JOURNAL とは?

1996年、学生ベンチャー[エイベック研究所]としてインターネットの大海に船出したクオン株式会社。世界の誰もがつながりうる社会に「コミュニティ(多様で生き生きとした、高品位な双方向ネットワーク)」を実現すべく、目まぐるしい技術革新や経営環境の変化に対応しながら、今日まで航海を続けてきました。このJOURNALは、ソーシャルメディアの台頭に見られる「つながる時代」に、ネットワークのクオリティ(Quality Of Network)の追求が重要なテーマと考えて社名に冠した、クオンの代表 武田隆が、各種メディアでの対談を通じて多くの企業経営人やアカデミアなどの識者から得た「学び」を掲載した「クオンの航海日誌」であると同時に、今もなお多くの人々にとって“気づき”につながる示唆を含んだ「知の議事録」でもあります。JOURNALの2本の柱「企業の遺伝子」「対談:ソーシャルメディア進化論」に通底する、事物の「量」では計りきれないその多様な内容に向かう眼差しが、インターネット時代を生きる皆様の羅針盤になれば幸いです。

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企業の遺伝子とは?

全国に546万社以上あると言われる日本の企業。そのそれぞれに理念、使命、時代を超えて受け継がれる個性があります。2012年から続くラジオ番組「企業の遺伝子」は、成長する企業の遺伝子の解明をテーマに、企業の経営者や社員の方をゲストに迎え私たちの心を揺さぶる色とりどりの企業の生命のストーリーを語っていただいく番組です。こちらのアーカイブでは、その内容を記事として掲載しています。 さらに書籍化した『企業の遺伝子』も、年に一回発刊しています。
(「企業の遺伝子」プロジェクトの詳細はこちら

絵はがきの一部であり続けたい

江ノ島電鉄

<ゲスト>観光企画部課長 村上 聡さん

※2020年 収録

湘南を走り続けて120年、時代の移り変わりとともに新しい挑戦を繰り返してきた江ノ島電鉄。
変わらないのは地域に寄り添い、共に美しい風景を守るという強い覚悟です。

知花 「江ノ電」は多くのドラマや映画に登場していますね。神奈川県にある鎌倉駅と藤沢駅
を結ぶ、およそ10キロの路線です。

武田 海沿いを走るレトロな車両と自然豊かな風景が絵になりますよね。

知花 その江ノ電を運行しているのが江ノ島電鉄です。創業について教えてください。

村上 神奈川県会議員の福井直吉が江ノ島電気鉄道を設立したのが始まりです。開業したのは120年ほど前の1902(明治35)年。まず江の島近くの「片瀬―藤沢」間が開通し、1910年には、鎌倉から藤沢までの全線が開通しました。当時は、鉄道を開業してその周辺に電気を供給し、まちづくりをしていく時代でしたので、藤沢と鎌倉の間を開発する目的もありました。

武田 明治時代には阪急電鉄の創業者・小林一三や、東急電鉄の開業に尽力した五島慶太も電気鉄道を中心としたまちづくりを始めましたよね。

知花 今は「江ノ電」と聞けばレトロでほのぼの、というイメージがありますが、当時、電気鉄道を開通するということは先進的だったんでしょうか?

村上 はい、まだ蒸気機関車が主流でしたから、電気鉄道は珍しかったですね。江ノ電は日本で六番目にスタートした電気鉄道です。

江の島に平和のシンボルを

知花 江ノ電開通当時の江の島や鎌倉は、どんなエリアだったんですか?

村上 江の島は江戸時代から観光地として賑わっていましたが、明治になると海水浴の文化も生まれて、避暑地として人気が高かったそうです。外国人の方もお住まいだったとか。

知花 もともと豊かな土地柄ですね。古い町並みも美しいですものね。

村上 あの一帯は、鎌倉幕府の時代から続く文化や遺産を守りながら、明治時代にはどんどん新しいものも入ってきました。新旧が絶妙なバランスで混在する、そういうDNAがあるエリアかもしれませんね。

