JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

  1. HOME
  2. 企業の遺伝子
  3. 株式会社河内源一郎商店
  4. 日本の財産「麹」で世の中を変える

企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

日本の財産「麹」で世の中を変える

河内源一郎商店

<ゲスト>四代目 河内源一郎/医師 山元文晴さん

※2022年収録

〝麹の神様〞が生んだ国菌「河内菌」を代々守りながら酒造りにとどまらない麹の秘めたパワーを解き明かし医療や畜産など多様な分野での実用化に挑戦しています。

知花 河内源一郎商店は国内に五社しかない麹の元「種麹」を製造販売する会社で、日本の焼酎メーカーの約八割が河内源一郎商店の種麹を使っているそうです。まずは会社の成り立ちから教えていただけますか。
山元 創業者の初代河内源一郎は日本の「国菌」として認定されている「河内菌白麹」と「河内菌黒麹」を分離・培養した人で、「麹の神様」と呼ばれています。一九三一年に大蔵省を退官し、四八歳の時に鹿児島市清水町で麹菌を製造販売する河内源一郎商店を創業。二〇二二年で創業九一年になります。

お役人時代、焼酎から税収を得るため泡盛の麹に着目

山元 初代は広島の味噌・醤油屋の長男だったので、発酵には興味があったそうですね。でも家業が傾き、経営を助けるため一九〇九年に大蔵省の税務監督局技官になりました。当時、税収の半分ぐらいは酒税でしたが、日本酒と違って焼酎は製造が安定していなかったため、初代は上官から「おまえの家は醸造をしているんだから、鹿児島で焼酎の製造指導をして税収を上げてこい」と指示されたそうです。それで鹿児島へ行ったのですが、杜氏さんたちからは相手にされなかった。
武田 初代が本格的に麹を研究し始めたのはそれがきっかけでしょうか。
山元 はい。焼酎の製造が安定しない理由を探るために焼酎蔵を見て回ると、日本酒と同じ麹菌「黄麹」を使っていることに気付きました。黄麹は新潟などの北の方でつくられているので、寒い地方で醸造される日本酒には合いますが、鹿児島のような暑い気候では「もろみ」が腐ってしまうので、味が安定しない。そこで、沖縄の泡盛に目をつけたんです。
知花 出ました、沖縄。
山元 沖縄は年中暑いのに泡盛は腐らず味も安定している。だから使っている菌が違うんじゃないかと思って沖縄に行って確かめると、「黒麹」が使われていたんです。それを持ち帰って焼酎を造ってみると味が安定したので、さらに焼酎特有の香りを引き出すために泡盛の菌を分離・培養して試行錯誤の末に完成したのが「河内菌黒麹」です。
武田 焼酎のラベルでよく見かける「黒○○」って、もしかして「黒麹」の黒ですか?
山元 おっしゃる通りで、「黒霧島」もそのひとつです。

家財道具より麹が大事。語り継がれる初代の麹愛

知花 初代河内源一郎さんはどんな方だったんですか?
山元 麹に人生を懸けた人で、単純におもしろいからのめり込んでいったようです。人柄はものすごく温厚でしたが、麹を触っている時は誰が声を掛けても返事が返ってこなかったと。当時は培養器なんてなくて、三五〜三六度の体温くらいの環境が麹にとって増殖しやすいから、いつもお腹に巻いた晒しの中に試験管やシャーレを入れていたようですね。鹿児島は昭和二〇年に空襲が八回あって工場は全焼しましたが、菌は全部防空壕まで抱えて逃げたので無事でした。初代にとっては家財道具より菌が大事。
知花 すごい熱意ですね。
山元 六六歳の時に突然亡くなったんですが、白装束に着替える時に服を脱がせたら、やっぱり晒しの中から麹が入ったシャーレが出てきたそうです(笑)。
知花 河内源一郎商店の長い歴史の中で転機となる出来事はありましたか?
山元 初代からの代替わりでしょうね。初代が亡くなった時、息子さんも親戚ももともと継ぐ意志がなかったので誰も麹のつくり方を知らなかったんです。ですから河内源一郎の麹は途絶えるはずだったのですが、私の祖父・山元正明が二代目を引き継ぐことになったんです。戦時中、海軍の技術士官だった祖父は、麹の発酵でアルコールをつくって飛行機を飛ばそうと考え、鹿児島の麹造りの大家である河内源一郎のところを訪ねました。
武田 アルコールで飛行機は飛ぶんですか?
山元 飛ぶらしいのですが、燃費がすごく悪かったそうですね。祖父が初代に教えを乞うてまもなく戦争が終わりましたが、その縁もあって、祖父は河内源一郎の娘と結婚しました。すぐに初代が亡くなり、お腹に巻いていた「種麹」だけが残された。その種麹は分離されたもので、培養させなければ麹も会社も続きません。そこで、戦時中にアルコールをつくるために発酵を学んでいた祖父が継ぐことを決意し、三年で培養にこぎつけました。

