タニタで学んだ経営や人材教育を伝える
ヘルスケアオンライン株式会社
<ゲスト>代表取締役 谷田昭吾さん
※2023年 収録
人材教育や経営指導が専門のヘルスケアオンライン。
祖父から父へ、父から子へと受け継がれてきた谷田家の経営と人づくりの系譜をひもときます。
知花 谷田昭吾さんは、健康器具の製造で世界をリードする、タニタの創業ファミリーのご出身でいらっしゃいます。お名前はタニダと濁るんですね。
谷田 そうです。企業名としてはタニタのほうが響きがよく、書いてもバランスが取れていて計測器を扱う会社向けだというので、タニタが社名になったと聞いています。
知花 谷田さんが社長を務めるヘルスケアオンラインは、どのように始まったのですか。
谷田 僕はもともとタニタで新規事業や新会社の立ち上げをやっていました。体重計とか歩数計、血圧計とかのデータを集め、管理栄養士さんや他の健康測定機器メーカーとも協働できる、ヘルスケアのためのオープンプラットフォームをつくろうと立ち上げたのが、ヘルスケアオンラインです。
一族の歴史はシガレットケースから始まった
知花 ヘルスケアのためのプラットフォームづくりと、現在の人材育成のお仕事とは、どう結びつくんですか。
谷田 ヘルスケアについては、健康アプリやダイエットアプリで、App Store の1位になったりもしたんですが、そこから先が見えてこない。どう進んだものかと考えていた時、タニタやその経営について話をしてほしいと、講演のお声がかかったんです。そこから経営や人材関係の講演会や、企業研修を行うようになり、今に至っています。
知花 皆さんタニタの経営に関心があったんですね。そのタニタの始まりは?
谷田 1923年に谷田賀良倶(たにだかろく)が、シガレットケースや貴金属宝飾品などを製造販売する商店を、浅草で創業しました。そして戦時下の1944年に谷田無線電機製作所ができて、賀良倶の弟で私の祖父の谷田五八士(たにだいわじ)が社長に就任しています。これが今のタニタの前身です。
武田 最初は無線電機製作所だったんですか。
知花 軍用品にもなる通信機器の製造販売って、おじいさまの気持ちとしては、どうだったんでしょう。
谷田 あの時代はそれしかなかったのでしょう。戦後はまた、最初にやっていたシガレットケースの製造を再開しています。手元に一つだけ残しておいたシガレットケースの金型を使ったと聞いています。
知花 戦争中、金物は根こそぎ供出させられたけど……。
谷田 ええ、1個だけ保管しておいたんです。もしそれが残っていなければ、今のタニタはなかったかもと思うと、不思議な気がします。しかも喫煙具から始めて、今では禁煙どころか、健康増進企業として成長したわけですからおもしろいものです。
時代の変化を先取りした祖父・五八士
知花 タニタがヘルスメーターの製造を手掛けるようになったのは、いつ頃、どんなきっかけからですか。
谷田 ヘルスメーターの製造は、1959年に開始しています。
知花 それ以前は?
谷田 事業の一本目の柱として、1945年からシガレットケースを、2本目の柱として、OEMのトースター製造を1953年にスタート。そして3本目の柱であるヘルスメーターをつくるようになったのが、1959年です。
知花 3本の矢ではなくて、3本の柱。
谷田 創業者である祖父の五八士は、経営は3本の柱でするようにとよく言っていました。柱となる事業が3つあれば、もし2本まで柱が折れても、残る1本で経営していけると考えたのです。リスク分散っていうのを、すごく重視した経営者でした。
武田 3本の柱の一つとして、トースターもつくっていたんですね。
谷田 トースターとオーブントースターを、OEMでつくっていました。
知花 3本柱は、なぜこの3つの製品だったんですか。
谷田 3つには共通点があったんです。何だと思いますか。
知花 さあ、何でしょう?
谷田 3つとも、戦後日本のライフスタイルの変化を見越した商品なんです。
知花 なるほど!
谷田 これからは外国タバコがどんどん入ってくるだろうから、ライターがもっと必要になる。パン食も広がるはずだから、トースターが売れるだろう。欧米のホテルや家では、バスルームに1台は体重計が置かれている。日本でも風呂つきの家が増えれば、欧米と同じように体重計を使う人が増えるんじゃないか。
知花 先見の明ですね。
谷田 そのために海外視察もしたそうです。欧米の家庭にあるもので、何か自分たちが手掛けられるものはないかと探しまわり、体重計を見つけて持ち帰ったんです。
武田 体重計をヘルスメーターと呼んだのも、たしかタニタですよね。
谷田 祖父・五八士の造語です。アメリカではスケールと呼ぶのが一般的だと思います。ヘルスメーターは日本だけ。
武田 体重は健康のバロメーター、ということですね。
谷田 早い時期から、健康というキーワードに注目していたのでしょうね。
兄弟が結束して事業を拡大
知花 おじいさまの五八士さんって、どんな方だったんですか。
谷田 丁稚奉公で大阪に出てきて、苦労しながら兄弟で助け合って事業を興した人です。お墓には忍耐という言葉が書かれていますよ。
知花 五八士さんには、お子さんが5人いらしたんですよね。
谷田 男4人と、その下に女の子が1人いました。うちの父は四男坊です。男4人は全員、当時はまだ珍しかった海外留学を経験しています。
知花 4人全員! 皆さん、アメリカ留学ですか?