知花 今日は、当時の様子がわかる資料として、江ノ島電鉄の百年史をお持ちいただいたのですが……ぶ、分厚い! 写真もたくさん載っていて、立派な資料ですね。

村上 古い写真や映像をお持ちの方が地元に多くいらっしゃって、ご提供いただきました。

武田 当然、江ノ島電鉄は第二次世界大戦も経験しているわけですよね。

村上 はい、それ以前には関東大震災も経験しています。紆余曲折がある中で、どうにか100年以上にわたって事業を営めたという感じですね。

武田 困難があっても走り続けたんですね。百年史を見ると「平和塔」が何度も出てきますが、江ノ島電鉄の歴史の上で重要な存在なのでしょうか。

村上 「平和塔」は江の島の頂上に以前あった旧展望灯台の名前です。第二次世界大戦後、江の島に平和のシンボルを建てて地域の観光業を活性化しようということで1951年に誕生しました。江ノ島電鉄が観光に乗り出す最初のきっかけですね。当時はまだGHQが日本を監視していて、最初は塔の建設に反対があったと聞いています。

武田 どうして反対されたのでしょうか?

村上 歌川広重の浮世絵にも出てきたほどの歴史ある景勝地に大きな構造物を建てるのはどうなのか、と。当時の役員がGHQの方を現地に招いて、景観に影響がないことや、平和国家のシンボルを建てたいという思いを伝えたそうです。世田谷区の二子玉川で陸軍が落下傘訓練をしていた塔の主部材を活用し、観光振興と平和への願いを込めて、展望台を有する平和塔を建設しました。

知花 もとは軍の落下傘の訓練塔だったものが、平和のシンボルになったんですね。

困難を乗り越え続けた120年

知花 創業120年を迎える江ノ島電鉄ですが、転機はありましたか?

村上 まずは昭和30〜40年代のモータリゼーションですね。高度経済成長によって国民が自家用車を持つようになり、鉄道会社はどこも苦しんだ時代でした。ドライブが主流になり、江ノ電を利用する観光客が減って、経営はかなり落ち込みました。廃線の話まであったと聞いています。

知花 廃線ですか! そこからどうやって乗り切ったんですか?

村上 多くの人が車で江の島に来ると道が渋滞して、バスも遅れがちになりました。そうして、時間に正確な電車が見直されるようになったようです。

知花 なるほど。今でも、時間に遅れたくない時は電車に乗りますもんね。

村上 それから昭和51年に『俺たちの朝』というテレビドラマが始まりました。勝野洋さん主演で、舞台は江ノ電の「極楽寺駅」周辺。これが大ヒットして、極楽寺観光を目当て に江ノ電に乗るお客さまが増えたんです。そこから観光鉄道として復活していきました。

武田 今でいう聖地巡礼だ。やっぱり人が動くと鉄道は生き返るんですね。

村上 もう一つの危機は、昭和の終わりから平成初期のバブルが弾けた頃、江の島の人気が落ちたことです。もう湘南の時代じゃないよねという声があり、観光客が激減しました。

知花 この時はどう盛り返したんですか?

村上 2000年に、当社の100周年記念事業として、先ほど話に出た江の島展望灯台を建て替えることにしました。塔が移設されてから50年が経って、メンテナンスも大変な状態だったのですが、地元の方からはなんとか江の島のシンボルを残したいと応援していただき、地域をあげた大規模事業になりました。こうして新しい展望灯台「江の島シーキャンドル」がオープンすると、江の島の観光は息を吹き返しました。

海辺を走る金色のラッピング車両

知花 私が江ノ島電鉄の歴史で驚いたのが、1964年に自動車学校を設立されたことです。

武田 鉄道がモータリゼーションの波に押されて危機に陥ったのに?

村上 はい。そこであえて自動車学校の開校に踏み切りました。当時まだ珍しかった託児所も併設して。

知花 託児所!進んでいますね。

村上 女性ドライバーが増えるだろうと見越して設置しました。昔から新しいことに対して抵抗がなかったんでしょうね。百年史を見るとチャレンジ精神に溢れているのがわかりますが、それは今も社風として引き継がれていると思います。

知花 ほかにも江ノ電が先駆けたことがあるんですよ。武田さん、想像がつきますか?

武田 ……なんだろう?