麹造りの機械化に成功。第二次焼酎ブームの火付役に

知花 ものすごく苦労されたんでしょうね。
山元 そうですね。でも二代目は完成形がわかっていたので、温度をさまざま試して、なんとか成功させたそうです。さらに二代目がすごかったのは、その後に「職人の技」を機械化したところですね。麹造りは、たった〇. 一度の差ができ上がりに大きく影響します。だからお米の蒸し方から温度管理まで、すべて職人頼りでした。それをもっと安定してつくることができたら鹿児島県の、そして全国の蔵元の役に立てると考え、機械化にトライしたみたいです。自分でも鉄工場を開業して、ステンレスの板をがんがんたたきながら曲げたり、溶接をジューっとやったりして、機械の製造を模索したそうです。
武田 もともと、海軍の技師だから何でもできるんでしょうね。
山元 はい、十年かけて河内式ドラム型自動製麹(せいきく)装置を完成させました。河内式の開発により中小規模の蔵元も装置が手に入れやすくなり、鹿児島から全国に機械化が広がって第二次焼酎ブームが起きました。
知花 麹と焼酎の伝承に大きく貢献されたんですね。
山元 それまで、米を蒸す時は鍋のお湯に火をかけて下からの蒸気をあてるのが一般的でしたが、河内式ドラム型自動製麹装置では、米を密封し、ボイラーで蒸気を上から下へ送ることで熱を満遍なく行き渡らせるという今の炊飯器の原理にもなっている手法を採用しました。
武田 画期的な自動製麹装置は需要があったでしょうね。
山元 飛ぶように売れたそうです。昭和五〇年代のNHK紅白歌合戦に、各業界で貢献した人として二代目が審査員に呼ばれましたから。
知花 研究熱心な二代目ですが、経営に対してはどういうお考えでしたか?
山元 二代目は、地元・鹿児島県の焼酎の発展で十分、それ以上事業の拡大はしなくていいという考えでしたね。一方で、私の父にあたる三代目は東京大学農学部卒で、焼酎にとどまらない麹の可能性に着目していましたから、日本中に河内源一郎商店を広めようとしました。
武田 親子で麹に夢中なのは同じだけど、方向性が違ったんですね。
山元 おっしゃる通りです。それで二代目は、三代目に対して、「そんなことを言うなら社長をやってみろ」と河内源一郎商店が持っていた酒造メーカーの「錦灘酒造」を任せました。麹を製造する会社がつくるお酒はネームバリューがあるからはじめは売れたのですが、やっかみや妨害がひどくなって、三代目が錦灘酒造を継いだときは大赤字を抱えていました。そこで、会社が鹿児島空港のそばにあるという立地を生かして、当時珍しい観光型の焼酎工場をつくることを思いつき、担保なしで八億円の借金をしました。

