
山本信一郎(やまもと・しんいちろう)
1985年キユーピー株式会社入社。19年間営業職に従事したのち、広告宣伝に移り18年以上、キユーピーブランドや商品の広告に携わってきた。2010年にトウ・アドキユーピー代表取締役社長に就任し、「キユーピー マヨネーズ ファンクラブ」のオンラインコミュニティを開設。2022年6月キユーピー株式会社上席執行役員。2023年2月取締役コーポレート担当、2024年2月より取締役上席執行役員 コーポレート担当兼経営推進本部長。