知花 ラッピング車両です。最初につくったのは江ノ電だったんです。

武田 車両の外側すべてをまるまる広告にするアレですか。

村上 昭和50年代前半に初めて車両をラッピングしました。江ノ電が海辺を走るので、サンオイルの会社から広告依頼があって、車両全体を金色に塗りました。

武田 ピカピカに光る江ノ電(笑)。

村上 昭和50年代前半にはサウナも開業しています。皆さんサウナの入り方もわからない時代だったのですが。

武田 すごいですね。でもチャレンジには、失敗がつきものですが。

村上 失敗もたくさんあります。ただ、うまくいかなければ2年ぐらいでぱっと撤退しているんですよね。だから傷口が大きくならないのでしょう。

知花 チャレンジ精神と撤退する時の潔さが120年という歴史につながったんでしょうね。
江ノ島電鉄1929(昭和4)年に導入された100形ボギー車。

1929(昭和4)年に導入された100 形ボギー車。この後、江ノ電線を軸にさまざまな事業が展開していく。

1958(昭和33)年頃、現在の七里が浜高校付近を走る江ノ電。

1958(昭和33)年頃、現在の七里が浜高校付近を走る江ノ電。

江の島の展望灯台の建て替えで、新旧2 つの灯台が並んだ貴重な姿。「江ノ島電 鉄フォトコンテスト」に寄せられた作品。

左/江の島の展望灯台の建て替えで、新旧2 つの灯台が並んだ貴重な姿。左が新しく誕生した「江の島シーキャンドル」。
右/美しい景色とともにある江ノ電。「江ノ島電鉄フォトコンテスト」に寄せられた作品。

地域の力で灯した江の島シーキャンドルの光

知花 村上さんは1996年に江ノ島電鉄に入社されたそうですね。

村上 はい、私は観光に携わりたくて入社したのですが、最初はまったく違う財務の仕事をしていました。四年ほど経って、江の島内の施設を運営する観光課に配属されて、先ほど話した旧展望灯台(平和塔)の建て替え事業に関わりました。

知花 建て替えにはご苦労されたとか。

村上 そうですね。あれだけ大きいものを建て替えるわけですし、江の島は昔からの景勝地なので、規制も厳しいんです。例えば「島と富士山が並ぶという景観が保たれているか」なども考えないといけません。それから、江の島は埋蔵文化財の包蔵地(ほうぞうち)でして。

知花 包蔵地?何ですか、それは。

村上 江の島の頂上には、縄文・弥生時代の遺跡が眠っているんです。

知花 遺跡!縄文時代から江の島には人が住んでいたということですか。

村上 そういった場所なので、建て替える前にまず試し掘りをしないといけなかった。すると本当に土器が出てきちゃいまして。出てくると、建てる側が費用を全部出して発掘調査をしないといけないんです。あの時は本当に焦りました(笑)。

知花 それは思いもかけないハプニングですね。

村上 もう一つ大変だったのが、灯台というのは、火を消すことができないんです。ですから、建設にあたって旧展望灯台(平和塔)を稼働しながら隣に新しい展望灯台「江の島シー キャンドル」を建てて、完成してから灯台の光を移しました。次々と難題が出てきましたが、藤沢市、観光協会、地元の方たちが団結して江の島を盛り上げようとしていて、各方面が素晴らしい動きで助けてくれたんです。当時のことは忘れられません。完成し た時は涙が出るほど嬉しかった。

目指すのは住民との距離が近い観光

知花 いろんな困難があったけど、建て替えは大成功だったんですね。

村上 そうですね。老朽化した灯台を解体するという話が持ち上がった時、地元の青年会議所の方たちが灯台を残すために立ち上がり、藤沢駅前で市民に一つ1,000円で電球を買ってもらって、その電球を使って旧展望灯台でイルミネーションを始めました。それが江の島シーキャンドルでも続いていて、毎年冬の恒例イベントになっています。

武田 今でいうクラウドファンディングみたいですね。

村上 まさにそうですね。この時期に地域が力を合わせて島の活性化のために頑張ったことで、観光業は大きく変わりました。灯台を建て替える前は、江の島の頂上まで行く人が年間15万人程度だったところ、建て替え翌年に50万人まで伸びて、現在は100万人ぐらい。一般的に、新しい施設ができたことによる集客効果はすぐになくなってしまいますが、江の島の場合は今でも来客数が伸び続けている珍しい例です。