観光型工場の集客のため、胴着と袴姿で全国行脚

知花 担保なしで八億も貸してくれるところがあったのですね。
山元 地元の地銀にも信用金庫にも断られて、もうダメだと地元のバーで飲んでいたら、たまたま隣に座った人が地銀の支店長だったとか。でも、八億という巨額は支店長では決裁できませんから、副頭取に掛け合ってくれることになって。父は「これでダメならもう俺は終わりだ」と崖っぷちでしたが、熱意を伝えると融資してもらえることになったようです。それからは、三日三晩寝ずに空港周辺の地主を説得しに回り、住宅地域にもかかわらず工場建設が実現しました。
武田 三代目もすごい熱意の持ち主ですね。開業後は観光客がたくさん来たのでしょうか?
山元 いえ、名前も知らない酒造メーカーの工場に観光客は来ませんでした。旅行会社に営業をかけてもうまくいかない。そこで、三代目は胴着と袴で営業に出向くことにしました。
武田 胴着と袴ですか?
山元 はい(笑)。鹿児島に昔から伝わる「自顕流」という剣法があります。明治維新の頃に薩摩藩で伝わったもので、「キエー」と叫びながら刃渡り二〜三メートルの大剣で甲冑ごとたたき割るので、新選組すら恐れていたと言われています。それを営業時に披露しようと、東京、大阪、愛知を胴着と袴で回ったんですね。かなりユニークですが、「麹を広めたい」「会社を守りたい」という一心だったんだと思います。
武田 一撃に全身全霊をかける、まさに「自顕流」の営業スタイルだ。それで、営業先ではお話を聞いてもらえるようになったのでしょうか?
山元 胴着と袴で旅行代理店に行っても簡単には入れてもらえないのですが、そんな姿の人が長時間待ちぼうけを食っていると目立つので「困るから入ってくれ」となるわけです。ちょうどバブル期の終わりで、まだバスツアーが流行っていましたし、一風変わった営業スタイルが興味をひき、代理店の方たちに話を聞いてもらえるようになったそうです。

国菌「河内菌」を生んだ麹の神様、初代河内源一郎。初代の突然死により絶えかけた河内菌を蘇らせ、麹造りの機械化に尽力した二代目(山元正明)。二代目が開発した河内式自動製麴装置により第二次焼酎ブームが巻き起こる。三代目が開発した茶麹は男性不妊改善への効果が期待されている。日本でしか存在が認められない微生物「麹菌」は多様な力を秘めている。写真左は黒麹菌の姿。

微生物の可能性に気付き、医療から麹造りの道へ

知花 さて、四代目となる山元文晴さんは東京慈恵会医科大学医学部をご卒業され、心臓血管外科、消化器外科でドクターをされていました。とても興味深いキャリアですが、なぜお医者さんになられたんですか。
山元 継ぐ気がさらさらなかったんです。麹は親子喧嘩のもとになるので大嫌いでした。子どもの頃から勉強はたくさんさせてもらったし理系が好きでしたから、自然と医者を目指しましたね。研修医時代は、離島の甑島(こしきじま)で過ごしました。島民が少なくて、救急車が出動すれば必ず私のいる診療所に患者さんが運ばれてくる。非常にやりがいを感じて将来も僻地医療に携わりたいと思っていましたので、麹なんてみじんも頭にありませんでした。
知花 そこから、どうして四代目を継ぐことになったんですか?
山元 二〇一四年頃に三代目が鹿児島のお茶に麹を生やした「茶麹」という健康食品をつくったんです。それがすごく体に良いから、私が消化器外科で担当するがん患者さんに試してみてと言うのです。当然、倫理委員会に通さずに勝手に医者から患者さんに勧めることはできませんからとりあいませんでしたが、仲のいい患者さんに試したいとおっしゃる方が複数いて、状態も安定していたため、飲んで経過を診ることにしました。そしたら、抗がん剤の副作用が楽になり食欲が戻ったんです。リンパ球の数は変わりませんでしたが、患者さんにとって、ごはんがおいしくなったのが大きくて。
知花 QOLの向上は闘病にはとても大事なことですもんね。
山元 はい。それで麹に興味を持ち始めました。麹菌はアスペルギルスというカビの一種なのですが、医療界でアスペルギルスといえば肺炎を引き起こすというのが一般的な認識なんです。父につい「麹っておもしろいね」って話したら「臨床医をやめて、大学院へ行って博士号を取れ、麹の研究をしよう」と言い出して。勘弁してくれと本気で思いました(笑)。でも、それから父が何度も電話してきて「いつ大学院に行くんだ」と迫ってくるわけです。ある時、その言葉の裏側に「帰ってきてほしい」っていう思いが見えたんですよね。努力もせず継がなかったらきっと後悔すると思って戻ることを決めました。
知花 戻る決意をされてから、まず何をされたんですか。新天地ですよね。
山元 錦灘酒造に所属した上で、二〇一六年に東海大学大学院の医学研究科に入学して、麹菌の研究を始めました。でも、麹菌って海外ではほとんど知られていませんし、先行研究やデータが少なくて、参考にできるものがあまりなかったんです。そこで「アスペルギルスの中で、唯一有効活用されている麹菌の健康効果を明らかにする」という主旨で研究を始め、倫理委員会をしっかりと通して臨床試験をし、有意な結果が出て動物実験で補完しながら論文を書きました。博士号を取得したのが、二〇二〇年三月です。