谷田 長男はアメリカ、次男は中国、三男がドイツで、四男はまたアメリカ。1ヵ国に集中するのではなく、息子たちをいろいろな国に送り出すというのも、リスクを分散しバランスを考える祖父らしいと思います。
武田 投資家目線ですよね。
谷田 そうです。息子たちの留学先も、将来への投資という視点で考えたのかもしれませんね。根っからのビジネスマンでした。
知花 五八士さんの後継者は、どのように決めたのですか。
谷田 話し合いをして、長男がタニタハウジングウェアの社長に、四男である私の父が、タニタの社長に抜擢されました。次男と三男は父の下で、事業を支えることになったんです。弟のサポート役というのは、複雑な気持ちだったんじゃないかなと、僕としては思いますよね。
知花 たしかに、ちょっとモヤっとしそう。
谷田 3年ほど前、五八士の妻である祖母の手紙が出てきたんです。父に宛てた手紙でした。父が兄である三男に、何かぶしつけなことを言ったらしく、祖母は手紙の中で「ちゃんと謝ってケアしなさい」と父を諭していました。それを読んで、そうか、祖父だけが経営を担っていたわけじゃないんだと思いました。家族の調和を保ち、団結して事業を大きくしていけるよう、おばあちゃんも心を砕いていたことが、垣間見えた気がします。
どん底から世界一へと会社を導いた父
知花 タニタはその後、体脂肪計で世界一の企業となっていきます。この成功を導いたのが、お父さまの谷田大輔さんですね。どのようにタニタを成長させてこられたのでしょうか。
谷田 ポイントは3つあります。ひとつはビジョン。実はタニタにも、四期連続赤字、累損2億円以上、このままでは会社が潰れてしまうぞという、厳しい時代がありました。ところが父はそのどん底で、わが社は世界一を目指すと宣言したんです。
知花 逆境の時にそんなことができるって、ただものじゃない。
谷田 2つめはコンセプト。体重計メーカーとしては、精度や耐久性ばかり気になります。でも父は、「どうすれば体重を落とせるか」というお客さんの悩みに意識を向けたのです。
知花 体重は、健康やライフスタイルにも関わりますからね。
谷田 そうですよね。それで1990年に、ベストウェイトセンターという減量指導施設を立ち上げたわけです。そこにはトレーニングマシーンもあれば、お医者さまもいる。管理栄養士がダイエット指導もしてくれる。
知花 それ絶対、注目されますよ。
谷田 こうした流れから、体脂肪を管理するという考えが生まれ、家庭用の体脂肪計へとつながっていきます。単に体重計を売ることから、ユーザーのダイエットをサポートするというコンセプトに発想を切り変えたことが、その後のタニタをつくりました。ちなみに体脂肪という言葉自体も、父がつくった言葉なんですよ。
武田 初代はヘルスメーター、2代目は体脂肪という言葉をつくり、それが認知されるにつれて、売り上げも伸びていったんですね。
谷田 家庭用の体脂肪計付きヘルスメーターを、世界で初めて発売したのが1994年。1997年には、ヘルスメーターの売り上げ世界一を達成しています。欧米でも、Body Fat Scale として取り扱っていただきました。
タニタ創業者であり、「ヘルスメーター」の名付け親でもある谷田五八士。
谷田昭吾さんのセミナー風景。タニタ創業者・谷田五八士の孫にあたる。
タニタ創業期の工場風景。
雇用を守る決意から生まれた社員食堂
知花 ビジョン、コンセプトときて、成長のポイントの3つ目は何ですか?