知花 地元の方とのつながりが印象的ですね。

村上 そうですね。江ノ島電鉄には、とにかくみんなで地域を盛り上げていこうという思いがあります。江ノ電グループの経営理念は「この地域に集う人々の、『かけがえのない時間(とき)』『やすらぎの心』『ゆたかなくらし』の実現に貢献します」というものです。「この地域に集う人々」には、住民、観光客、取材してくださるメディアの方々なども含まれています。

知花 私は沖縄出身ですけど、観光ってどうしても、地元の人からすると置いてきぼりにされている感じがある。でも、江ノ島電鉄の取り組みはそれをまったく感じさせないですね。

村上 ありがとうございます。ただ海外からのお客さまがたくさん来てくださるようになって、かなり混雑する日もあります。やはり一番は地元の方がきちんと楽しめる仕組みをつくりたいということです。住民の皆さんとの距離が近い観光を目指したいですね。

堅実に、謙虚に、街づくりを支える

武田 住民の方々との関わり方で工夫されていることはありますか?

村上 心がけているのは、地域と一緒に取り組む機会を持ち続けることです。例えば、2015年に「かまくら長谷の灯かり」という夏の夕涼みイベントを始めました。八つの寺社仏閣と施設で同時にライトアップするのですが、実行委員会の事務局を江ノ電が担当して、お寺や神社、施設、地元の商店街や町内会の方には委員として参加していただいています。

武田 チームビルドですね。

村上 そうです。さらに、こうしたイベントを開催する時に、地元の方だけが特別に楽しめる参加型の企画も用意するようにしています。例えば、ちょうちんを持ってお寺めぐりをするツアーを開催したり、町内会の皆さんに神社でのお囃子をお任せしたり。参加してもらうことで、少しずつ関係性も深まってきていると感じています。

武田 なるほど、一緒に参加できるようにファシリテートしているんだ。

村上 鉄道会社なので、何かあった時、線路を畳んで逃げるわけにはいかない。とにかく地元の方と一緒になって、地域を盛り上げていくことで事業が継 続していく。我々が進んで地域の中に入っていかないと、と思っています。

知花 120年もの歴史があるし、もう江ノ電あっての湘南エリアですよね。

村上 今、当社では「絵はがきになる江ノ電へ」というサービスコンセプトを打ち出しています。絵はがきの絵柄や写真って、その地で受け継がれてきた歴史文化や景観が表れていますよね。江ノ電と聞いた時に、電車だけではなく、そうしたエリアの美しい景色や文化も思い浮かべていただきたいんです。

知花 「絵はがきになる江ノ電へ」、とても素敵ですね。

村上 クリエイティブなお仕事をされている方が多い地域なのですが、絵描きさんや写真家さんが作品の中で、江ノ電を景色の一部として取り上げてくださるのがありがたいです。いつまでも絵の中の一部として、江ノ電がちょこんとあればいいと思っています。

100年後も変わらない存在でありたい

知花 IT化をはじめ時代が急速に変化する中で、江ノ電はほかでは得がたいレトロな雰囲気を残してくださっていますね。

村上 意志を持って残していかないと、という思いです。湘南エリアでも最近は古民家カフェとか、古いものをリノベーションして活用されるお店が増えています。使い込まれたもののかっこよさを、私たちも常に心に留めておきたいですね。

知花 では、最後の質問です。村上さんの考える江ノ島電鉄の100年後の姿とは?

村上 朝、散歩すると、みずみずしい空気に溢れている。夕方には富士山を背景に陽が沈む。江の島や鎌倉の町を、住民も観光客も楽しんでいて、その風景の中を江ノ電がゆっくりと走っている。そんなふうに、今と変わらない存在であり続けてほしいと思います。

会社情報
江ノ島電鉄株式会社

ゲスト

村上 聡(むらかみ・さとし)

1996年入社。経理部を経て2001年、江の島・片瀬海岸再整備プロジェクトチームの一員として、江の島展望灯台(現江の島シーキャンドル)の建て替え事業をはじめ、江の島頂上部や、片瀬海岸エリアの再整備事業に携わる。2014年6月に観光企画部課長に着任し、江の島・鎌倉エリアの観光振興に尽力。2021年4月より事業部専任部長として、江の島の観光事業に携わっている。