DNAは「麹で世の中を変える」という気概

知花 着々と麹の世界に入っていったんですね。御社では創業時からさまざまなことが受け継がれてきたと思いますが、これぞDNAだと感じるものはありますか?
山元 「世の中を変えたい」という気持ちですよね。私たちにとってそのためのツールは麹しかないんだと、四代全員が強く思っているんです。初代は新しい麹を発見して、その普及に尽力しました。二代目は麹の復活と機械化に貢献し、三代目は麹の可能性を信じて世に広めてきた。初代は「麹の力はこんなもんじゃない」という言葉を残し、それを全員が強く感じている。僕自身も麹は医療にも使えるはずだと根拠のない自信を持っています。
知花 今、力を入れていることはやはり医療への実用化でしょうか?
山元 はい。具体的に進んでいるのは、不妊治療への貢献です。精子の奇形に関する研究が進んでいる北里大学では、茶麹が男性不妊改善に効果があるという研究結果を学会で発表しました。次は、麹に含まれるどの成分に効果が見られるのか追究するステージに移っています。
知花 麹菌の可能性は大きいですね。
山元 個人的には別の医大と提携し、傷薬の研究を進めています。実は蔵元の杜氏たちは傷の治りがすごく早くて、麹のおかげという実感があるんです。そのメカニズムを解き明かして傷薬にできたらと頑張っています。それから畜産へも活用されています。餌に麹を少し混ぜると家畜の体重が増えるスピードが上がって、早く出荷できるんですよ。
武田 それは驚きです。畜産への実用化はどのくらい進んでいるのでしょうか?
山元 すでに南九州を中心にたくさんの畜産業者さんが麹を活用されていて、実は当社の麹は、蔵元より畜産業からの方が売り上げが多くなっています。麹を餌に混ぜるようになって、家畜が元気で毛艶も良くなったという声をいただいていますね。今後は、麹の効果に関するビッグデータが得られるようになればと願っています。データを活用して、麹が効果を発揮する条件だけでなく発揮しない条件も分析した上で、腸内環境や免疫系統など医療への応用を探りたい。麹を使った医薬品開発は現実的な夢になっています。
知花 河内源一郎商店は、麹について勉強できる場づくりにも力を入れていると聞きました。
山元 二〇二一年に「麹ソムリエ協会」を立ち上げて、「and 麹」というサイトで麹に関する情報発信をしています。今後は学びの場や、麹ソムリエの資格制度もつくりたいです。
知花 今日、麹の可能性を知って、ぜひ私も学んでみたいと思いました。では最後の質問です。一〇〇年後の未来、河内源一郎商店はどんな会社になっているでしょう?
山元 日本の皆さんに「麹といえば河内源一郎商店」と言ってもらえる企業になりたいです。
そして世界の方々にも麹の存在を知っていただき、「日本は麹があっていいよね」なんて言われたいですね。麹は日本の素晴らしい財産です。可能性をさらに解明し、活用法を探り、世の中を幸せにする一助になりたいです。

会社情報
株式会社河内源一郎商店

ゲスト

山元文晴(やまもと・ぶんせい)

河内源一郎商店の四代目/医師。東京慈恵会医科大学医学部卒業後、鹿児島大学病院で心臓血管外科、消化器外科を専門として従事。患者さんに向き合う中で医療における麹の可能性に気づき、2016年に錦灘酒造株式会社(現きりしま高原麦酒株式会社)、河内源一郎商店に入社。東海大学大学院医学研究科先端医科学専攻博士課程を修了、医学博士号を取得し、現在に至る。麹が体に及ぼす働きの臨床例を増やすため、研究中。2023年5月、グループ企業である株式会社源麹研究所(麹を使った飼料製造の会社)の社長に就任。