谷田 3つ目は、人へのこだわりです。経営が大変だった時代、最終手段として東京工場を秋田に移転したのですが、従業員の皆さんにもそれぞれ事情があって、異動してもらうことができなかったんです。やむを得ず再就職のお世話をさせてもらい、全員に退職していただく結果になりました。
知花 そんなこともあったんですね。
谷田 従業員は家族も同じという会社でしたので、父にとっては非常につらいことでした。自分の至らなさ、不甲斐なさで、たくさんの人に辞めてもらったと、涙を流しながら印鑑を押していました。
知花 涙を流して。
谷田 はい。その後、1999年にベストウェイトセンターの閉鎖が決まった時、もう2度とリストラはしないと、父は固く決意していました。施設で働く管理栄養士などの職員をどうすれば辞めさせずにすむかと、懸命に考えて思いついたのが、社員にヘルシーなランチをつくってもらうことでした。それがタニタの社員食堂の前身です。
知花 タニタ食堂は、社員の雇用を守るという、お父さまの決意から生まれたんですね。そのお父さまを見て育った谷田さんが、人材育成に関心を持つようになったのは、どういう経緯からだったのですか。
谷田 会社を大きく成長させた私の父を、祖父はどうやって育てたのか、何を伝え、どんな教育をしたのか、どう息子と関わったのかということに、すごく興味をひかれたんです。
知花 おじいさまの教育法で、これはと思うことはありました?
谷田 そういえば、うちはずっと家族会議というのをやっているなと。
知花 家族会議?
谷田 父たちが20代の頃から、男兄弟4人と祖父の5人で、2ヵ月に一度会議を開き、商品の強みや会社の役割について話をしていたそうです。父は昔から、「強みは何か」という話をすごくするんですよ。体脂肪計付きヘルスメーターをつくったのも、「体重計に何か強みをもたせないと、生き残れないと思ったからだ」とか。家族会議で話をするなかで、そういう考え方が祖父から父たちへと、伝わっていたのだろうと思います。
知花 家族会議で。
谷田 家族会議は一つの例ですが、人の考え方に影響を及ぼすのが教育です。家族の関係を通してそのことを強く感じ、私は人材育成の仕事に携わるようになりました。
知花 今、ヘルスケアオンラインでは、谷田家の経営や人材育成の考え方に、谷田さんが学んでこられたポジティブ心理学を交えて、講演や研修を行っておられます。企業研修ではどのようなことをするのでしょうか。
大切な人材を育てるという仕事
谷田 研修では、実践的なワークを通して、自分の行動パターン、思考パターンなどを炙り出し、振り返りをしていただくことが、一つの中心になります。自己理解とか自己認識とか、いわゆるセルフ・アウェアネスの部分が、すごく大事なんです。
知花 自分のことって、本人には意外とわからないものですよね。
谷田 自分がどんな時に幸せを感じ、モチベーションが上がるのかといったことは、人に聞いても、流行りのAIで調べてもなかなかわかりません。自分の思考や言動の傾向に、自ら気づいてもらうために研修を行っています。
知花 自分の弱点も見えちゃうってことですよね。ちょっときつい。
谷田 そう思われるでしょうが、弱点を自覚すると、自分の強みも同時に見つかったりするんですよ。そのためのワークをいろいろ用意しています。
知花 例えばどんな?
谷田 マシュマロチャレンジなんか、たまにやりますね。参加者を5人くらいのチームに分けて、各チームにパスタの乾麺を30本くらい渡します。そのパスタを、テープや紐を使って自立するように組み立てて、てっぺんにマシュマロを刺して高さを競うんです。
知花 あら、楽しそう。
谷田 このワークでは共同作業を通じて、1人ひとりの個性やコミュニケーションの傾向がわかります。仲間からちょっと引いて見ている人、積極的に発言しているけれど、仲間の意見は耳に入っていない人、みんなと声をかけあって連携を取ろうとする人、1人で黙々と作業に没頭する人。いろいろな人がいます。こうした傾向は、仕事の場でも同じように出てくるんです。だから研修で自己理解を深め、いろいろな場面で自分をより良く活かせるようになっていただきたい。
知花 私もワークがやってみたくなったところで、最後の質問にまいりましょう。100年後、ヘルスケアオンラインはどんな会社になっていてほしいですか。
谷田 その質問、僕個人への問いに置き換えて考えるなら、今後も研修や講演会を通して、多くの方々の成長を応援していきたいと思います。どんなにテクノロジーが発達しても、AIだけで人を育てることはできません。だから人材教育に携わる人も、もっと増やしたい。今から100年後、もちろん僕は存在していません。でも人が大事だという「思い」は、会社のDNAとして引き継がれていることを願っています。
会社情報
ヘルスケアオンライン株式会社
ゲスト
谷田昭吾(たにだ・しょうご)
株式会社タニタの創業ファミリー。同社の営業・新規事業・新会社立ち上げ、海外における役員経験を経て独立。谷田大輔氏(株式会社タニタ前代表取締役社長)の最も近くでその経営学を学び、赤字企業だったタニタを成長させた「タニタの成功法則」を受け継いできた。独立後は参加者累計22,000人を超える講演会や研修だけではなく、複数の大学の授業も担当するなど、そのエッセンスを多くの人に届けるべく活動を拡げている。